小シマロン王が隠し通路から宿を出ようとユーリに誘いかけると、が不安そうに眉を寄せた。
「外で戦っている人たちは、このままなんですか?」
他に道はなかった。があの戦闘の最中を通ってきたのだろうことは予想していた。
だがやはり、改めてがあれを見たのだという事実に思わず瞑目してしまう。
サラレギーは気にした様子もなくを宥めて、ユーリの手を掴んで抜け道の暖炉へと飛び込んだ。
「有利!」
すぐに後を追おうと暖炉へ続きかけたの手を掴んで引き止める。
「どうして、あなたがここにいるんだ」
は旅の間のことが頭にあるのか、怯えたように首を竦めて、ゆっくりと振り返った。



EXTRA7.選べなかった未来(10)



「あれほど外へ出るなと言っておいたのに……」
旅の途中で逃げ出した時もそうだった。俺がどれだけの安全を考えても、は言うことを聞いてくれない。
俺が信用できないことは判る。だが少なくともこの旅の間、危害を加えるようなことはしていないのに、それでも駄目なのか。
小シマロンの者の目がなくなって、ようやくと話すことができる。
そう思って危険な行為を戒めようとすると、困ったように眉を下げたが何か言いかけたところで、小さな悲鳴を上げた。
「だ……だって……いたっ!」
痛みに耐える表情に思わず手を離してしまった瞬間、すぐ傍にいたはずのその姿が後ろへと下がった。
「大シマロンの御仁が、うちの殿下に気安く触れないでいただきたいね」
「ヨザック」
先ほどは重要な場面でうかうかとを逃がして危険なことを許したというのに、こんな時ばかり。
後ろからを引き寄せる腕に苛立ちを覚えて睨み付けるが、ヨザックは油断ない笑みで暖炉を指し示す。
「あんたは小シマロン王の客人なんだろ?お先にどうぞ、ウェラー卿」
……そんなことは言われなくても判っている。
その行程にどんな不満があろうと、とにかくはヨザックたちと合流できた。
ならば、俺がその傍にいる理由はもうない。
ヨザックがいる以上は満足に話もできるはずもなく、それ以上にの安全を言い含める役も、もはや俺ではない。
俺ではないんだ。
先に暖炉に飛び込み長い通路を滑り落ちて地下に着くと、ユーリとサラレギーが親しげに言葉を交わしていた。
ユーリは人を見る目はあるけれど、とにかく他人を信じようとする傾向がある。
まだ対面して少ししか経っていないが、サラレギーは逆に何度か聞いた評判の通り抜け目が無いように見える。
俺が言わなくても、ユーリの人の良さを心配してギュンターやヴォルフラムが注意を喚起することは判っていたが、それでも声をかけずにはいられなかった。
サラレギーが先を行き、ギュンターが闇に足を取られて先が詰まったところで、一人になったユーリの後ろにつく。
「お元気でいらっしゃいましたか」
「……ああ、おれはね」
ユーリは前を見たまま、決して振り返らない。だが大シマロンの正式な使者を無視するつもりはないということか、それとも別の理由か返答だけは抑揚なく返してきた。
「でも……」
「でも?」
何かを続けようとしたユーリは俯いて、気がかりなことがあるのかと先を促してみたが、すぐに首を振って、顔を上げて前を見据える。
「いや、あんたにはもう関係の無い話だったな」
「……のことですか?」
「どうしてそう思うんだ?」
「いえ……」
少し厳しい声で聞き返されて、言葉を濁した。
ニホンにいた時点では、が俺をまだ少しは気にかけていたかもしれないなんて、ただの願望だ。
「ユーリ!こっちだよ、早く早く!」
かなり先を言っていたサラレギーが手を振って親しげに呼びかけてくる。
「仲良くなられたんですか」
「ああ」
事もなげに返された肯定に、つい眉をひそめてしまう。相手は小シマロンをあの年齢でまとめ上げた、油断ならない男だというのに。
「そうですか。しかし彼は……」
「陛下!」
「ユーリ!」
前後からユーリと俺の会話に気付いたギュンターとヴォルフの怒声が聞こえて、仕方なく傍を離れる。
俺の横を睨みながら通り過ぎたヴォルフを見送って振り返ると、闇の中での不安そうな目と視線が合った。
俺がユーリに近付くと心配なんだろうか。
そうではない別の可能性を望みながら、の目に不審や敵意が現れたらと思うと恐くてすぐに目を逸らした。


地下から脱出したあと、ユーリとはギュンターを伴いサラレギーと同じ馬車に乗り込んで港まで移動することになった。
ギュンターが同乗するなら、滅多なことにはなるまいと俺も小シマロンが用意していた馬に上がる。
慣れた騎乗に、一瞬だけ寒々しさを覚えた。
と同乗することの幸運に慣れてしまっていたのか。愚かしい。
抱き寄せる細い身体がもうないことを残念に思う身勝手さに薄く笑うことしかできない。
馬車へ目を動かすと、すぐ横に騎影が移動してきて俺の視線を断ち切った。
「ヴォルフラム」
「気安く呼ぶな。お前はもう我が国の者じゃない」
冷たい冷静な声とは裏腹に、俺を見ずに前を向いたままのその目は怒りで釣り上がっている。相変わらず直情的だな。
「ユーリに近付くな。を心配させたくない。にも近付くな。ユーリを心配させたくない」
「魔王陛下とその妹君への礼節は守るつもりだ。大シマロンの者として」
「そうか」
ヴォルフラムは頷いて、走り出した馬車を目で追った。
「それが答えならば、の視界にも映らないよう努力しろ」
手綱を引いたその刹那、振り返って鋭く俺を睨みつける。
「もうこれ以上、お前のことで泣かせたくない」
「ヴォ……」
呼び止める間もない。呼び止めても振り返りはしなかっただろうけれど。
更にヨザックが俺を追い越して馬を走らせ、俺もそれに続く。
もしかして大シマロンの別れの後も、は俺を想って泣いてくれたんだろうか。
そうだったなら、どれだけ幸せだろう。あれほど酷い別れ方をしたというのに。
「心配ないよ、ヴォルフラム」
先を行く弟の背中に、決して聞こえるはずのない小さな声で答える。
あれからどれだけ経ったと思っている。
それに、お前が知っている時点でに少しでも俺への気持ちが残っていたとしても、
首都からここまでの旅の間で愛想も尽きているさ。
別れた宿で最後にの頬に触れた右手を、そっと握り締めた。


一昼夜走り続け軍港が見えてくる頃に、つい疲れで溜息をついてしまった。
身体の疲れはを乗せて走った日よりは楽なのに、気持ちの上ではただ走るだけの今日のほうが疲れた。自分で選んだ道なのに、いつまでも女々しい自分が情けなくて、いっそ笑ってやりたいほどだ。
長い航海に発つ船が用意された港に着くと、先に馬車から降りて旗艦の説明を受けているユーリたちの元へと歩み寄る。
だが、サラレギーの一言で思わず足を止めてしまった。
「おや、は一緒に来ないの?」
「え……」
「いいんですか?」
後ろ姿で表情は見えないが、ユーリの声が上擦ったのとは対照的には嬉しそうに身を乗り出した。
そうか……が同行したがると言うことは、ユーリもこの旅に同行するのか。
どうしてユーリを危険な土地へ連れて行くんだ、ギュンターたちは。
たしかに、小シマロンだけが聖砂国と手を結ぶことは歓迎できないに違いないが、他に方法はないのか。
せっかくを眞魔国に帰せると思っていたのに。
「わたしはもうも一緒だと思っていたよ。だってほら、ユーリが駄目だと言っても彼女は密航してついてくるかも」
まるで、ユーリのことならどんな無茶でもするの気性を、すでに知っているかのような話し振りのサラレギーに、苛立ち眉をひそめてしまう。
「いや、でも、サラ、は……」
必死にだけでも帰そうとするユーリに、サラレギーはわざとらしく首を傾げた。
「駄目なの?でもは行きたがってる。船室なら心配しなくても、まだ余裕はあるんだ。
さあ、行こうユーリ、。それにウェラー卿も」
俺が近付いていることに気付いていなかったのか、とユーリの肩が同時に跳ねた。
溜息が漏れる。
「私は向こうの貨物船で結構」
「あちらに?あちらの船倉には満杯の荷が積まれているよ。その真上で寝起きするのは、
あまりいい気分じゃない。乗り心地も旗艦のほうがずっといいし」
「乗り心地などは別に気にならない。では失礼」
ユーリもも、小シマロンの船にいるというだけでも気が気ではないはずだ。それなのに俺までいては嫌な思いをするだろう。護衛ならヨザックがいれば取りあえず心配はない。
貨物船へ向けて歩きながら、貨物船と旗艦を見比べた。
眞魔国の者はすべて旗艦へ乗り込むのだから、貨物船に目を配るためにも俺だけでもそちらに乗り込んでおきたい。
後ろから楽しげなサラレギーの声と二人分の軽やかな足音が近付いてきた。子供のような無邪気さを装ってユーリを引っ張っているのか、そう思った俺の横を長い黒髪が風になびいて通り過ぎる。
、わたしとあなたが結婚すれば、両国の結びつきはとても強くなる」
聞こえた言葉に、思わず足を止めかけた。その背中を見送ることしかできない俺の横を、
二人を引きとめる声を掛けながらユーリが駆けて行く。
「……結婚?」
残された俺は、あまりにも簡単に紡がれた単語を馬鹿みたいに繰り返す。
痛いほどに拳を握り締め、首を振って貨物船へ向けて足を速めた。
早くしないと、あの男からを引き離したくてたまらない、その衝動を堪えきる自信がない。
が他の男の元へ行ってしまうのは仕方がない。いや、当たり前のことだ。
だがあの男だけは。
一度だけ旗艦のタラップへたどり着いたたちを振り返り、すぐに貨物船へ乗り込んだ。
くだらない。サラレギーがなんの小細工をしようと、ユーリがに政略結婚なんてものをさせるはずがない。
が誰かと結ばれることがあるとすれば、それはが心から愛した男とだけだ。
そのはずだ。
そう自分を納得させたのに、そんな未来を思い描くことはできなくて、硬く握っていた拳を開いてじっと見る。
そのときの横に立つ男は俺だと、かつては信じていたのに。
と共に生きていきたかった。
もはや俺が口にすることすら許されない未来を、当たり前のように提案できる男が憎い。
俺が決して選ぶことのできなかった、その道を。






ということで、コンラッドにはあのときの提案は聞こえていたんです。
彼女と結婚して、生涯を共にする。
それがコンラッドが選びたくても選べなかった、望んでいた未来。


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