部屋が静まり返ったのは一瞬だけだった。 すぐに窓際から三度ばかりの拍手が上がる。 「大変、興味深く見させてもらった。師弟の間に起こった事は知らないがね」 有利に手をついて身体を起こすと、窓際にいた少年が、手を叩いた格好のままで微笑んでこちらを見ていた。 窓から入る光で透けて限りなく白に近いような色に見える金髪の少年は、優雅な足取りで近付いてきてわたしと有利を見比べた。 黒い目をじっと見詰められたけど、有利も髪も目もそのままだから慌てなくてもいいだろう。 相手は薄い色の入ったレンズをしているから目の色までは判らなかった。 「ユーリの妹君、ということだったよね。紹介してくれる?」 「あ、ああもちろん。妹のだよ。、こちらは小シマロンの王サラレギー殿だ」 この部屋にいるだろうと思って飛び込んではきたけど、さっきまではギュンターさんを止めることに必死でそれどころじゃなかったから、驚いて息を飲みかけた。 この人が。 緊張で握り締めそうになる手で、ほどけ掛かっていた紐を解いて髪を降ろしてしまう。 髪が引っ掛からずに流れ落ちて、この方がまだ見苦しくないだろうと胸に手を当てて腰を曲げて礼をした。この格好では淑女の礼よりこっちだと思う。 「初めてお目にかかります、サラレギー陛下。見苦しいところお見せいたしました。ご容赦くださいませ」 「気にしないで。とても勇敢な行動だったよ。ユーリと同じ黒い髪が宙に舞って、とても美しかった……本当に、綺麗だね」 肩から落ちた髪の一房をサラレギー王の指が掬って、思わず顔をしかめかけてしまった。 親しくない男の子に触られるのは嫌だ。 例えそれが髪でも、初対面の人に無断で触られるのは愉快じゃない。 指で触ったくらいではさすがに振り払ったりはしないけど、そのままキスされそうになると、いよいよ拳を握り締めて我慢するしかない。 中性的な外見で。 思い返せば同じように男の子には見えなくらい可愛かったヴォルフラムには、最初からそれほど触られて嫌な感じはしなかった。 けど、目の前のサラレギー王には掌に冷や汗が滲む。 他国の王だから、最初から警戒心があるのかもしれない。 ……髪に、彼の唇が触れようとして。 「ご挨拶はどうぞ後でゆっくりと。それよりも脱出口があるのなら、今は安全を図ることが先だと思われます」 コンラッドが、ごく自然に間に割り込んできた。 094.零度の関係(4) コンラッドに手首を掴まれたサラレギー王の指から、髪が零れ落ちた。 その隙にできるだけわざとらしくないように、髪を耳に掛けて、もう一度掴まれないようにする。 コンラッドはサラレギー王のほうに身体を傾けていて、わたしからはどんな表情をしているのか、ほとんどその顔は見えない。 「元はあなたたちが騒ぎ出したから、遅れたのだけど。まあ確かにそうだね。さあユーリ、殿、こちらに来て。隠し通路だよ」 サラレギー王は、今度は有利の手を掴んで歩き出した。 「隠し……通路?」 有利を引っ張って暖炉に向かうサラレギー王に戸惑って後ろを振り返る。 微かに外の騒ぎは聞こえていて、戦いはまだ続いているのが判った。 「そうだよ。女の子はあまりそういったものには憧れないものかな?わたしは子供の頃に憧れたよ。城の通路は爺やに冒険させてもらえなくて。ユーリはどうだろう?」 「……爺やがいたんだ」 お金持ち発言に有利がげっそりと溜息をついて、わたしはもう一度後ろを振り返り、どうしても気になって身を乗り出す。 「外で戦っている人たちは、このままなんですか?」 「殿下」 ギュンターさんが控えめに止めたけど、サラレギー王は特に気分を害した様子でもなく振り返る。 「彼らを心配しているの?さすがユーリの妹君はユーリと同じで優しいね。でも大丈夫、あと少しすれば、援軍が到着する。釣り上げた反乱分子を残らず捕らえるための、ね。ただわたしには平定するまでゆっくり待つ時間がないから、別の道から出て行くだけのことだよ」 それが本当なら、いいけれど。 「気をつけてユーリ、舌を噛まないように」 一言注意すると、サラレギー王は有利の手を引いたまま暖炉に飛び込んだ。 「有利!」 「陛下!」 「ユーリ!」 慌てて後を追おうとしたけど、ギュンターさんとヴォルフラムに先を越された。 だって。 「どうして、あなたがここにいるんだ」 わたしはコンラッドに、捕まったから。 冷たい声に恐る恐る振り返ると予想通り、わたしの腕を掴んで眉を吊り上げた怒りの表情のコンラッドが見下ろしている。 「あれほど外へ出るなと言っておいたのに……」 「だ……だって……いたっ!」 今度は横から、コンラッドに掴まれていないほうの腕を力いっぱい引っ張られて、思わず悲鳴を上げるとコンラッドの手が離れた。 「大シマロンの御仁が、うちの殿下に気安く触れないでいただきたいね」 「ヨザック」 振り返るとヨザックさんは、以前ヴァン・ダー・ヴィーアに行った頃にわたしに見せていた、ロジャーラビットみたいな笑みを浮かべて、わたしを引き寄せながら暖炉に手を向ける。 「あんたは小シマロン王の客人なんだろ?お先にどうぞ、ウェラー卿」 コンラッドはぴくりと眉を動かしたけど、もうわたしを一瞥もせずに暖炉に飛び込んだ。 「……やれやれ、なんだろうな、あいつ」 「あの、ヨザックさん……近い……」 後ろからガッチリと首をホールドする位置に太い腕があって、このまま締められそう。 しかもまだ完全に触れてはいないけど、背中にヨザックさんの体温を感じるくらいに近いので、二重の意味で非常に落ち着かない 腕を軽く二回ほど叩いて外して欲しいと意思表示すると、上から降ってきた声はちっとも友好的じゃなかった。 「あぁら、だって姫ってば、後ろからこうやっておかないと、オレの脛蹴り上げてどこかへ逃げちゃうんですもの」 「う……」 さっきギュンターさんを止めることに必死で、捕まっていたヨザックさんの腕を外させるのに手段を選ばなかったのは確かだ。ヨザックさんが、振り払われるはずがないと二人の剣戟を見ていたのは、まさかわたしがあそこまで暴力に訴えるとは思ってなかったからなんだろうし。 「その、先ほどはとても酷い真似を……」 「いいんですよぅ。姫が隊長しか見えてないのはもうわかってますからぁ」 「いや、そ、そんなことは……」 「じゃ、陛下しか見えてないに言い換えましょうか?」 「大変申し訳ございません」 上から苦笑が降ってくる。どうやら許してくれたらしい。 今、真上を見上げるとすぐそこにヨザックさんの顔があるから上は向けないけど、入り口なら見ることができる。 振り返るとヨザックさんにホールドされたまま方向転換されて、後ろにある身体で入り口が見えなくなった。 「ご心配なく。小シマロン王が反乱分子を一網打尽に捕まえたかったことは事実です。すぐに援軍がくるでしょう。門前のいるうちのやつらも、それまで生き残ればたぶん問題ありません」 「本当に……?」 「姫」 また苦笑が振ってきたけど、今度はどこか寂しそうな、そんな声だった。 「あなたや陛下がオレたち下っ端の命まで気に掛けてくださる事はよぉーく知ってます。ただね、下っ端代表として言わせていただきますと、今回みたいな場合、脱出路があるなら陛下たちには逃げてもらわなくちゃ困るんですよ。あなた自身は、個人として陛下が大切なんだとしても、ご自分と陛下の命を量る時、オレにはいつもそう言うでしょう。王と自分と、どちらを守るべきか考えろと。時には見捨てることも、上に立つ者の役目です」 「………はい」 納得できないけど、納得しなくちゃいけない。 もしも本当は援軍が来なかったとしても、脱出路があるのにここで踏みとどまっていて、それで有利にもしもがあってはならない。そうなるくらいなら……やっぱりわたしは有利の手を引いて逃げるだろう。 見捨てるなんて、絶対にしたくないのに。 掌に爪が食い込むほど拳を握り締めて頷くと、大きな掌で髪がぐちゃぐちゃになるくらいに頭を撫でられた。 「いやですよう、そんな葬式みたいな声出して。だから今回は大丈夫だって言ってるじゃないですか。じゃ、オレたちもそろそろ行きますよ」 「え、行くって」 これ以上髪をぐちゃぐちゃにされないように、両手で頭を押さえていたら、そのまま抱き上げられた。 「ぎゃあ!」 「……そんなすっっごい、嫌がらなくてもいいじゃないですかー。いい加減オレ相手でも慣れてくださいよ、ね!」 最後の「ね」とわたしを抱き上げたままヨザックさんが暖炉に飛び込むのは同時だった。 「な、なな、なにー!?」 暗闇の中、ひたすら坂を落ちていく。急斜面が滑り台になっているらしいんだけど、角度がありすぎて滑り台とは言い難い。 「わたし絶叫系きらーいっ!」 まるで水に潜らないスタツアみたい。 「あつ、あつ!摩擦で尻に火が点きそう!」 わたしを膝に抱えているヨザックさんは摩擦に悲鳴を上げている。 どこまでこれが続くのかと思った途端に、宙に放り出された。 「ひゃ……っ」 「姫、歯ぁ食いしばって!」 言われた通りにしたと同時に衝撃が来る。もうちょっとで舌を噛むところだった。 けど、わたしのシート代わりになってくれていたヨザックさんは、それ以外にもいろいろと痛そう。 「だ、大丈夫ですか?」 膝から下りて振り返ると、ヨザックさんはヒラヒラと手を振って笑った。 「大丈夫ですよ、ご心配ありがとうござい……」 「、無事か?」 床に手をついて腰をさするヨザックさんを窺っていたら、ヴォルフラムが後ろからお腹に手を回して軽く抱き起してくれた。片手に灯りを持っているから、抱き上げるのも片手で。 相変わらず見た目と違って力があるよね。 「あ、うん。大丈夫、ありがとう」 「……姫。なんでそう閣下とオレでそんなに態度が違うんです?オレが触ったら悲鳴をあげるのにぃー」 「え、あ、それは大変失礼を……」 「何を当たり前のことで拗ねている。ぼくはの義兄なんだから当然だろう」 「……へいへい、そうでございました」 きっぱりと言い切られて、ヨザックさんは諦めたように腰を擦りながら立ち上がる。 「ユーリ、こっちだよ」 ずっと先のほうでサラレギー王が手を振っていて、有利が手を振り返している。 「……なんだか随分、仲良くない?」 有利はともかく、気軽な態度の王様に首を傾げると、ヴォルフラムは不機嫌そうに鼻から息を吐き出した。 「そうだ、どうもさっきから気に入らない。ユーリにベタベタベタベタと」 「えー、それは」 嫉妬、の方向なんでしょうか? 余計に怒らせそうなので言葉に詰まると、意外なことに心もとない灯りの元で、ヴォルフラムは深刻そうな顔で眉間にしわを寄せていた。 「ああいう手合いは信用できない。さっきユーリにはほだされるなと釘を差して置いたが、あいつはどうもへなちょこだからな……心配だ。も気をつけろ。笑顔で近付いてナイフを隠し持っているというのは、ああいう奴らの常套手段だからな」 「まさか……」 近付いて笑顔で挨拶をしてきた、わたしよりよっぽど繊細そうに見えた少年。 心配しすぎではと首を傾げながら、髪を触られて掌に滲んだ冷や汗を思い出す。 あれは初対面の男の子に触られたことが嫌だっただけだと思うけど。 「あ、ユーリのやつ!」 それまで至極真面目そうだったヴォルフラムの顔が一変して、怒りに燃え上がった。 駆け出した先を見ると、有利とコンラッドが並んで何かを話している。 先に行っていたギュンターさんまで駆け戻ってきて、コンラッドはすぐに有利から離れた。 その一瞬、振り返ったコンラッドと視線が合う。 だけどコンラッドはすぐに視線を外して、サラレギー王を追って先に行ってしまった。 「姫、オレたちも行きましょう」 ヨザックさんが肩を叩いて促してくる。 「……ヨザックさん……わたし今、きっと情けない顔してる」 「大丈夫ですよ、ここは暗いから見えやしませんて」 ヴォルフラムが行ってしまったから確かに暗いけど、わたしからヨザックさんが見えているのに、逆が見えないはずがない。 その言葉に甘えて、有利たちに追いつくまでには垂れ下がった眉を引き上げるつもりで、地下の通路に踏み出した。 |
近付けば触れることができる距離ですが、周囲がそれを許しません。 それが救いなのか、それとも逆なのか。 |