「着替えがあるといいんですけどねえ、着替えが。このけったくそ悪い色の服なんて姫には似合いませんしー」
ヨザックさんが、わたしの肩に掛けられていたコンラッドの上着を指で摘んだ。
わたしが海に落ちて沈んでいきかけた恐怖からどうにか立ち直ると、外套の下に着ていた比較的濡れがましだったこの上着を掛けてくれたわけなんだけど。
ちなみにわたし自身の外套は、どうやらいつの間にか剣だけじゃなく外套も留め金を外すことに成功していたらしく、海に沈んでいる。それが上手くいってなければ、今頃海の藻屑かスタツアか……さすがにその二択ならスタツアを選んでると思う。
「いっそオレの上着貸しますから、そんなもん脱いじゃってくださいよ」
「え、えーと」
「無理だヨザック。あんたの上着だとには着れないよ。だって匂いがついてるし」
有利の誤解を招きそうな解説に、案の定ヨザックさんは泣きそうな顔で拗ねた振りをした。
「ニオイー!?酷いわ坊ちゃん、昨日一緒に朝風呂に入った仲じゃないですか。それなのにオレがクサイと仰るんで?」
「い、いやそうじゃなくて。……でもその皮製の上着までは洗ってないだろ。あのね、長く使用してるものには、体臭が普通に移るだろ。はそういうのもあんまりだめなんだ。他になければ我慢するだろうけど、今はコンラッドの上着があるし。おれは上着を貸そうにも、おれ自身が薄着だからこれ以上は脱げないし」
「匂い……姫の前世ってひょっとして犬ですか?」
「そこまで敏感じゃありません!」
こういうのは、男同士は判らないんだろうけど、異性の独特の匂いというのは、臭いというのとは別に「男」ということが判るから苦手なだけで。
もー、有利が変な言い方をするからと怒ろうとしたら、後ろで深い嘆きの声が聞こえた。



096.濡れた髪(3)



「なんということだ……」
サラレギー王の深く沈んだ声に、わたしは反論しかけた言葉を飲み込むために両手で口を押さえた。
馬鹿な言い合いをしているどころじゃない。大変なことになってるのに。
振り返ると、サラレギー王は港を望む船尾のほうを向き、甲板に座り込んで細く白い繊細そうな指で顔を覆っていた。
「こんなことになるなんて……」
有利も真剣な表情でぎゅっと口を引き結び、サラレギー王の側に歩み寄る。
「ちっ……」
有利の後を追おうと思ったら、舌打ちが聞こえた気がして振り仰いだ。
ヨザックさんは面白くなさそうな顔で、冷たくサラレギー王を見ている。
「サラ……」
有利が慰めるように肩に手を置いて声をかけると、その両手をそっと降ろして顔を上げた。
「反対勢力はすぐに鎮圧されるだろう。それは判っている。ストローブは優秀な軍人だし、眞魔国艦の助力もある。奇襲に大きな被害が出たとはいえ、兵力には圧倒的な差がある」
「うん……」
「だが、わたし自身はこの貨物船で、しかも信頼する部下も連れずに初めての地へ向かうことになってしまった。この先どうしたら……」
向かい合う有利とサラレギー王の向こうに見えるのは、二隻の中型艦だけだった。
混乱する港を抜けて、結果的に旗艦となってしまったこの貨物船を護衛する船で、それは当初に比べるとぐんと少ない数だ。
「大丈夫だよ」
有利は困ったように、だけど精一杯サラレギー王を慰めようと肩を叩いた。
「大丈夫だよ、サラ。きっと何とかなる」
「ユーリ、それ以上にもっと恐ろしいことがある!」
サラレギー王は腰を浮かして身を乗り出すようにして、慰める有利の両手に縋りついた。
「わたしはあなたを死なせるところだった」
「どういうこと?」
「あなたが……あなたのご友人が射手に狙われたのは、恐らくわたしのマントをつけていたらだと思う」
「ああ!」
有利が納得したように手を叩く。
「射手に狙われた!?」
何それ。引きつるわたしに、ヨザックさんがそっと耳打ちして教えてくれた。
ヴォルフラムが危ないところだったって。偶然胸に入れていた分厚い毒女アニシナの文庫本のおかげで無傷ですんだけど、弓で射られていたなんて。
「あなたのご友人はわたしの代わりに胸を……もしも、あれを着ていたのがユーリ、あなただったら……わたしが……わたしがストローブに呼ばれた時、彼を呼び寄せていたら……いいや、せめてわたしが旗艦に乗り遅れたりしなければ……外洋に出てから乗り移ればいいだろうなどと考えず、金鮭号に乗船すればよかった!」
「……そうしたらきみが撃たれてたんだよ、サラレギー」
ヴォルフラムのことでは本当に驚いて、心配したはずなのに、有利はまるで萎れた花のように甲板に泣き崩れたサラレギー王の肩を揺すった。
「きみには毒女の守護がないから、下手をすれば命を失っていたかもしれない」
意味の判らないことを言われて一瞬だけきょとんとしたサラレギー王は、だけど瞬きをするとはらはらとそのメガネの下から涙をこぼした。
「大丈夫だ、サラ。ヴォルフラムは元気だし、深い傷も残らない。大丈夫なんだよ」
「後悔している、後悔しているんだ。わたしは何故あなたに服など渡したのだろう」
その言葉を聞いたとき、ふいに有利が渡されたサラレギーの王の服を、念入りに確認していたヴォルフラムの姿が脳裡によぎった。
どうしてヴォルフラムは、あんなにあの服を調べたんだろう。匂いまで嗅いで。
ヴォルフラムは、サラレギー王を警戒していた。
反対勢力を、燻り出すために攻撃されることを待っていたサラレギー王。自分が狙われていることは、知っていた。
「おれが寒そうだったからだろ?海を渡る風と日差しは厳しいから、親切心で貸してくれたんだ。ありがとう、嬉しかった」
「ユーリ……あなたは本当に優しい。わたしはあなたのご友人に……どう詫びたら……」
有利の手を握り、もう片手で顔を覆って嗚咽を漏らす姿は、非力で可哀想な少年にしか見えない。
有利は、本当に優しい。
わたしは混乱している。
自分を囮に反対勢力を燻り出し、自分が狙われていることを知っていたサラレギー王。
だけど、その反対勢力はあの町の宿を襲撃していた人数で全てだと思っていて、何者かに狙われることなんて、王であれば普段から考えることで、特別視なんてしていなかったかもしれない。
……判らない。
「わたしにできる償いはひとつだけだ」
やがて嗚咽が止み、サラレギー王がそっと顔を上げて有利を見つめる。
その声は、低く小さく、だけど決意に満ちている。
「わたしが、あなたと、あなたのご友人に対してできる償いは、この船を指揮し、あなたを無事に聖砂国へ送り届けることだと思う。それしかないと」
「サラレギー」
「向こうに着いてからの交渉は、眞魔国と聖砂国側の問題だ。わたしには何の力添えもできない。けれど、潮の流れに気を配り、海図や星を読んで海を越えることなら……波の果ての聖砂国の港まで、あなたを送り届けることならわたしにもできる」
真剣に、有利の目を覗き込むサラレギー王の姿に首を振る。判らない。考えすぎているのかもしれない。本当に、心の底から後悔しているようにも見える。
「どうだろうユーリ、これでは償いにならないだろうか」
「そんなに……思い詰めなくてもいいんだよ」
有利が優しく肩を揺すると、サラレギー王は涙の跡をようやく拭いた。
繊細そうな少年相手に、自分が酷く冷酷な見方をしているような罪悪感が湧き上がってきた。
どっちなんだろう。だけど、有利に危険が及ぶようなことだけは。
「ウェラー卿」
「はい」
サラレギー王がふいにその名前を呼んで、わたしも有利も小さく飛び上がった。
有利のすぐ後ろに歩み寄ったコンラッドの姿に、もうすっかり濡れてあの人の温かさなんて残っていない上着を握り締める。
こんな大変な時に、それでも少し元気があったのは、あの人がわたしを助けてくれたから。
心配して、抱き締めてくれたから。
さっきのことは、わたしが逃げ出したあの夜みたいな大シマロン的な打算なんて、きっと関係ないはずだと、信じてる。
少しでも、ほんの少しでも、コンラッドが個人として、わたしの命を惜しんでくれたのだと、信じて、いる。
「君も言っていたように、小シマロンにとって大シマロンは親のような存在だ。ベラール殿下から使者として遣わされた君は、現状を報告し、行き過ぎないよう監督する役割を担っている。そうだね?」
「ええ」
コンラッドは、無感動に低い声で頷く。
「同時に小シマロンの利権が侵害されないよう、力を貸す義務もある」
今度は、声に出しては返事も返さずただ頷いた。
「わたしは自分自身とユーリを聖砂国へ運ぶ。その途中でこの身に危険が降りかかる場合もあるだろう」
サラレギー王がゆっくりと甲板に立ち上がり、有利も一緒に腰を伸ばした。サラレギー王の視線はまっすぐにコンラッドに向かっていて、有利は僅かに視線を横にずらしている。
「わたしを、護ってくれる?」
コンラッドは目を閉じ、数拍の間を置いてから、頷いた。
「お護りいたしましょう。私の力の及ぶ限り」
コンラッドが護ってくれるのは、もう有利じゃない。
……わたしじゃないんだ。


急に上着を返さなくちゃという衝動が湧き上がって、肩からそれを下ろそうとした。
「いたっ」
「おっと姫」
髪が引っ張られて声を上げると、ヨザックさんが脱ぎかけた上着が落ちないように掴んで頭が引っ張られない位置に支えてくれる。
「あー、こりゃ髪が釦に絡んでますね。海水で濡れたから、このまま乾いたらごわごわだ」
「うう……船旅は潮風が友。髪が痛むのは覚悟の上ですけどー」
釦に絡んだ髪を抜こうと思ったら、小さな束くらいの数だったからそれは無理。
「ヨザックさん、はさみ持ってません?」
「ああ、はいはい。もちろん持ってますよぉ。美しい着こなしのためには常にサイズ変更に対応しなくちゃだめですから、針と糸と刃物は必須です」
ヨザックさんがごそごそと懐を探っていると、後ろから見覚えのある手が上着を掴んだ。
「釦を千切ります」
「どぉーも、ご親切にぃー。持ち主の許可が降りたところで、はさみで丁寧に糸を切るから手ェ放していただけませんかねぇ。それともその指ごと切っていい?」
ヨザックさんが、またまたあのロジャーラビットみたいな笑みでわたしの後ろを見てる。
うう……コンラッドがすぐ後ろにいるのが判る。距離が、近い。
「き、切るのは髪ですよ。切っちゃえば、絡んだのも外しやすいし」
「髪を切るなんて……」
「その髪を切るなんてもったいない!」
いつの間に来ていたのか、コンラッドとヨザックさんの間に挟まれたわたしの真横に現れたサラレギー王が二人の手を払って、コンラッドの上着の位置を保つようにしながら、片手でわたしの手を引く。
「あ、あの」
「わたしの部屋に行こう。座って落ち着いてゆっくりと解いていけば、髪も糸も切ることなく済むよ。ね、。わたしがしてあげるから」
「え、えええ?で、ですが、そんな陛下のお手を煩わせるのは」
「そ、そうだよサラ。そんな面倒そうなのはおれがやるし……」
慌てて追ってくる有利の後ろから、コンラッドとヨザックさんも大きく頷く。
「そういうのは従者の仕事ですから、取らないで下さい」
「釦を千切ればいい。あなたがた二人が、そんな上着に気を遣う必要なんてない。それに……殿下は身体を温めることを優先すべきだ」
サラレギー王は、煩わしそうに二人にちらりと視線を送る。
「わたしは少しでもと親しくなる時間を持ちたい。それに、釦の糸ではなく髪のほうを切るなんての気遣いを無にするような馬鹿な提案を繰り返さないでほしいね」
「いえ、あの」
髪を切ろうとしたのは、もう面倒というか、とにかく今は上着を返しちゃいたいからで。
わたしを引っ張り過ぎないように、速度を調節して歩くサラレギー王と、髪が絡まった上着のせいでちょっと前かがみ気味で歩くわたしと、その後をどうやって止めようかと困り果てながらついてくる有利と、コンラッドと、ヨザックさん。
奇妙な行進は船倉に下りる階段で一度一列になって、階段を降りきるとまた少し左右に展開した。
の気遣いより、身体を温めるのが優先という意見は正しいしさ、なあサラ」
「じゃあ、わたしの浴槽を使えばいいよ。海の上だから水には限りがあるけれど、風呂の湯は海水を濾過したものを沸かすから、真水ほどでなくても随分ましだから安心して。もちろん、そんな風呂を船で使えるのは、わたしとユーリ、あなたとだけだよ。は浴槽で身体を温めて。わたしがその間、側で髪を解いてあげる」
「……え?」
わたしも含めて、四人の声が重なった。
「わたしが解いてあげる」
「聞き返したの、そこじゃなくてさ!」
有利が悲鳴を上げた。
「か、髪!髪を切ります!もう切る!」
「だめだよ、わたしの好きな髪を切らないで」
「うちの姫は純情なんでー!」
「もちろん、わたしは髪と釦に集中するからは見ないよ」
「それ以前に、女性の入浴について行くというのはどうかと思います」
「それなら他にもっと優れた解決方法を教えてもらいたいね」
「サラじゃなくて、おれがやるから!」


「……長い旅の船でこんなお風呂に入れると思わなかった」
「そうだなー」
バスタブに浸かって呟くと、そこに腰掛けて絡んだ髪と釦と格闘していた有利は生返事を返してくる。
「サラレギー王って変……」
「そうだなー……ってこらこら、世話になってんだから、せめて世間知らずというくらいにしとけ」
「……有利は、サラレギー王を信じてるんだね?」
「うん。きっとさ、帝王学とかで国を護る術は知ってるんだよ、サラは。でも自分自身を護ることには頼りないんじゃないかな」
「そう……うん、きっとそうだね」
自分を護るために、有利を使おうとしたなんて、きっと、偶然……だといい。
ここは逃げ場なんてない、海の上なんだから。

「ん?」
「ここにはおれしかいないからさ」
僅かに首を傾けて、真上を仰ぎ見ると湯気の向こうで有利が泣きそうな顔で微笑んだ。
「泣きたかったら、泣いてもいいんだぞ?」
有利のほうが泣きそうだよ。
そう言おうとして、有利は泣けないんだと気が付いた。
「………泣かないけど、膝を濡らしちゃって、いい?」
「好きにしなさい」
バスタブに座って、膝に置いたコンラッドの上着をずらして、軽く叩いて招いてくれる。
「有利、お兄ちゃんみたい」
「あの変態と一緒にするな」
低く掠れた声で、本気で嫌がる有利に笑って、濡れると判っていてその膝に頭を預けた。
冷たい海の上で、温かいお風呂のお湯の中でゆらゆらと揺れて濡れながら。
側にいる、大切な人の温かさを確認するように、目を閉じた。








不安だらけの旅のスタートの中、原点は有利を守ることだと。
聖砂国行きのメンバーが確定したところで、めざマ編は終了です。



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