逃げ出したを見つけられた安堵で、その細い身体をただ強く抱き締めた。 ただ、強く。 「もう……」 俺の腕の中で、人形のようにされるがままだったが小さく呟く。 「もう……放っておいてよ……」 力のないの一言に、弱まっていたはずの怒りが再び燃え上がる。 「馬鹿なことを!一人でどうやって旅を続けるつもりだ。金もないのに、野宿の知識がどれだけある?こんな夜中に街道を歩くような無知な女なんて、夜盗に襲ってくれと言っているようなものだ!浚って犯して売り飛ばせと言っているようなものじゃないか!」 俺の心配が要らないのならそれでもいい。 だがなぜ自ら危険の中に飛び込んでしまうんだ!? 心配してほしくないなら、手を出されたくないなら、どうして自分で自分の安全を図ってくれないんだ! 「だってもういやなんだよっ!」 疲れて力が入らないのか、は悲鳴を上げて弱々しく俺を突き飛ばした。 EXTRA7.選べなかった未来(6) の弱い抵抗を受けて、抱き締めた腕にさらに力を込める。 この手を放せばまたが逃げ出すんじゃないかという恐怖が、あの暗い道で名を呼び その姿を求めて走っていたときの恐怖が甦って、嫌だと言われているのにさらに強く。 「もういやっ!あなたの側にいると苦しいの!悲しいの!………つらいんだよ……」 だがその恐怖を、の悲鳴が痛みに塗り替えていく。 こんな風に心配する資格すらもう俺にはないのだと。 「……もう……いや……」 力の抜けた俺の腕からすり抜けて地にへたり込んだを見下ろすと、打ちひしがれたように俯いていた。 疲れたように、苦しむように、うな垂れて。 「……だったら……どう、すれば……あなたの……苦しみを和らげることができますか? せめて……せめて、旅を続けることができるだけでも」 俺に心配する資格がないのなら、せめてが無茶をしないように。 俺が心配しなくてもいいように。 それもまた俺の傲慢な、俺のための願いだ。 はそんな方法などないのだと言うように首を振る。 俺が傍に居て、に心休まる方法があるはずなど、もうないのだと。 「……そんなに、俺が嫌い……なんですか?」 はなにも答えない。ただ何度も首を振る。 答えなどあるはずもない。 俺が傍に居て、のうのうとその顔を見せていて、どうしての苦痛を和らげることができるだろう。 「……」 の身体がぐらりと揺れて、慌てて差し出した腕の中に倒れ込んでくる。 「!?!」 肩に手を回して後ろに身体を傾けるように抱くと、首が後ろへと反ってその血の気の引いた顔を晒した。力尽きて気を失ったらしい。 無理もない。一日中馬で走るだけですでに限界を超えるほどの疲労があるのに、充分に休みもせず夜中に起き出して、恐いはずの夜道を気を張って一人で歩いていたんだ。 気を失ったをそっと抱き寄せる。 耳元で繰り返される小さな寝息と、腕の中の確かな温かさと、胸に伝わる鼓動に、俺はもう一度、万感の思いを込めた息を吐き出した。 気を失ったを背負って夜道を戻ると、あれほどの恐怖と共に走った距離が感じていた以上にずっと短いことが判った。 町の入り口に立って街道を振り返る。 それでも疲れ切ったが歩く長さとしては充分すぎるほどだ。 それほど俺から逃げ出したかったのか。 俺の危惧していたような危険は考えていなくても、俺がいなくなれば旅の困難が増えることは判っていたはずなのに、疲れた身体に鞭打って、できるだけ遠くへと逃げるほど。 それでも無事にを見つけることができたという証の重みに、重い気持ちは幾分か救われる。意識を無くしてようやく身を任せてくれる温かさに。 町に入ると俺が騒いだ跡など欠片もなく、もうすっかり静まり返っていた。夜中の騒ぎだ。 通り過ぎれば町の者もすぐにまた眠りつくだろう。 住人には申し訳ないことをしたと肩を竦めて宿に戻ると、一人だけ例外がいた。 真っ暗な宿の入り口を肩で押すようにして開けると、ちょうど人影が階段を降りてくるところだった。 「あっ!お客さん!帰ってきたっ」 宿の主人だ。 灯りもなく階段を降りていた主人は入り口まで駆け寄ってくると、を背負った手に引っ掛けていたランプを取り返して火を入れようとする。 を背負いながらランプに火を灯していると危ないから消したのだが、主人のしようとしていることに気付いて慌ててそれを止めた。 「やめてくれ。灯りをつけたら連れが目を覚ます」 主人は渋々といった態でランプをテーブルに置く。 「ちゃんと帰って来てくれてよかったよ」 「このまま帰らなかったら俺は大損だ」 荷物一式と馬を合わせれば一晩二人分の宿代には高すぎる。 「騒がせてすまなかった。詫びはまた明日に」 月明かりだけの薄暗い宿の一階で、小太りの中年と差し向かいでゆっくり話し込む趣味はない。 早くをゆっくりと眠らせてあげたくて二階に上がろうと主人の横をすり抜けると、横の主人が突然爪先立ちで眠っているを覗き込んだ。 驚いてを庇うように身体を捻って一歩下がると、主人は何か言いたげな顔をして掌を擦り合わせ、一拍置いてから俺をそっと窺う。 「お客さん、まさか人買いとかじゃなかろうね?」 「……………主人」 確かに普通の旅の道連れは夜中に逃げ出したりはしないけれども。 下手な詮索はされたくなかったので、は一人旅に憧れる世間知らずの某家のご令嬢、俺はその護衛兼使用人ということしにて、お嬢様が脱走を何度も企てて大変だという適当なでたらめを説明して部屋に戻った。たった一晩の宿なので、その程度の嘘で充分だろう。 を起こさないよう注意してベッドに降ろしたけれど、どうやら眠りは深いらしく少々乱暴に扱ったとしても起きそうもない。 ベッドに沈むその頬に触れても、呼吸が乱れることもない。 「……だからって乱暴に扱えるはずもない、か」 諦めにも似た気持ちで呟くと、不思議と笑いが込み上げてきた。月明かりだけの確認だが、叩いた頬も腫れても赤くもなっていないようで、ほっとしたということもある。 力の抜けた身体から外套を脱がせ、髪を隠すために頭にきつく縛っていた布を外し、履いたままだったブーツの紐を解く。 疲れた足は引き摺って歩いたらしく、ブーツの爪先が巻き上げた泥土で汚れていた。 「どうしたら、大人しく、安全に行動してくれるのかな……」 ブーツを脱がしたその足首を、そっと掴んでみる。 「……は知っているかな……美しい鳥を籠も隔てず観賞するために、その風切り羽を切ってしまうこともあるらしいよ」 細い足首を掴んだ手に少しだけ力を込める。 「酷い傷などでなくていい。ほんの少し、ほんの数日、歩くことに不自由するくらい……すぐに治るくらいの捻挫なら」 捻挫くらいとできるなら……。 「できるはずがない」 苦笑いで込めていた力を抜いて、ベッドの中へとその足を落ち着ける。 鳥の話を知っていても知らなくても、そう尋ねるとならきっとこう言うだろう。 「どれだけ綺麗でも、空を飛んでいる姿のほうがもっと綺麗だろうね」 自然の姿こそが美しいのだと。 ブーツをベッド下に揃えて置くとまた枕元に移動して、今度は右手を取り上げてその甲に口付けをする。 「君の風切り羽は傷つけない。だけど代替処置は必要だから」 自ら告げた台詞に笑いが浮かぶ。 前半には当たり前だと怒鳴る声が聞こえそうだし、後半には心の底から嫌な顔をしそうだ。 布の端に俺の左手を結ぶと、反対の端をの右手に巻いて括った。 もう二度と、この旅の間にから目を離す気にはなれない。 俺と繋いだ右手をベッドの中に入れると、肩を冷やさないようにしっかりとブランケットを引き上げる。 ベッドの傍らに座り込むと、規則正しい呼吸を繰り返す穏やかな寝顔をもう一度眺めて息をついた。 こうして繋いでおくのは、もちろんを逃がさないためで、それはの安全を図るためでもある。 だけど俺は、俺の願いとしても。 「……この旅の間……その間だけでいいんだ」 どうかもう少しだけ、傍にいてくれ。 が目を覚ましたのは、次の日の朝になってからのことだった。 夜中に大脱走を企てたにしては早い目覚めだと思う。 目覚めてすぐ傍に俺がいたことに声も出ないほど驚くに、昨日の暴挙をしみじみと呆れて見せ、これからの日中及び夜間の監視体制を説明すると当然ながら悲鳴を上げて嫌がった。誰だって一日中隙間無く監視されるのは冗談じゃないだろう。 更にそれが日中の休憩中や夜間のことでなく、移動の間もとなると余計に。 一頭の馬を前に、今日からはずっと相乗りだと告げると眉間にしわを寄せた難しい表情で日中から逃げ出すわけが無いと詰め寄られたが無視をした。 どの道、もう一頭の馬は宿の主人に昨夜の迷惑料と引き渡してきたから、今はこの一頭しかいないのだ。 宿の主人は破格の迷惑料に非常に喜んでいたが、それがの慰めるになるかというと、聞くまでもないだろう。 心配をして、しすぎての果ての行為をここまで嫌がられると、昨日の脱走がどれほど危ういことだったのか、まるで理解されていないのだと腹が立つを通り越して悲しくなってくる。 だから、が頭を下げたときは実は理解していてくれたのかと驚いた。 「……ごめんなさい」 「え……?」 判ってくれればいいとか、いくらでも他に言うことがあったはずなのに、出てきた声はそんな間の抜けたものだけで。 俺の呆れた返答にも不審を覚えたのか、顎を持ち上げるように俺を見上げてきて、その丸められた黒い瞳と目が合った。 その途端に今度は弾かれたように前を向いて目を逸らされる。 「その、あ、あそこから運んでくれたんでしょ?だから、ごめんさない。重かったと思うから」 「ああ、そのことか……」 やっぱり判っていなかったか。 「いいえ、くらいの体重なら背負って歩いても大した負担じゃありません」 むしろその間、背中に伝わってくる温かさを失わずに済んだことを噛み締めながら歩いていたほどだ。 無言になったは、さっきからずっと右頬を押さえるようにして座っている。 赤くも腫れてもいないから安心していたけど、実は口の中を切ったりしたのだろうかと心配になっての右手の上から頬を擦ってみる。 「痛みますか?」 「……っ」 覗き込むようにして訊ねると、は恐いものでもいるかのように息を詰めて俯いた。 「すみません。焦っていたとはいえ、手を上げるのはやりすぎた」 「べ、別に痛むわけじゃ……た、手綱をちゃんと握ってください!」 そう言って俺の手を払いのける。 ……嫌われていると判っていても、そうあからさまに避けられるのは改めてショックだ。 これ以上俺が構うとには不愉快なだけでしかないのかと溜息を飲み込みながら手綱を握り直すと、がもう一度頭を下げた。 「……ごめんなさい」 「?」 今度の謝罪はなんだろうと心当たりを考えていると、俯いたまま鞍を掴んだ手に力を込めて小さく呟く。 「……心配かけて、ごめんなさい……」 「……」 ちゃんと伝わっていたんだと、そしてそれを悪いことだとが感じてくれたのだと、つい顔が綻びかける。 だがここは同じことを繰り返されないためにもしっかり釘を差しておくべきだろう。 振り返ったに、昨日の夜のマッサージのときに見せられたような笑顔を返しておく。 「反省してみせても、に一人の時間はないですよ」 は憂鬱そうに溜息をついた。 |
一緒の旅がつらいのだろうと予測していても、願いも深く。 |