重い荷物が放り出される音に、彼と目を合わせないよう床に視線を落としたまま振り返る。 床には血を流した兵士が二人倒れていた。二人とも、黄色と水色の小シマロンの軍服だ。 その向こうにある軍靴をゆっくりと辿っていくと、軍隊仕様の外套を肩から胸にかけてまで黒く染めて、血の付いた抜き身の剣を下げている男が立っていた。 更に視線を上げると、その茶色の目はおれじゃなくてサラレギーに向いていた。 094.零度の関係(3) 「門前に放置されていたのを拾ってきた。正面ではまだ交戦中だ。警備側も善戦しているが分が悪い。どうなっているんだ、小シマロン王。あの連中は一体誰だ?」 「何者だ!」 「構わないよ、ストローブ。彼は大シマロンからの使者だ」 武器を手にした部下を、サラレギーがやんわりと止める。 「あなたは、ベラール殿下の新しいお気に入りだね、ウェラー卿。噂は聞いているよ」 「殿下に命じられて首都まで行けば、王は出立した後だ。港まで走らせるつもりでやっと追いついたら、宿の外壁は剣と槍で囲まれている。それも攻め手も守り手も同じ軍服姿。どういうことか、説明していただきたい。私にもベラール殿下に報告する義務がある」 「見ての通り内乱だよ。とても小規模な。彼等はわたしの外交政策に反対し、過激な手段で聖砂国への出航を妨害しようとしている。そういうことだ」 二人の話を聞きながら、椅子から滑り降りて床の兵士に触ってみた。 まだ温かい。微かに息がある。 目を閉じて指先に集中してみる。指先から痺れるような感覚が伝わってきて、それが段々全身に広がる。 「ではサラレギー陛下、小シマロン王は内乱を打ち捨てて、国を離れると言われるのか」 「ウェラー卿、それは大した問題ではないね。この機に乗じて彼らが蜂起しようとすることは予測できた。寧ろ小規模すぎて炙り出せずにいた反乱分子を、ひと思いに処分できる好機でしかない」 段々、二人の声が遠のいてきた。目の前が白く霞がかってくる。 「戦況が落ち着いたらここを出よう。こういう時のための隠し通路がある」 「私も同行することになりそうだ」 私って、誰だ? 思わず顔を上げかける。 「……わたしの船に乗るつもりだね?」 「そうだ。行き過ぎた動向が予想される場合、大シマロンは小シマロンを監督する義務がある。それは承知の上だろう、サラレギー陛下」 「やれやれ……」 「何をしている!?」 サラレギーの溜息と同時くらいに、後ろに引っ張られた。ヴォルフラムだ。 「こいつらの怪我を治そうとしたのか!?馬鹿なことを……っ」 「ばかなことじゃ、ないだろ」 死にそうな人が目の前にいたんだ。できることをしたくなった、だけじゃないか。 「大丈夫、ちょっと目が回ってるだけだって」 くらくらする目を押さえた手を降ろして……失敗した。 見上げてしまったのだ。 彼を。 懐かしい姿が見える。 傷の残る眉を僅かに寄せて、何か言いたそうにおれを見ている。 ちくしょう。なんだってこんなときに、おれのほうを向いていたんだよ。 お陰で目が合っちゃったじゃないか……。 重い手を上げる。上げようとした。 その胸倉を掴んで揺さぶってやりたい。 がずっと泣いているんだ。 あんたが好きで、あんたが大事で、ずっと心配して、それから。 あんたに帰って来て欲しいって。 おれには涙を見せないようにして。 コンラッドが一歩踏み出した時、おれの視界が明るい灰色に染まった。 高い金属音が響く。 何が起こったのか、咄嗟に理解できなかった。 それが剣戟の音だと判ったのは、聞いたこともないほど低く押さえたギュンター声が耳に入ってきてからだった。 「それ以上陛下に近付けば、あなたを斬り伏せることになります」 「正気か、ギュンター」 おれの視界を遮ったのは、ギュンターだったのか。その向こうから僅かに動揺したコンラッドの声が聞こえる。 「あなたが反対派の手先でないとどうして言い切れます?あるいは大シマロンが魔族の失墜のために、魔王陛下の御命を狙って放った刺客であるかもしれない」 「俺はここに眞魔国の使節団がいたことさえ知らなかった。知っていれば……」 「国を裏切った男の言葉など、信じられるものですか!」 ギュンターが一気に踏み込んで、刃が交わった高い音が響く。 「あなたは最早、眞魔国の者ではない!」 「やめて!」 またドアが勢いよく開いた。 今度こそ、おれも、ヴォルフラムも、壁際にいたヨザックも、ぎょっとして目を見開く。 そして鍔迫り合いをしていたギュンターとコンラッドもよろめくようにして後ろに下がった。 「もうやめて!それ以上は言わないでっ」 両開きのドアを開いて、苦しそうに顔を歪めて立っていたのは。 「……」 なんでお前がここに……。 すぐにドアを守っていた警備兵がの腕を掴んだ。 「こいつ!」 「やめてくれ!おれの妹だ!」 賓客ということになるおれが叫んで、兵士が驚いたようにぱっと手を離す。 叫んだ途端にまた目が回った。ヴォルフラムがぐらつくおれを支えてくれる。 「……どうして……」 コンラッドが信じられないものでも見たような目でふらりと手を伸ばしかける。 「殿下に近付くことは許しませんっ」 ギュンターの一閃を剣で受け止めて、コンラッドは強く舌打ちした。 「よせギュンター。お前とやり合う理由は……」 「私にはあります!」 下から突き上げるような珍しい振りをして、それを受けたコンラッドの剣の刃先が欠けた。 「やめて!ギュンターさん、お願い、やめてっ」 部屋に駆け込んできたを、入り口近くにいたヨザックが腕を掴んで引き止める。 「危険です」 「離して!」 はその手を振り払おうと必死になっているけど、ヨザックとじゃ力が違う。 「く……そ……」 支えてくれるヴォルフラムから身体を起こしながら、その服を掴んだ。 「止めてくれ、ヴォルフ……怪我でもしたら大変なんだろ?おれが治療するって言っても、人間の土地じゃ魔術を使うなって言うじゃないか」 「誰が怪我をするって?コンラートか?」 「どっちもだよ!どっちが傷付いても……いやなんだよ」 おれも、も。 「それにギュンターは剣なんて滅多に」 ヴォルフラムは面白くなさそうに首を振った。 「本気で勝負するのなら、互角か、危ないのはコンラートかもしれない」 「ええ?」 「いいからやらせておけ。お前とがいなければ、ぼくやグリエが代わりたいくらいだ。お前だって、二、三発くらい殴ったって気がすまないだろう」 ヨザックを振り払おうとしているが目に映る。 「……確かに」 思わず同意しかけてしまう。 おれまでそんなことでどうする。しかもギュンターとコンラッドは、剣で戦っているんだ。 拳と拳の語り合いなら、夕陽の丘で仲直りのパターンだがこれはしゃれになってない。 「でも、が泣くんだよ」 の名前を聞くと、ヴォルフラムも困ったように眉を下げた。 「夜、様子を見に行ったらさ、寝てるが泣くんだ。昼間は平気そうな顔してるのに、晩になったら一人で泣くんだ。おれに判らないように、一人で。おれがよく涙を拭いた。そしたら、コンラッドの名前を呼ぶんだ。朝になって、おれはそれを知らない振りをする。それではいつも通り生活して、また夢の中で泣くんだよ……一人で」 「ユーリ」 「やなんだよ。殴ってやりたいよ!だけどそしたらまたが泣くだろ!?」 立ち上がろうとするのに力が入らない。 顔を上げた先にいたサラレギーは、窓辺に避難していて、おれたちの様子を興味深げに眺めている。その表情には、困惑も侮蔑も浮かんではいない。 「くそっ」 力の入らない足を叩いた。 「こんな服を着させるために、全てを教えたわけではありません!」 苦痛に満ちたギュンターの声に、足を叩く手が止まった。 そうだ、忘れていた。ギュンターは多くの生徒を持つ教師だったって。 コンラッドのことを、優秀な生徒だったと自慢げに語っていたことを。 「では何のために兵を育てた?戦場で華々しく死なせるためか」 「私はずっと、生きて国家に、眞王とその代行者たる魔王陛下に、最後まで忠実にお仕えする者をと……」 「多くのものが望むとおりになっただろう」 対するコンラッドの声は冷たい。 剣戟の合間に交わす言葉は、どこまでも平行線だ。 「あまり欲張るな」 激突した剣が今度は跳ね合わず、ギリギリと音を立てて力比べになる。 「何故です……私は陛下の剣となり盾となる道を、あなたに示したはずなのに」 ギュンターが苦く呟いて、中央で交差していた長剣同士が微かな音を立てて滑り落ちる。 「……あなたは、魔王の御許にいればいい」 「その言葉はそのまま返そう。誰より誠実な者にこそ相応しい」 二人が剣を再び交わそうとした後ろで、ヨザックの脛を蹴り飛ばしたがその腕を振り払ったのが見えた。 「っ」 おれの悲鳴に反応したのは。 ………ギュンターだった。 おれの目の前で、ギュンターの剣が音を立てて根本から折れる。 同時に、がタックルの勢いでギュンターの腰に飛びついて床に引き倒した。 の頭を覆っていたバンダナが外れて、長い髪が解けて散らばる。 予想もしない幕切れに、誰もが言葉を無くした。 先に起き上がったのは、下敷きにされたギュンターのほうだったけど、がその両肩を掴んで床に押し倒す。 ギュンターが息を飲んだ。 髪に隠れたその表情は、見下ろされたギュンターにしか見えなかっただろう。 「やめなさいと、何度言ったら判るの!?」 「で、殿下……」 「あなたは……っ」 言葉に詰まったようにが沈黙すると、ギュンターがを落とさないようにゆっくりと起き上がる。 その耳元に、俯いたが何かを囁いた。 ギュンターははっとしたようにを下から窺おうとしたけど、俯いたままですぐにがギュンターから離れてしまう。 「くっ……」 ようやく足に力を入れて立ち上がれた。 重い足を引きずって、気まずい沈黙が流れる三人の間に入って、を抱き寄せる。 は逆らわずに、引き寄せたおれの肩に顔を埋めた。 「ギュンター」 「は、はい」 「おれの前で、おれ以上に青臭い諍いはやめろ。ここをどこだと思ってる」 「申しわけ……ございません。陛下」 肩を落として情けない顔で謝っているのは、たぶんおれに怒られたからだけじゃないだろう。の背中を窺っている。 の頭をおれの肩に押さえるようにして、今度はコンラッドを振り返る。 「大シマロンの使者の方には、おれの部下がとんだ無礼を働いた。申し訳ない」 「……ほんの戯れです。どうぞお気になさらずに」 剣を振ってまだ残っていた血を払うと、コンラッドはその武器を鞘に収める。 はおれの服を握り締めるだけで、泣いてはいなかった。 |
どうにか争いを止められました。 当人よりも、周囲のほうがつらいこともあります。 |