有利と一緒に舵の見えるところに立っていたら、てるてる坊主姿のままのヴォルフラムが歩み寄ってきた。 フードまで被るのが温かいのか、意外に気に入っているのか、有利のお勧めだったからなのかはわからない。 「ユーリもも、寒いんじゃないのか?船室に入ったらどうだ」 「ここで見てると大迫力なんだってさ。船旅のしきたりで醍醐味だって。せっかく持ち主のお勧めだし」 「ならせめて上着を着ろ」 「はいはい」 有利が渡されていたギュンターさんのジャケットに袖を通そうとして、わたしが強い風に外套を掻き合せたとき、金管楽器が高らかにファンファーレを鳴らした。 「おっと、いよいよ出港か?」 太いロープとタラップが外されて、低い震動とともに錨が巻き上げられる。 船がゆっくりと動き出した。 「ヴォルフラム、サラレギー王は乗ったの?」 ずっと甲板にいたけど、タラップで別れてからその姿を見かけていない気がして振り返ると、ヴォルフラムは軽く肩をすくめる。 「見逃したんじゃないのか?本人を置いて出発するはずがない」 「そりゃそうだよな。一回船室に下りたんじゃないか?きっとすぐ来るよ」 有利も同じことを感じていたらしく、納得して頷いてから船の進行方向を眺めた。 096.濡れた髪(1) 船は港を抜けようと、少しずつ速度を上げながら停泊している他の船の中央を突き進む。 振り返ると、貨物船も後に続いていた。 そこにコンラッドがいる。 ふらふらと有利とヴォルフラムから離れて、甲板を船尾に移動した。 一番後ろにたどり着いて、貨物船を眺めてもコンラッドの姿が見えるわけじゃない。 貨物船と旗艦に別れて、船の中でばったりという偶然がありえないことに、安心するべきか残念がるかを考えて、やっぱりわたしはがっかりしていた。 「どうしてわたしってこう……」 ぺちりと鈍い音を立てて、自分の頬を軽く叩く。 これはとても大切な航海なのに、自分のことばっかり。 叩いた右頬に手を当てたまま、目を閉じてあの夜の、あの人の顔を思い出す。 理由は何でもいい。 勝手に出て行ったわたしに酷く怒った。 心配して、夜中に走って探しに来てくれて、強く……強く抱き締めて。 嬉しくて、だけどだからこそ、悲しくて苦しかった。 以前のようにその背中に手を回して抱きつくこともできず、ただ抱き締められていた。 「……変なの」 大シマロンで会った夜のように、もうコンラッドから抱き締めてくれることなんてないと思っていた。 わたしから縋るしかないんだって思っていたのに、その逆があるなんて。 柵に肘を置いて、頬杖をつきながらサラレギー王お勧めの舳先を望む舵の後ろじゃなくて、船尾で後をついてくる貨物船を眺めていたら、あっちにいるはずのない人物を見つけた。 「サラレギー王?」 柔らかそうな金の髪が船風でたなびいて、それを手で払う姿は間違いなくこの船の本来の船主だ。 どうしてあちらに乗っているのだろう。貨物船に乗るなんて気が知れないと言ってたのに。 後ろの甲板では何か騒ぎが起こっているけど、その姿から目を離せずにいたら、向こうもわたしに気がついたらしく、微笑みながら手を振っている。 「乗り遅れたのかな……」 果たして一国の王に、手を振ってくれたからといって気軽にこちらも振り返していいものか、それとも無視になるくらいなら振り返すべきかと迷っているうちに、後ろの騒ぎはどんどん大きくなってくる。何か事故でも起こったのか、騒然とした物々しい雰囲気に右往左往する叫びが聞こえてくる。 しかも艦が右に船首を動かしているらしく、僅かに貨物船とズレが出てきた。 振り返りたいけど、手を振っているサラレギー王にせめて何か反応を返してから……この距離だと会釈は判別できないだろうし……と迷っていると、貨物船の船倉から、この一行の中で一人だけ国籍の違う、白と黄色の軍服姿が上がってくるのが見えた。 「コ……」 「あの艦、突っ込む気だ!」 「掴まれ、身を低くして何かに掴まれ!」 「ぶつかるぞーっ」 突っ込むって、ぶつかるって何が!? サラレギー王に手を振り返すとか、会釈とかそれどころじゃない叫びに振り返ると、船の横腹に突っ込んでくる中型船が見えた。 「なっ……!」 咄嗟に柵にしがみつく。 だけど次の瞬間訪れた激突の衝撃に耐え切れず、身体が宙へと放り出された。 一瞬、気を失ったのかもしれない。 落下する感覚はなかったのに、身体が水面に叩きつけられる激しい痛みで海に落ちたと判った。 どんどん水底に沈んでいく。 いつものスタツアのように引っ張られているのではなく、これはただ高いところから落ちたせいだ。 遠のく水面にぞっと恐怖が押し寄せて、必死に水面に上がろうともがいても、手足が重く上手く動かない。おまけに上からは木片や木箱が後から後から沈んでくる。 何が起こったのか判らないまま、無我夢中で水面を目指しながら、少しでも後から降ってくる物たちから遠のくようにと足掻いた。 ただでさえ服を着ていて泳ぎにくいのに、外套が水の抵抗を受けやすい。特に腰の辺りから下に引かれるように感じて、剣を佩いていたことを思い出した。 剣帯の留め金を外しにかかるけど、焦ってる上に水の中だから上手くいかない。その間にも、息が苦しくなってくる。 ようやく剣を落とすことができたときは、もう半ば意識が朦朧としていた。 水底に身体を引きずり込まれるような力が渦巻いてきて。 男の人の声が聞こえた。 悲鳴のようなその声は、もう何度か聞いた。 初めてこの世界に来た時にも聞こえた、あの。 ―――! 悲痛な叫びに、意識がぐんと浮上する。 水の中に引きずり込まれている。 日本に帰される。 有利を置いて……コンラッドがすぐ側に、あんなに側にいるのに! 「いやだ!」 叫んだ声は水中に掻き消えて、ごぼりと空気を吐き出すだけ。おまけに口の中に大量の水が入ってきた。 だけど、まとわりつく力を振り払うように手を伸ばす。 あの人がそこにいるのに、帰る、なんて。 手が、空気に触れた。 海面に出ている。 あと少し。 右手が水面にある何かを掴んで、身体を引きずり上げた。 水を飲みながら、だけど酸素も肺に入ってくる。 「……はっ…ぁ……はっ……!」 咳き込みながら浅い呼吸を繰り返す。水が口に入ってきて、水面に出ても息がしづらい。 「!」 あの、朦朧とした意識の中で聞いた声じゃない。 眞王の声じゃない。 前世の、魂の名前ではなく。 わたしの名前を、呼んだのは。 「!そのまま掴んで!絶対に放さないでくれ!」 見上げた先に、船の上から、必死の形相のコンラッドがロープを握って叫んでいる。 水面にいるわたしからは真上すぎて、船より空を背景に背負っているように見えた。 その空の半分は、まるで日が沈みかけているかのように赤い。 「、掴んで!」 コンラッドの叫びに、手首が引っ掛かけていた紐を辿って、まるで釣りのときに使う浮きを大きくしたようなそれにしがみついた。 もう一度上を見上げると、コンラッドの姿が見えなくなって、代わりにしがみついた浮きが紐に引かれて上に引き上げられ始める。 濡れて滑りそうになるしがみついた手は、自分の濡れた服を掴むことでどうにか堪えた。 しがみつくことに必死で、どこまで引き上げられたのかと下を見ることも、上を見る余裕もなかった。 手が痺れて、また意識が遠のきそうになったとき、襟首を掴まれた。そのまま一気に引き摺り上げられる。 甲板の木板の上に投げ出された衝撃はなかった。 代わりに、落ちたのは温かい腕の中だった。 力強い腕が、わたしを包み込むように抱き締める。 「っ……無事で……!」 強く抱き締められて咳き込むと、いくらかの水を吐き出した。 「ああ、海水を飲んだのか。全部吐き出して」 軍服が汚れることも気にならないように、抱き締めた腕はそのまま背中を擦ってくれる。 両手で口を押さえても、吐き出した水は相手の服も汚した。もう既に、わたしを抱き締めて水にぐちゃぐちゃに濡れてはいたけど。 震える手で、目の前にある左腕の袖を握り締めた。 左腕にはわたしがぶら下がっているけど、自由に動く右手が背中を擦って、優しい声が耳に流れ込んでくる。 「もう大丈夫だ、。ここは船の上だ。君は無事、ここにいるよ。大丈夫だろう?冷たい水の中じゃない。俺の体温を感じて」 「……コ…ン……ラ……」 掠れた声は、まだ怯えているからか、海水で喉を痛めたからか、それとも。 また咳き込んだわたしを、優しく抱き締める温かさが、確かにここに。 「……」 あの声が、わたしを優しく呼ぶ。 目を閉じて、温かい体温と、厚い布地の向こうから聞こえてくる鼓動を感じる。 頬を伝う滴が海水なのか、それとも別のものなのか、わたしにもよく判らなかった。 |
危うく溺れかけましたが、力強くあの腕が助けてくれました。 その頃あちらの船上はまた大変なことになっています。 |