マッサージをしていたときの様子が気になって、がもう眠っているだろう時間に部屋へ様子を見に行った。戸口ではなく部屋の中まで足音を忍ばせて入る。 は灯りも消して頭からブランケットを被るようにして、ベッドに入って眠っていた。 妙な違和感は取り越し苦労だったかと息をつき、その頭を撫でそうになった手に気付いて引っ込める。疲れで深く寝入っているとは思うけど、触れば起こしてしまうかもしれない。 廊下から差し込む光に照らされて灰色に見える髪の先を、軽く指先で触れるだけでベッドから離れる。 寝顔が見えなかったのが残念だが、今こうしている時間そのものが贅沢なんだ。 床板を軋ませないようになるべく気をつけて、隣の自分の部屋へと移った。 EXTRA7.選べなかった未来(5) を連れての旅は、嬉しいけど疲れるし、楽しいこともあるけどつらくもある。 何よりにつれなくされるときが堪える。だが俺の態度といえばそれ以上なんだから、それでお互い様とすらいえない。 それもこれも自分で選んだ道だと、軽く首を振ってテーブルに広げた地図を見た。 は良く頑張っていて、今のところ予定に遅れはない。 だが疲れはこれから更に蓄積されていく。遅れが出てくるとすればこれからだろう。 の負担をできる限り減らすにはどうしたものかと考えながら、明日以降のペース配分を決めて今日は眠ってしまうことにした。 俺も疲れが滲むようだ。悲喜こもごもの感情を押し隠すことで気疲れをしているのか。 馬鹿馬鹿しい。それならのほうこそいい迷惑だろう。嫌いな男と二人旅をさせられるなんて……。 「………さっさと寝よう」 自分で考えたことにダメージを受けて、すぐに灯りを消してベッドに潜り込む。 ものの数秒で眠りに落ちて、疲れた身体はそのまま朝まで目覚めるはずがなかった。 だが突然、夜中に唐突な違和感が湧き上がって目が覚めた。 の夢を見たような気がする。 そこまで愚かではないはずだ、と言った俺にが微笑んだ。 俺の全てを拒絶するように、軽く首を傾げて。 「まったく………愚かなのは俺だ……」 今日のことが夢に見るほどショックだったのか。起き上がると寝汗をかいていて気持ちが悪い。 汗で張り付いたシャツを脱ぎながら、ふとの作り物の笑顔を思い出した。 それが俺に向けられたと思うと、思い出したくもないのに。 俺の全てを拒絶するように、軽く首を傾げて。 ……首を傾げて。 まさか。は逃げないと言った。一人旅なんて無理だとも。 ではなぜ、愚かではないはずだと尋ねたときだけは返事をしなかった? 逃げるなんて、一人で旅に出るなんて、愚かな真似をするはずがないと、他のことと同じように否定して笑い飛ばさなかった? これこそ取り越し苦労だと思うのに、一度気になると奇妙な胸騒ぎが湧き上がってくる。 夢をみていたときと同じような嫌な汗が背中を伝い、部屋の中をぐるぐると歩き回る。 はユーリよりは、よほど理性的だ。 だけどヒルドヤードときのような例もある。 あれは特殊なことだった。彼女にとってもっとも忌むべき行為を行う男に怒りを燃やしていたからだ。 では、先ほどの俺がした行為は? 気が付けば着替えの途中で上半身は何も着ていない。 そのまま部屋をぐるぐる回っているのだから、傍から見ればさぞ滑稽だっただろう。 新しいシャツに袖を通しながら、足音を忍ばせて隣の部屋に移動した。 眠っているを起こしてはいけないから、そっとノブを回す。 眠っているを確認すれば、後は穏やか……とはいかなくても安心して眠れる。 馬鹿な心配をしたと自分を笑いながら眠ればいい。 だがドアを開いた部屋に、人の気配をまるで感じなかった。 「……?」 起こしてはいけないと考えていたくせに、小声で声をかける。 冷たく凍えた空気が、この部屋には誰もいないのだと告げている。 「?」 今度は少し声を高くした。 だが返事はない。 戸口で張り付いたように動かなかった足を、床板から引き剥がした。 すると今まで動けなかったことが嘘のように一気にベッドまで歩み寄る。 「、起きてくれ」 ブランケットから覗いていた黒い髪も、中に潜り込んでしまったのかまったく見えない。 曖昧な、何もかもを煙に巻くような笑顔で首を傾げるを思い出す。 「!」 眠っていても彼女なら飛び起きるだろう音量で叫び、ブランケットを剥いで愕然とした。 「……?」 誰かがここに寝ていたことを示すように、しわの寄ったシーツだけが目に映った。 あどけない寝顔や、深夜に起こされたことに不機嫌な表情を見せるはずのの姿がどこにもない。 「……眠れなくて、散歩だとか……」 そっとベッドに触れると、冷えたシーツはもうかなり長時間、誰もその上に横たわってはいなかったのだと思い知らせる。 壁を振り返ると外套が消えていた。テーブルの上にも何もなく、髪や目を隠すための道具も消えている。 「!どこだ!返事をしてくれっ」 ―――こんな夜中に大声出さないでよ!近所迷惑! そう返ってくるはずの声もない。 背筋の凍るような恐怖でブランケットをベッドに叩きつけると廊下に駆け出した。 階段を駆け下りると、宿の主人が驚いたようにランプを掲げて出てきていた。階段上でもいくつかドアの開いた音が聞こえる。 「お客さん、こんな夜中になんの騒ぎ……」 「連れがいなくなった!見かけなかったか!?」 「こんな夜中に見るはずが……」 「貸してくれ!」 眠そうに目を擦る主人が掲げていたランプを奪い取って、宿から飛び出した。 「ああ!ちょっとお客さんっ」 後ろで何か叫んで呼び止めている声が聞こえたけど、こっちはそれどころではない。 「ーっ!」 宿の周りでちょっとした散歩程度なら、夜中に響き渡る大声に驚いてすぐにでも姿を見せてくれるはずだ。 だがランプの光が届く範囲に人の姿はなく、光の届かない闇にも人の気配はない。 愚かではないはずだと尋ねたときの、曖昧な何もかもを煙に巻くようなの笑顔。 名前を呼びながら町を駆け回ったが、一向に姿を見せてくれない。 街道を行く者に補給や一夜の宿を提供するだけの町は広くもなく、すぐに端に着く。 「……一人で行ったのか?」 目指す場所はサラレギー軍港だとは判っていて、そこまでの道のりも街道に沿って行けばたどり着く。どうにかなるとでも思ったんだろうか。 「馬鹿なっ!」 すぐに連れ戻さなくては。 に野営の知識などない。そんなことは、旅をするには軽装なあの格好とこんな夜中に少女一人で街道を歩くなんて非常識なことをしているだけで一目瞭然だ。 武器も持たなくて、人間や野性の獣の襲われたときにどうやって身を守るんだ。 金だってない。食料はどうする。水は? どんな水なら飲んでも安全で、どんな植物は口に入れると危険なのか、そんな知識もなく無一文の旅ができるはずもない。 が無事に目的地にたどり着ける可能性なんて、奇跡にすがるようなものだ。 ありえないほどのお人好しに拾われて、同行させてもらうようなことでも起きない限り、乾き餓えて干上がるか、獣に襲われて力尽きるか、人に攫われ売られて果てるか。苦しむ行程に差があるだけで、展望なんてどこにもない。 ぞっと走った悪寒に足が速まる。 街道に出る町外れにつくと、その先は月の明かりだけの闇に浮かぶ道しかない。 かつて血盟城の裏庭の林に恐れて竦んでいたが、たった一人でこんな道を行っただろうか? きっと、行ったんだろう。あんなに闇に怯えていたのに。 ランプを握り締め、街道を駆け出した。 「ーっ!、どこだ!返事をしてくれっ」 そんなに俺と共に行くことが我慢ならなかったのか。きっと最後の、あの悪ふざけを装った俺の衝動的な行動が引き金になったんだろう。 俺が悪い。すべて俺のせいだ。 どうしてを連れ出した。 俺の傍を嫌がることなんて判りきっていたのに。判りきっていて、更に傷つけるようなことばかりして。 どうして彼女を首都に置いてこなかったんだろう。 こんな、こんなことになるくらいなら。 「!どこにいるんだ!」 俺はこの辺りの治安には明るくない。 もし野盗や獣が横行する土地だとしたら、もしすでにが襲われていたとしたら。 聞こえるはずのない悲鳴が聞こえてくるようで、息苦しさに耐え切れずランプを振り回す。 「頼む!出てきてくれっ」 一度覚えた不安はどうしても消えてはくれず、最悪の想像ばかりが脳裡を過ぎる。 の悲鳴が、助けを呼ぶ声が頭の中で勝手に響いて気が狂いそうだ。 「!返事をしてくれっ」 今夜その危険に見舞われなくても、俺が彼女を見つけられなければ、必ずどこかで遭遇する。それほどありふれた危険を、知りもしないくせに。 たった一人で行くなんて。 どれくらい走ったのか、空を見上げるとそれほど大した時間は過ぎてない月と星で判るが、それでも俺にとっては永遠とも言える恐怖の時間だった。 ランプを掲げ、街道の左右を見渡しながら声の限りを尽くして叫び続ける。 「どこだ!返事を、返してくれっ……!」 走って叫んで、乾いた喉が痛み声が掠れた。 「く……そっ」 不甲斐ない喉を掴んで、無理やりにでも声を絞り出す。 「!返事を、してくれ!―――!」 もう二度と、大切なものを失いたくない。 失うことはつらい。すべてを捨ててしまうほどに。生き方がすべて変わるほどに。 だからこそ決断した。だからこそ……先に何もかもを捨てたのに。 こんなところで彼女を失うことなど……あってはならない。 「ーっ!!」 流れる汗を肩で拭おうとした時、俺の懐から何かが落ちてそれを蹴ってしまった。 どうでもいいと見向きもせずに通り過ぎようとして、ふと胸元を探る。 手応えがないことに慌てて振り返ると、道端に落ちたそれのすぐ横の草が不自然に踏み分けられていた。 屈んで落し物を拾い、その不自然に踏み分けた草から街道を外れていく先を目で追う。 街道を少し外れた茂みまで、ずっとその踏み分けた跡が続いている。 まるで足を引き摺って歩いた跡のように。 ランプを掲げても茂みの向こうは見えない。だが、この辺りがの足では限界ではないだろうか。 急いで踏み分けられた草へと踏み出して、その茂みに人の背中を見つけた。 街道に、俺に背を向けて、小さく丸まって、両手で耳を塞ぐようにしている人影は、俺の気配に気付いたのか大きく震えた。 天を仰ぎたい。誰に感謝するのか、それは判らないけど。 ……無事だった。 「……っ」 地面に崩れるように膝を落とし、草ごとかまわずを抱き締める。 「い……やっ」 俺を振り払おうともがくを、茂みから引き摺り出してそのまま地面に引き倒した。 「や―――っ」 だと確認したくてランプを掲げると、怯えながら手をかざして眩しい光を遮っている。 間違いない。 、だ。 俺だって、最悪の想像はしても今日逃げ出して、今日すぐに襲われるという可能性はそれほど高くはないと判っていたはずだ。 だがこうして、を見つけるまで俺はその悲鳴を頭の中でずっと繰り返し聞いていた。 それも俺が勝手にしたことだ。 そうと判っていても、無事を確認した途端に安堵と同時に激しい怒りが込み上げてくることを押さえるのは難しかった。 「この……っ」 堪えきれない怒りが手を挙げさせ、半分残った理性が利き手を避けていた。 乾いた音を立てて、の頬を左手で打つ。 「この馬鹿!何を考えているんだっ」 無事を確認すると、怒りが安堵を凌駕した。 こんな乱暴に怒鳴るのではなくて、冷静に言い聞かせなくてはならないはずのことが、次々と口を突いて出てを責め立てる。 「一人で出て行ってどうするつもりだったんだ!?路銀もなく、道行きすら曖昧で!たった一人で、知らない国で、髪も目も隠し通して行けると、本気で思っていたのか!?しかも夜にっ……夜に、一人で……っ」 そうして、怒りの次にまた安堵の大波が押し寄せて、今度は涙が滲んだ。 抱き締めて、その存在を、無事を確かめたくて。 抱き起こすなんて優しい動作ではなく、引き摺り起こして強く抱き締める。 隙間なく抱き締めた身体からゆっくりとした鼓動が伝わって、そのリズムに耐え切れずに堪えていた涙が零れた。 無事、だった……。 俺の中で振り幅の大きい感情の波がいくつも荒れ狂っていて、整合をつけることなんてとてもできそうもない。 だから、もういい。 無事に見つかって、そして保護できて、それでいい。 そのはず、だった。 |
親の心子知らずではなく、コンラッドの心、恋人知らず……。 |