小シマロン国の聖砂国行きの船は、出港寸前に四人の乗員が増えて、突然船の数が減り、突然旗艦まで貨物船に変更することになった。
サラレギー王によると、それでも大きな問題はなく進んで行けるということだった。
「物事なんて、予定通りに進むことのほうが珍しい。だけどこれはさすがに想定を超えすぎたけれどね。もし船が沈むことがあるとすれば、それはこちらの貨物船で、金鮭号ならどんな海流でも乗り越えられると信じていたのに」
そう語ったサラレギー王は、肩をすくめながらそれでも反乱の衝撃からは立ち直っていたようだった。
出港間際のクーデター騒ぎでたった一隻になってしまった貨物船。いまや王様の乗艦することとなった船の周囲には、数隻の中型軍艦が並走している。
外洋に出ていて騒ぎに巻き込まれなかった船を、急遽呼び寄せて護衛にしたのだ。
あちらに移乗するのかと思ったのだけど、元々聖砂国まで行く予定のなかった船なので、この貨物船のほうが積荷の準備が整っているとかでサラレギー王は移乗しなかった。



097.夕暮れの海



ひとり甲板の柵に頬杖をついて、忙しかった一日を思って、日の暮れかけた赤黒い空と黒い影になりつつある護衛艦をぼんやりと眺める。
髪に絡まった釦を有利に外してもらって、身体が温まってからお風呂から上がると、急いで整えたという部屋がもう用意してあった。
有利はサラレギー王と一緒に艦長の部屋を、わたしには士官の人の部屋を。
急に部屋から追い出すことになってごめんなさい、と謝りたい気持ちになるより先に、わたしも有利もその部屋割りに驚いた。
「え!?おれ、サラと一緒の部屋なの?も、申し訳ないよ。は女の子だからご好意に甘えさせてもらうとして、居候なんだしおれはヨザックや他の船員たちと雑魚寝で充分……」
「まさか!ユーリを兵士たちと同室になんてできるはずがない」
「いやでも、申し訳ないし……」
「えー、陛下。さすがにそれはオレもどうかと思います」
「ヨ、ヨザックまで……」
国の威厳とか、そういう問題もあるんだろう。
言葉を濁すヨザックさんに代わってわたしが進み出る。
「有利をサラレギー陛下に押し付けるわけにはいきませんもの。兄とわたしを同室にしていただければ問題ないかと思います」
「そうだよな、そっちのほうが妥当……」
有利は一も二もなく頷いたけれど、この提案にもサラレギー王は難色を示した。
「ユーリとを同じ部屋に?だけどいくら兄妹とはいえ、男女がひとつの部屋に居住するというのはどうだろう?」
「いや、ほら、今は非常事態だから……」
「私は女性にはひとりで寛げる時間や空間というものが必要だと思うんだ。けれど私たちは男同士だもの。そんなに気を遣う必要はないし、それに言ったよね。私はユーリと仲良くなりたい。それには長い船旅はぴったりじゃないか」
有利はぱくぱくと口を開閉させて何かを言おうとしたけれど、結局なにも言わずに肩を落として頷いた。
「それじゃあ……迷惑をかけるけど」
これが血盟城の人たちなら、わたしと有利が同じ部屋でも気にしないだろうけれど、他国の王様の前ではそうはいかない。はしたないと思われることは、眞魔国の名誉にも関わる。
「迷惑なんてとんでもないよ。私こそ、もしかして無理を言ったのかと心配していたんだ」
「無理だなんて!無理を言ったのは乗せてもらったこっちのほうだ。いびきとか歯軋りとかをしないように気をつけるよ」
「いびき?歯軋り?ユーリが?」
有利が冗談でも言ったと思ったのか、サラレギー王は笑いながら首を傾げた。
そういうわけで、有利はサラレギー王と同室になった。わたしの部屋はそこから一番近い、だけど廊下の角を曲がって少しだけ離れた士官用の個室。
……そしてコンラッドの部屋がその向かいにある。
コンラッドは大シマロンからの使者ということで、やっぱり個室をもらったわけなんだけど、サラレギー王の護衛もすることになっているから、王の部屋に近いところになるのは当然だ。
だけどこれには有利もヨザックさんもいい顔はしなかった。……他国の船に居候中の身なので反対もしなかったけれど。
かくしてヨザックさんは、有利のいる部屋とわたしのいる部屋のどちらの扉も見える廊下の角でずっと待機するという羽目になってしまった。


「……どうしてこんなことになったんだっけ……」
手摺りに頬杖をついたまま溜息を漏らす。
ずっと一人で部屋に篭っていると息苦しくて、だけど有利の部屋にはサラレギー王がいるから、気を紛らわせるための雑談に行く気にもなれない。
元気があれば廊下に出てヨザックさんと雑談していればよかったんだろうけど、そんな気にもなれなくて、結局あっちの部屋で起こった騒ぎにヨザックさんが廊下からいなくなった隙を狙って一人で甲板まで上がってきてしまった。ごめんなさい、ヨザックさん。
ぼんやりと日が沈んでいく赤い空と海の境界線を見ていた。
太陽の明かりが届く範囲はどんどん狭くなっていって、反対に闇が上からのしかかるように夜が広がってくる。
長い航海の一日目の夜が、始まろうとしていた。
「帰るはずだったのにな……」
今度のスタツアでは何の失敗なのか、小シマロンの首都に出てしまった。
コンラッドに保護してもらって、馬を乗り継いで走り続けるという強行軍で旅をしたのは、眞魔国に帰るためだった。
それなのにいつの間にかどんどん眞魔国から離れて行っている。
それに不満があるわけじゃない。
有利が危険な目に遭うことは、もちろんとてもじゃないけど受け入れられない。
それなのに、わたしはこの旅が続いたことにどこかでほっとしている。
喜んでいる。
潮風に飛ばされないよう、上着をぎゅっと握り締めた。
コンラッドの傍にいる時間が延びて、それが嬉しい。
「つくづく愚かな人ですね」
別れの間際に呆れながら言われた言葉が耳に残っている。
きっとコンラッドの言う通りなんだろう。いらないと言われて、何度も置いて行かれて、それでもまだ追い縋ろうとしているなんて、きっと馬鹿だ。
「……馬鹿でいい」
目を閉じて、手摺りを握った手の上に額を当てる。
馬鹿でいい。愚かでいい。だってわたしはまだコンラッドのことが好きだから。
好きだということをコンラッドに悟られさえしなければ、迷惑にもならないはずだから。
わたしはまだこの想いを捨てられない。区切りなんてつけられない。
「……コンラッドだけじゃなくて、有利とヨザックさんにもあんまり見せないようにしないと」
ただでさえ他に気を配ることが多すぎるのに、わたしのことでまで煩わせられないな、と溜息をつきながら目を開けて、視界に広がった光景に目眩がした。
高い、高い甲板から、波打つ海面が遠くに見えて。
血の気が引いて、手摺りを握ったまま逃げるように身体が後ろに下がった。
あまりに勢いをつけすぎて手摺りを握った手が離れ、尻餅をつくように甲板に座り込む。
傍に何もない状態が怖くて、すぐに縁に身体を寄せて、自分で自分を抱き締めるように両腕をぎゅっと握り締めた。
見上げる海面がどんどん遠くなって、周りは暗い闇に包まれる。わたしが落ちた距離はそれほど深くないはずなのに、まるで水圧が掛かってきたかのようにすべての方向から身体が圧迫されて……息、が……。


!?」
腕を引き上げられた。
暗い、黒い夜の空が映るはずの目の前に広がったのは、茶色の髪と瞳を持つ、人。
「一体どう……!息をして!!」
ほんの少しだけ強く頬を叩かれた。
人の手が、頬に触れて……熱が伝わる。
途端に肺に空気が入り込んだ。
まるで喉に詰まった餅を吐き出したみたいだった。
急に息を吸ったせいで軽く咳き込んで丸めた背中を、大きな手が宥めるように擦っている。
「大丈夫だ。ゆっくりと息を吸って……そう、上手だよ。身体の力を抜いて……俺にもたれて、気を楽にして。俺が傍にいるからね。ゆっくりと息を吐いてごらん、大丈夫」
目を閉じると心地良い声だけが聞こえて、視界が塞がっても温かい熱が傍にあった。
……そう。大丈夫だ。ここは暗い水底じゃない。
ようやく息が整って、ゆっくりと目を開けるとそこには白と黄色の軍服があった。
「…………っ!」
驚いて手をついて身体を起こすと、コンラッドも驚いたように目を丸めた。
そして、宙に浮いていた手を引いて溜息をつく。
「何があったんですか?」
「な……に……って」
え、い、今、コンラッドにだ、抱き寄せられて……たの?
だ、だってさっき引いた手って、あの、背中を撫でててくれた、あの温かい手だよね!?
今の関係からはありえないはずのことにパニックになって左右を見回すけど、この状況を説明する何かが周りにあるはずもない。
それなのに、コンラッドは急に顔色を変えてわたしと同じように辺りを見回す。
「船員に何かされたんですか?どこかへ逃げた?」
「え、ち、違う、違います!な、何もなかったです!」
「何もなかったはずがないでしょう。さっきあなたは自分の意志ではなく呼吸ができない状態になるほどのショックを受けていたじゃないですか!………まさか」
「まさかって!?え、呼吸ができない?な、何もなかったの、本当に!」
よく判らない話に混乱しながら、今にも剣に手をかけてどこかへ行ってしまそうな雰囲気のコンラッドの服を慌てて掴む。
「ですが」
「本当に!こう、手摺りを持ってぼんやり景色を眺めていただけで!それで、俯いてすぐ下の海を見たら、急に怖くて、苦しくなって……それで……」
「判りました!もういいです。思い出さないで!」
肩を強く掴まれて、引き摺り上げるように上を向かされて、初めて自分の目が回りかけていたことに気がついた。胸の辺りを強く掴んで、まるで息苦しそうな姿勢で。
コンラッドは、額を押さえて深い溜息をつく。その様子は今度こそ明らかに呆れていた。
「海に落ちたその日に、甲板からまた海面を覗く人がありますか」
「え……?」
「自覚がないんですね……重症だ。あなたは海を恐れているんですよ。危うく沈みかけたのだから当然のことですが……それなのに一人でまた船縁に近付くなんて、どうかしている」
「……海を」
恐れていると言われても、遠くを眺めているときは何ともなかったのに。だけど俯いて、船のすぐ下を見たときは……思い出したらまた目が回った。
くらりとした額を押さえて縁にもたれかかる。
目を閉じた向こうから、またコンラッドの溜息が聞こえた。
「ヨザックは……護衛はどうしました?もう日が落ちるというのに、他国の船の中を一人でフラフラと出歩いているなんて」
「だってヨザックさんには有利の傍にいてもらわないと……」
護衛と聞いて、閉じていた目を開ける。目の前にはコンラッド一人。サラレギー王はどこにもいない。
「コンラッドだって、サラレギー王の護衛をするはずだったんじゃないの?」
言ってしまってから、それが酷く卑屈な言葉に聞こえて自己嫌悪してしまう。
だけどコンラッドは顔色ひとつ変えずに、ただ軽く肩を竦めただけだった。
「他国の船を、と言ったでしょう。サラレギー王にとっては自分の船です。それも乗船する船は違うとはいえ長旅の従者に選抜するほどの者達ばかりだ。誰に襲われると言うんです」
「そ……そんなこと言ったら、わたしだってサラレギー陛下の許しで船に乗せてもらったお客だもの。急に剣を向けられたりなんてないはずだし」
馬鹿にされてつい言い返すと、コンラッドはぎゅっと眉間にしわを寄せて厳しい表情になる。
「表向きはそうです。ですが誰しもが衝動的に湧き上がる欲望まで押さえ切れるとは限りません」
「……急に殺意が沸くほど、魔族が憎まれているってこと?」
小シマロンや他の国と眞魔国との戦争は二十年ほど前にあったことだ。戦争の経験者やその家族がこの船に乗り込んでいることは充分に考えられる。
初めて見た相手を急に傷つけたくなるほどの敵意というものは、どうしても実感が持てないけれど、それはわたしが今までは平和に生きてきたからだ。
だって……そうだ、わたしだってコンラッドを傷つけた仮面の男たちを見たとき、押さえ切れない怒りと恐怖を感じたんだもの。そういうことだってあるだろう。
まして、わたしは魔族の頂点に立つ有利の妹なんだから、憎まれるだけの理由は充分にあると言ってもいいのかもしれない。
だけどコンラッドは、まるで何も判っていないとでもいうように、俯きながら額を押さえて頭を振った。
「……そういう理由でもいいですから、どうか一人で出歩かないでください。魔王陛下でも、ヨザックでも、とにかく誰かと必ず一緒に行動して。その二人がどうしても一緒に行動できないときは、俺に声をかけてください。絶対に!」
「で、でもコンラッドはサラレギー王の護衛だって」
「繰り返します。彼にとっては自分の船なんです。あなたにとっては敵国の船だ!自分の身の上を自覚しなさい。俺が傍にいることに耐えられないというのなら、距離を空けます。とにかく、どこにいるのか誰にも判らない状況だけは作らないようにすると約束してください。あなたの護衛もそれだけは同意するでしょう」
「……ヨ、ヨザックさんにも同じことを言われたら……そうする」
ぎゅっと手を握り締めて、コンラッドを下から伺うようにそう言うと、頷いて立ち上がった。
「部屋に戻りましょう。お送りします」
そう言って、先に立って歩くコンラッドの後についていく。
コンラッドが背中を見せると、緩みそうになる口元を押さえ切れなくなって、両手で隠すように覆った。
コンラッド自身から、コンラッドに声を掛けるようにと言い聞かされた。
コンラッドの言い付けは、トラブルを回避したいだけのことなんだと判っているけど、それでもどうしても嬉しい。
「……馬鹿だな」
判ってる。わたしの気持ちと、コンラッドの考えはまったく噛み合っていないと、判ってる。
きっと後でそれを実感して、またがっかりして寂しくなるんだと、それも判ってる。
それでも、この旅の間は傍にいることができるのだと思うと、今はどうしても嬉しくて仕方がなかった。







すっかり海が怖くなってしまいましたが、まだ船旅は始まったばかりです。
コンラッドの傍にいられることを浮かれてばかりはいられない状況なのに、
つい喜びそうになってしまう……そんな状態でこれマ編がスタートです。


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