いざ出港という段になって、旗艦に巡洋艦クラスの中型艦がどてっ腹に突っ込んできて、おれとヴォルフラムは咄嗟に甲板の上に伏せて衝撃に耐えた。 衝突の瞬間の縦揺れが、大きな横揺れに変わる。 甲板を転がりそうになりながら、必死に近くの柵に掴まった。 「どうなってる!?」 「こっちが聴きたいよ!なんで同じ小シマロンの船が王様の旗艦に突っ込んでくるんだ!どうなってんの、操舵手さん!?」 顔を上げたけど、舵もなにも舵輪は割れ、すぐ前には船倉への穴が口を開けている。 船腹から浸水して船が大きく傾く中、二人で腕を絡ませてどうにか立ち上がった。 096.濡れた髪(2) 兵士達が周りを駆け回っている。剣を取る兵士、腕を回して誘導している人の他に、バケツを持って走っていく者もいる。バケツ? 「って、?!?ヴォルフ、がいない!」 「なんだと!?」 どれだけ周りを見回しても、の姿が見えない。船が動き出した時におれから少し離れて行ったのは気付いていたけど、船尾にいるのは確認した。 なのに今は、走り回る船員たちの合間をいくら探しても、その姿が見えない。 周りがシマロン軍服ばかりだから、おれたち眞魔国組みはみんな目立つはずなのに。 「陛下ぁー!陛下、ご無事で……ぎゃふん」 走ってきたギュンターが、傾いて波に濡れた甲板に足を取られたのか、僧衣の裾を踏んで派手に転ぶ。起きようとして再び肩から倒れ、腰を曲げたまま掌をじっくりと見た。 「水……じゃない。陛下、油です、油が流されています!」 「何がどうなんてんの!?」 ただでさえもうパニック寸前なのに、更に太いワイヤーが切れたような音がして、熱い風が巻き起こる。不自然な風に慌ててギュンターに手を振った。 「ギュンター!服だ、服を脱げ!燃えちまう!」 空を切り裂くように中型艦から百本以上の赤い火矢が降り注いで、甲板に流れている油に引火して、真っ赤な火の海があっという間に広がる。 甲板の上では両極の叫びが上がった。 「マキシーンだ、マキシーンがやりやがった!」 「ついにマキシーン様が!」 刈りポニが何だって? 奇妙なことに中型艦からは、誰一人乗り込んで来ない。これだけ派手な攻撃をやらかしておいて、確実な白兵戦に持ち込まないのはどういうわけだ。 だけど今はそのほうがいい、何しろが行方不明だ。ここで乱戦が始まったら目も当てられない。 「ギュンター!お前、を見……」 振り返ると、超絶美形の教育係は潔くポイポイと服を脱ぎ捨てていた。 「な、なにもそこまで」 油を吸った上に火が移りやすいヒラヒラの僧衣を脱げって意味だったのに、その下も惜しげもなく脱いでいる最中だ。 「ヴォルフラム、私が行くまでどうか必ず陛下を!陛下、すぐにサイズモア艦が参りますから、どうかそこから落ちないように……」 そこで気付いたように周りを見回す。 「陛下、殿下はいずこに?」 「おれが聞きたいよ!がいないんだ!」 ギュンターの、上着の釦を外していた手が止まる。 油の切れたブリキのおもちゃみたいに、ぎこちない動きで視線をおれに戻した。 「な………なななななんですってぇー!?殿下、殿下ぁー!返事をしてくださいませー!」 甲高い悲鳴を上げて、真っ青になって脱いだ僧衣を振り回してを呼ぶ。 「ギュンター!それヤバイ!それ危ないから!」 何のためにその僧衣を脱げと言ったと思ってるんだ。壊れかけた王佐を止めようと届かない手で落ちつけのジェスチャーをしようとしたとき、真っ黒い一本の筋が向かってくるのが目に映った。 時間にして、僅か一秒もない。撃たれたと思った。おれを、狙ったのだと。 だけどおれには何の痛みを襲ってこない。 代わりに表現しがたい音が隣から聞こえて、左目の端に水色が広がった。 握り合っていた手から不意に力が抜けて、隣にあった身体が揺らぐ。 「……ヴォルフ?」 そのまま、ヴォルフラムは背中から甲板に崩れ落ちた。 「ヴォルフ?ヴォルフ!ヴォルフラム!」 胸の中央、やや左寄りに、一本の鉄の矢が突き立っていた。 「ヴォルフラム!」 震えるヴォルフラムの手が、中型艦の帆柱を指差して、小さく呟く。 「キー……ナ……」 振り返ると、ヴォルフラムが指差した太いマストに、仕事を終えてロープを伝って下りる弓を持つ男がいた。 あの高さ、あの距離から狙って撃ったのか? 「くそっ!」 すぐにヴォルフラムに視線を戻して、矢を抜くべきか、それとも素人が下手に触るべきではないのか判断をつけかねて、ただおろおろと手を上げ下げする。 下手に触ると、まだ無事な血管を傷つけたりする可能性とか、矢自体が栓になっている傷を開いて大出血を起こす可能性もある。 ヴォルフラムは浅い呼吸を繰り返しているけど、息が詰まるのか言葉は何もない。 「ヴォルフ、なあ、よせよ、よしてくれよ!……こんな……こんなっ」 振り返っても、ギュンターは火の壁で見えない。指示も仰げない。 だったら、おれがなんとかするしかないじゃないか。 周りに騒ぎから意識を切り離すように目を閉じる。集中するんだ。ヴォルフラムの傷だけをイメージして、痛みと苦しみを少しずつ引き受けていくんだ。 小シマロンの宿でもやったことだ。ここでできないはずがない。こういうときのための魔力じゃないか! だけど、あの伝わってくるはずの、痛みも痺れもやってこない。 どれだけ集中しても、一向にヴォルフラムの苦痛を感じられない。 「なんで!?どういうことだ、ヴォルフラム!おれのやり方が間違ってるのか?おい、返事しろよ!」 細いその呼吸が止まり、もう冷静な判断力なんか残ってなくて、その身体を揺さぶろうとして、目の前に現れた軍靴に顔を上げた。 「何故、そのマントを……王以外の者が」 あの宿で見た、さっきその名が叫ばれていた、見覚えのありすぎる男が、驚いたように目を見開いて立ち尽くしている。熱風にあおられて、その茶色の髪が揺れた。 「……ナイジェル・ワイズ・マキシーン」 その名前を呟いた途端、おれの頭が真っ白になった。 「お前が!」 同時に周囲も真っ白になる。燃え盛る炎の熱も感じない。立ち上がり、驚愕する男を正面から睨みつける。 「お前がこんな……っ」 身体の奥から湧き上がってくる激情に、身を委ねるのに躊躇はない。 おれはお前を、絶対に許さない。 ヴォルフラムを……。 「よせユーリ!人間の土地で魔術を使うなと、何度言ったら判るんだ!」 下から引き摺り下ろすように胸倉を掴まれて、周囲の光景が戻ってくる。 燃え盛る甲板、走り回る船員、立ち尽くすマキシーン、おれの胸倉を掴む、甲板の上に膝で立ったヴォルフラム。 「……ヴォルフラム!?なんで元気なの!?さっき呼吸が止まったのに!」 「衝撃で息が詰まっただけだ。結婚もしてないのに、死んでたまるか」 そう言って矢を抜いて捨てると、懐から分厚い文庫本を取り出した。 「アニシナに布教用にと渡された、毒女アニシナだ。うっかりシマロンの宿に置いてくるのは忘れたが、おかげで助かった」 「な……なんだ……」 よかった。 安心でへたり込みそうになるおれの腕を、ヴォルフラムが引き上げる。ついてない傷なら治せないはずだ。 こんな事態を巻き起こした張本人、マキシーンはぬけぬけと呆れたように顎髭を撫でた。 「なんと悪運の強……ぶがっ」 背後からの一撃に、甲板の手摺りを掴む間もなく海面に真っ逆様に落ちていった。 「……まあ、カロリアでも三階から落ちて無事だったし」 アーダルベルト曰く、絶対死なないマキシーンらしいからきっと無事だろう。 もうおれは二度と会いたくないけど。 「おや、私は火消しにきたのですが」 火の壁が途切れた向こうから現れたギュンターが、白い泡の吹き出る筒を掲げた。 その姿にぎょっとして、おれとヴォルフが同時に後退りする。 「なんで裸!?」 「いいえ陛下!このギュンター、紳士の嗜みとして最後の一枚は残しております。もちろん陛下の御為に……」 ヒモパン一丁で御為にとか言われても。 「そ、そうだ、それでギュンター!は!?」 「それですが陛下」 「姫なら貨物船です。隊長が引き上げてるのを確認しました」 ギュンターの後ろから、王佐の格好に笑いそうになるのを堪えたヨザックが姿を現した。 いついかなるときでも、余裕の心を忘れない、頼もしいお庭番だ。 「コンラッドが?そ、そっか」 それなら確実に助けてくれているだろうという安心と、別の不安が入り混じる。 だがの所在が判ったところで、今度はこちらの番だった。 「船が沈むぞ!」 「飛び込め!」 あちこちで船員達の悲鳴が上がり、次々に海面に飛び込んでいく。 完全に船が沈む前に、できるだけ遠くに離れていないと、船が沈む勢いに巻き込まれるとどこかで聞いたことがある。 「よ、よしおれたちも……ああ!でもはどうしよう!」 見ると問題の貨物船は、旗艦の沈没に巻き込まれないようにと離れて行っている。 「ど……」 「行け、ユーリ!」 ヴォルフラムが、おれをヨザックのほうへと突き飛ばした。 ヨザックはがっちりキャッチしてくれる。 「で、でも!」 おれだけ逃げて、残るヴォルフラム達は? 「お行きになってください陛下。今を逃せば、聖砂国に渡る機会はございません!」 ギュンターも、下着一枚なのにそれでも似合う苦悶の表情で頷いた。 「どうか、陛下の望むとおりになさってください」 「行け、そして必ず無事に帰って来い!」 聖砂国には、絶対に行かなくちゃいけない。貨物船にはも乗ってる。 だとしたら、おれは。 「……あんた達も、絶対に無事で」 「心配するな。ぼくたちはサイズモア艦がすぐにやってくる」 「じゃあ行きますよ、陛下!」 決意を固めて頷くのと同時に、後ろからヨザックに抱き上げられた。まるで重い荷物を小脇に抱えるときのようだ。 「って、何する……ぅわっ!落ちるーっ!」 何をするって、ヨザックはおれを小脇に抱え、片手でマストに絡げたロープにぶら下がってリアルターザンに挑戦したわけなんだけど。 眼下の青い海が猛スピードで流れていく。 「先に言ってくれよー!」 言われても、おれの覚悟が固まるのを待つ暇なんてなかっただろう。 「……まずいな、角度が」 そして今更、耳元でそんなことを舌打ちする。 「ヨザック!」 進行方向の斜め下にコンラッドが両腕を広げながら駆け込んでくる。 「早く!」 「すみませんね、坊ちゃん」 言い終わるよりも先に、ヨザックはおれを宙に投げていた。 だから、先に言ってくれよ。 どっちにしても、やっぱりおれの覚悟が固まるのを待つ暇なんてあるはずがない。 近付く貨物船の甲板に、身体を固くしてぎゅっと目を閉じた。 だけどやって来た衝撃は、固い板に叩きつけられたものではなくて、上手く抱きとめられて勢いに僅かに息が詰まったくらい。 「お怪我は」 もちろん、抱きとめてくれたのは両手を広げて待っていたコンラッドだ。 「……ないよ。それよりは……」 「有利!」 甲板に降ろされて、長身を見上げたところでその後ろから、濡れて解けた髪を振り乱してが駆けつけておれに抱きついた。 「よかった!無事でよかった!」 「うわっ、冷てっ!ってお前まさか……」 全身びしょ濡れで、肩から大シマロンの制服を掛けて裾を引き摺りそうになっている。 まさか海に落ちたのか!? そういえば、ヨザックはコンラッドがを引き上げているのを見たって言っていた。 「無事でよかったのはお前のほうだろ?」 振り返ると波間に浮かぶ人々は、駆けつけたサイズモア艦に救出され始めている。 その中にヴォルフラム達の姿も見えて、今度こそ息をつくことができた。 「いたた……誰かオレも助けろよ」 呟きながらマストを伝って降りてきたヨザックは、柱に激突したのか額と鼻が赤く染まっている。 「ヨザック!」 の肩を抱きながら、ヨザックの無事を確かめるためという口実でコンラッドから離れた。 は一度だけコンラッドを振り返ったけど、すぐにおれと一緒にヨザックを心配してこちらに自分の意志で歩いた。 「ああ陛下、ご無事で何よりです。姫もヨレヨレですけど、水も滴るいい女ってね」 軽口を叩くヨザックの肩越しに、港の湾内で金鮭号が、轟音と真っ赤な炎を上げて、黒煙の中に沈んで行くのが見えた。 |
どうにか、小シマロンの貨物船で兄妹が合流です。 同行者は更に減ってヨザックひとりに。 頑張れヨザック、またひとりで二人分の護衛……。 |