馬の足を落としていたこともあって、次の町についたときには、夜が明けようとしていた。
町に入る少し前から、微かに研ぎ澄まされた空気を感じる。町に入ると一層にはっきりとした張り詰めた雰囲気は、明らかに町の異変を表していた。
こういった様子を見せる条件はいくつかある。例えば戦場への中継点の町であったり……あるいは、居城にいるよりどうしても警備が手薄になってしまう貴人の警護に気を回している、など様々な要因が考えられる。
「追いつけた……か?」
出港前に小シマロン王に追いつけたことに対する安堵と、腕の中にあるぬくもりを手放す時がいよいよ来たのだという落胆に、天を仰いで溜息をついた。



EXTRA7.選べなかった未来(8)



町を行きながら、ただ貴人が宿泊しているだけにしては、嵐の前の静けさのような押し殺した気配を感じた。はっきりとは判らない。だがどうにもきな臭い予感がある。
もしサラレギー王がこの町に入っているのなら、一等級の宿に逗留しているだろう。
他の宿泊客自体を締め出している可能性もあるが、そうでなくてもを小シマロンの王と同じ宿になど入れたくない。
町で一番の宿を確認して、そこから離れていながらそれなりに整った宿を探した。迎えが来るまでしばらくが過ごす宿だ。なるべく不便や危険がないようにしなくてはいけない。
下手に裏通りの宿などを取って抜き打ちの見回りに入られるほうが恐いので、表通りに面した小綺麗な宿を選んだ。
きっと、ここでとはさよならだ。
腕の中のを覗きこむと、まだ眠っているようだった。馬上なのでそこまで深く寝入ってはいないだろう。
部屋に入って、ベッドに寝かしつけて、注意を書置きして、そして。
最後の最後に、キスをするくらいは許されるだろうか。
起きていれば許してくれるはずもない。意識がないのに襲うなんて最低だ。
判ってる。そう判っていて、浅い呼吸で眠っているの薄く開いた唇を見つめる。
「好きなんだ……」
もう二度と決してに告げてはならない言葉を呟いて、そっと細い身体を抱き締める。
馬を降りるとき、浅い眠りのを起こさないように注意して体勢を整えて抱き上げたのに、それでもは瞼を開けてしまった。
「ああ、起こしてしまいましたか」
自分から別れを告げておいて、勝手に唇を奪おうなんて不埒な願いは叶えられないらしい。当然と言えば、それが当然だ。
馬から降りて宿へ入ると、はまだ少し眠りの淵に意識が残っているらしい弱々しい力で俺の胸を押した。
「……降ろして。一人で歩ける……」
「いいえ、どうぞそのままで。眠っていてください」
一縷の望みをかけてそう囁いたが、は首を振って完全に目を覚ましてしまった。
キスの件は別にしても、昨日はろくな休息もなかった。はひどく疲れているし、何より改めて別れを告げたくなかったのに。
「何かあった?」
もう一度、胸を押し返されて諦めてを下ろす。
何かと言われても、ここで別れることはともかく、町の警戒態勢についてはどう説明したものか。
ちょうどやって来た宿の者に宿泊の手続きと表の馬を厩舎へ繋ぐよう依頼をして、説明は後回しでを部屋へ連れて行った。


宿を歩きながら気配を伺ったが、ここには警備の手は入っていないようだ。
貴人が偽装で等級を落とした宿に泊まることもあることを考えると、それは怠れない警戒だ。それに、町に漂う不穏な空気が気になった。
鍵を渡された部屋に入り、がしばらく滞在することを基準にチェックして、それから今度は遠巻きの警備や不審者がいないかを窓から確認した。
ふと冷気に振り返ると、はまだ少し寝惚けているのかドアを開けたまま入り口で立ち止まっている。
「そんなところで立ち止まっていないで、奥へ」
窓から離れてを部屋へ引き入れ、誰か見ていなかったか廊下も伺っておいた。
女性一人で宿泊していると知られるのは、普通の旅人でもあまり好ましくはない。
だが廊下は完全な無人だった。通常の客はまだ眠っているのだろう。警備の様子もない。
「コンラッド?」
「……ここじゃないみたいだな」
「何が?」
疲れたようにベッドに座りながら訊ねられても、どう説明したらいいのかまた迷った。
厳重な注意はしておきたいし、かと言ってこれから一人でしばらく過ごすことになるのにあまり怯えさせたくもない。
「ここでお別れです」
「え……」
軍港まではあと一日ある。ここにサラレギー王がいる可能性が高いと知らないからすればあまりにもいきなりで、一方的な宣言だろう。
今までできるだけ身軽にと一つに纏めていた荷物を、の荷物と分けながら王のいる可能性を示唆する状況を説明した。
「そ……う………」
ようやく俺から解放される安堵なのか、異国で一人きりになる不安からか、それともその両方なのか、は俯いて黙り込んだ。
俺は黙々との荷物を作り、最後にの目には留まらないように気をつけていた、首都で買った剣を手にしばらく逡巡する。迷うまでもなく、これはに渡しておかなくてはならない。抜かずに腰に佩いているだけでも、武器で相手を威圧できることもある。
そんな事態にならないことを、祈るしかできないことに酷い焦燥と苛立ちが募った。
俺が傍で守れたら、こんなものをに渡さなくてもいいのに。

剣をテーブルに置き呼びかけると、俯いていたがようやく顔を上げた。
何かの感情を押し殺したようなのは判るのに、それが安堵なのか不安なのか、それとも別の何かなのか、今の俺には判らない。
もうこんなにも、のことが判らなくなってしまった。
「これは、あなたに。使わずに済むはずですが、一応、念のためです」
「あ……ありがとう……」
ぎこちなく、だがが忌避する武器などを渡して礼を言われる苦さに唇を噛み締める。
こんなもの、には相応しくないのに。
に相応しいものは……花や宝石やドレスなど、もっと華やかで綺麗なものだ。
こんなもの、に贈りたくなかった。
「いいですね、あくまで護身用です。無闇に抜いてはいけません。ですが、もしものときは、
これを使うことを決してためらわないでください」
無闇に抜く心配はあまりしていないが、人を傷つけることを厭うに酷いことを言った。
は無言で頷いたけれど、果たして本当に実行してくれるだろうか。
絶対に宿を出ないようにと何度も言い含めながら、思いつく限りの事態に備えた対処法を紙に書き付けていく。
恐らくサラレギー王が町に逗留している間はさりげなく厳戒態勢が敷かれるだろうが、出て行ってしまいさえすれば警備も緩くなるだろう。町の不穏な空気も気になるが、果たしてそれは警備なのか、それとも別の何かなのか。
とにかく今日さえ凌げば、町の警戒も緩くなろうからと何度も念を押したのが悪かった。
「……何か隠してる?」
「いいえ、特には。あなたの髪の色が知れると大変だから、外に出るなと言っているんです」
不審そうに訊ねられ、ぎくりと心臓が嫌な音を立てたが平然と顔色を作る。
だがは不愉快そうに眉をひそめた。
「わたしはコンラッドが隠している何かが、外に出てはいけない理由についてだと言った覚えはないけど」
なんて簡単な引っ掛けにつまづくんだ、俺は。
こんなにも間が抜けていてどうすると己に溜息を落としながら、に非常事態に備えたときの書付をした紙を示した。
「とにかく、必要なことは言いました。それでは、俺はこれで」
改めて別れを告げることがつらくて、殊更呆気ない一言で背を向けると、が驚いたように立ち上がる。
「もう行くの!?」
引き止めるような響きに、心が歓喜で震えた。
それが異国で一人きりになる不安からだろうと判っているのに、敵国の者になった俺に監視される旅のほうがよかったのかと。
「サラレギー王がいつ出発するとも限りませんから」
「だって、さっきはわたしにまだ眠ってろって言ったのに!」
それは、の引き止めた言葉が俺の妄想ではなく、真実だという証の批難だった。
「―――黙っていなくなるつもりだったの?」
「同じ内容を書き置きしていくつもりでした」
「やっぱり、黙っていなくなるつもりだったんじゃない!」
振り返ると、は今にも泣き出しそうな表情で唇を噛み締めて俺を見ていた。
そんな顔で俺の背中を?
どうして、君は最後の最後まで。
「わ、わたし、まだここまで連れてきてもらったお礼も言ってない」
「必要ないと言ったでしょう。俺は俺の都合で連れてきただけです」
「でもお礼を言いたいのは、わたしの感情だわ。あなたには必要なくても、わたしは言いたいの!」
言って欲しくないんだ。礼など言われたくないんだ。
俺が君の為に尽くすことは、俺にとってはとても当たり前のことで、礼を言われるたびに距離を覚えてしまう。だから礼なんて聞きたくない。
ましてこの旅は、俺の我がままで始めたことなのに。
ベッドまでの距離を詰めて、が少しも逃げるような素振りを見せなかったことに喜びを、そして別れを告げる悲しさを覚える。
だからが眠っているうちに出て行きたかった。
「……つくづく愚かな人ですね」
俺がいなくなることに、そんな悲しそうな顔をして、ここがもし小シマロンでなければ、今すぐに果たさなければならない任務がなければ、連れ去って行きたくなるような目で俺を見るなんて。
俺のような不心得者に、そんな無防備な顔をしてはいけないのに。
そっとの温かい頬を撫でて、掌にその熱を覚える。
瞬きもせずに俺を見上げる漆黒の瞳に、ひょっとしたら別れのキスを受け入れてくれるのではないだろうかなどと甘い幻想を抱いて、その衝動に負けないうちに身を翻した。
もうから引き止める言葉はない。
部屋を後にして、扉を閉める。
閉めた扉に背中を預けて、の熱を覚えている掌に口付けを落とした。
「どうか、無事で」
最後まで、心の底から別れを告げることはできないまま。
さようなら。きっともう二度と、君には会わない。
きっと……会えないだろう。






小シマロンの反乱分子の存在はともかく、その不穏な空気はコンラッドも掴んでいたよという辺りを。
彼が警戒していたのは小シマロン王と、その他の何か判らない何か、だったわけです。
それにしても……もう二度と会えないだろうと考えているのに、不本意なことに再会はすぐ間近。


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