が風邪をひかないようにと急いで、半ば引き摺るように強引に宿へ急いだ。 ひとつには、何かの拍子に被せた上着がずれて艶やかな黒髪が零れ落ちて人目につくと困るということもあったからだ。 それにしてもここまでの歩幅を考えずに歩いたことはなかったような気がする。 部屋に着くと身体をこれ以上冷やさないよう最低限の指示だけして、俺自身はすぐに部屋を出た。 やることがあるし……それに、まだ動揺が残っていた。 まさか……こんなところでに会うなんて。 EXTRA7.選べなかった未来(2) 宿の外に出て、肌寒さに僅かに眉をひそめる。上着も外套も部屋に置いてきたから、この季節にこの薄着で外に出ている酔狂な奴は俺くらいのものだろうという格好だった。 だが仕方がない。はこの寒空の中で噴水で全身水浸しになって、その格好のまま宿まで歩いたのだから、少しでも厚着しておかなくてはいけない。 ふと視線を感じて振り仰ぐと、がこっそりとカーテンを開けてこちらを覗いている。 そんな暇があったらさっさと着替えて少しでも暖かくしていてくれと思わず強く睨み付けると、は怯えたように手早くカーテンを引いた。 溜息が漏れる。 どこかぎくしゃくするのは仕方がない。むしろ口論になったり逃げ出したりされなかったことを幸運だったと思うべきだ。俺がそんな暇も与えなかったわけだけど。 もう一度溜息をつくと、必要なことをこなすために木枯らしの吹く街路を歩き出す。 まずの着替えが必要だ。 それに、ここから可能なかぎり安全な方法で国へ帰る手段も用意しなくてはいけない。 宿から一番近い店は民間の通信会社白鳩便だったにも関わらず、店を前に迷いが出た。 白鳩の姿が描かれた看板を見上げ、しばらく考えたあと結局、先に着替えを用意することにする。 手近にあった服屋に入り、手が覚えてるのサイズを思い出して動きやすい服を買う。 俺と一緒にいた頃より痩せているように見えたけど、参考サイズがそれしかないのだから仕方ない。 旅装に向く服を一式買い揃え、それから向かったのは武器屋だった。 この小シマロンの首都から眞魔国までは遠い。たとえ護衛が迎えに来るとはいえ、人間の土地を横断するのだから、用心に越したことはない。 そうしてのための買い物を済ませると、最後に通信会社に戻ってきた。 ここから眞魔国に報せを送る。 グウェンダルは必ずヴォルテール城にいるわけではなく、場合によっては血盟城にいる。 その逆もある。だから宛先はギュンターが妥当だろう。 問題は報せる内容だ。 が小シマロンにいること。 それから……どこで、引き渡すか。 俺の中の冷静な部分は、この首都サラレギーの宿屋の名前を書けばいいと思っている。 小シマロンの首都なのだ。必ず最低一人は諜報員がいる。 ここからギュンターへ報せが行くまで、ギュンターから折り返し首都にいる諜報員への指示が返るまで。 三倍早いという赤鳩便なら、往復で半月ほどあればは保護されるだろう。 これがもっとも確実で、安全な方法だ。 ……本当に? 眞魔国でと最後に別れてから再会まで、たったひと月と少ししか離れていなかったのに、詳しくは判らないけど、監禁されたり、倒れるような魔術を使ったという話だった。 俺が目を離しても、本当にはじっと大人しくしていてくれるだろうか。 ギュンターへの報せに、をサラレギー記念軍港まで連れて行くと記しておけばどうだろう? 手紙がギュンターへ届き、軍港にいるだろう諜報員へ指示が届くまでの時間と、俺の軍港までの日程を考えると、が一人になる時間はぐんと少なくなる。 だが俺はこれからサラレギーを追って不休で走り続けるのに、にそんな過酷な旅ができるとは思えない。負担が大きすぎる。 途中で脱落させることはできないのだから、この首都に置いて行くべきだ。 店を前に、しばらく立ち尽くしていた。 通信会社から短い道のりの間で何度目かの溜息をついて、宿の扉をくぐった。 馬を一頭、買ってきた。 もちろんの騎馬を、だ。 せめて本人に選ばせれば良かっただろうか。 首都に残るか、過酷な道のりでも軍港まで進んでおくか。 いや、今からでも遅くはない。今のうちなら訂正の手紙を飛ばせば済むことだ。 そのまま二階の部屋へ行こうとして、宿の食堂カウンターでカップを手にする女性に目を留めた。 どうして出て行くとき、に温かい飲み物を用意しなかったんだろう。身体が冷えていると判っていたのに。 動揺しすぎだと拳で額を叩いて、今更でも飲まないよりはいいだろうと、食堂カウンターまで引き返すと暖かい飲み物を買ってから部屋に戻った。 「すみませんがドアを開けてもらえませんか」 服や武器などの荷物を小脇に抱え、片手には温かい飲み物。両手が塞がっているからと頼んでみたものの、返答がない。 まさか俺を断固拒否しようと無視しているとかじゃないだろうな、と嫌な予感で荷物を床に置いてドアを開けた。 少し恐れていたバリケードや不審を貼り付けた視線などはなかった。 ……は、ベッドの上で小さく丸まって眠っていた。 「……」 この状況でよく眠れる。 俺は信用ならないと判断したんじゃなかったのか。 少し呆れながら荷物を手に部屋に入ると、を起こす前に彼女の分の剣を俺の荷物に隠してしまう。一緒に軍港へ向かうなら、なるべくギリギリまでに武器など持たせたくない。 戦いのあと、剣を握るの手は震えていた。 武器なんて、持たなくていいものなら持たせなくない。 剣を隠してしまうと、を起こして首都に残るか、軍港に行くか本人の意見を聞こうとベッドサイドに立って肩を揺らそうと手を伸ばした。 「起きてくださ……」 伸ばした手が肩に触れる前に、ギクリと止まる。 ブランケットにくるまって丸まったの閉じた睫毛が、僅かに濡れていた。 泣いていたのか。 震える睫毛の雫をそっと拭うが、が起きる気配はない。 よほど深く眠っているのかと、恐る恐ると掌全体で頬を撫でてみる。頬はまだ冷たく体温は完全に上がっていない様子だった。 「……ん」 は僅かに身じろぎして体勢を変えたがそれだけで、目は覚まさない。 濡れた頬があらわになって、それを掌で拭うと目尻に残った雫を指先で掬う。 「……コンラッド……」 起こしたのかと慌てて手を引こうとしたが、その手をに抱き込まれてしまった。 目を覚ましたと息を飲んだのに、は瞼を降ろしたままだ。 そして目を閉じたまま、掠れた声で小さく呟く。 「………好き……」 寝惚けて、なんてものじゃない。 これは完全に寝言だ。 それこそ、ユーリに向かって言っている夢かもしれないし、の好きなお菓子を食べているような夢かもしれない。 だけど、俺の名前を呼んでくれた。 俺の名前を呼んですぐに好き、と。 判ってる。そんなはずはない。まだ俺を好きでいてくれているだなんて、そんなはずは。 判っているのに、に抱き込まれていない左手を伸ばして既に涙を拭った頬を撫でる。 「……」 夢を見ている様子なのに、なかなか眠りから覚める様子もない。 もう一度、こんな風に触れることができる日がくるとは思いもしなかった。 起きていれば、きっと触れさせてなんてくれない。 「……」 頬を撫でていた手を滑らせて、に半ば覆い被さるようにして唇を寄せる。 口付けようとしたそれは、小さな躊躇のあとそっと額に寄せた。 ゆっくりと身体を起こして、まだ眠るを見下ろす。 泣いてしまいそうだ。 「……陛下……眞王陛下……」 天を仰ぐように天井を見上げたのは、涙を堪えたからか遥か遠い眞王廟を仰ぎたかったからか。 「あなたの、配剤ですか……?」 俺への褒美としては、酷すぎる。を危険な目に遭わせるなんて。 そんなはずはないと判っているのに、今この幸福を他にどう言えばいい? 「……俺も」 穏やかに眠るを見下ろして、喜びと苦しさに微笑みを浮かべてもう涙の乾いた頬を何度も撫でる。 「俺も……好きだよ……」 のきっと他へと向けただろう好意の言葉が俺に対してだと、思うだけなら許されるだろう? 「俺も好きだよ……」 ずっとこうしていたいという馬鹿な願望は、時間がそれを許さなかった。 まるで何もなかったかのようにを起こしたときには、一緒に連れて行こうと勝手に決意していた。 訓練を受けている兵士ならともかく、には過酷な旅になるというに、こんなに酷く、そして傲慢な話はない。 しかも早くサラレギーを追わなければいけないというのに、俺がゆっくりとしてしまったせいでの質問に答える時間すら惜しむことになってしまった。 質問も許さず着替えを置いてくると先に宿の清算を済ませ、部屋に戻って有無も言わさず宿から連れ出して馬に乗せた。 小シマロンと聖砂国について、どうやって国許に報せるかと悩んでいたことも、に話してしまえば解決だ。 やはり情報元が俺ということで、グウェンやギュンターは疑いを持つかもしれないけれど、それでも警戒して急いで調べてくれるだろうと、馬を走らせながら噛み砕いてに説明する。 を軍港まで、少なくともその近くまで送り届ければ、さらに少しは情報の正確性を信じてくれるかもしれないと、淡い期待を抱いて。 |
と、いうことでコンラッドが「礼を言う必要はない」と言っていたのはこのためでした。 自分の我がままで強行軍につき合わせたわけですから……。 |