その町に着いたのは、やっぱり夜が明けてからのことだった。 誰かに抱き上げられた感覚で目を覚ます。 どうやら、わたしは馬上だというのにしっかり眠っていたらしい。あの状況で、どういう神経なんだろう。 「ああ、起こしてしまいましたか」 そう言いながら、わたしを抱き上げたまま大股で歩くコンラッドはどこかの建物に入った。 どこかって、次の町の宿だろう。 「……降ろして。一人で歩ける……」 「いいえ、どうぞそのままで。眠っていてください」 そう言われても、フロントに行くのに、この体勢はかなり恥ずかしいのですが。 それに、コンラッドの表情がどこかピリリと神経質に引き締まっているように見えて、目が冴えてしまった。 「何かあった?」 降ろしてもらいながら訊ねると、コンラッドは眉間にしわを寄せてしばらく黙った。 ちょうどベルで呼ばれた宿の人がフロントにやって来る。 コンラッドはすぐに一部屋だけ借りる手続きをして、部屋の鍵を受け取るとわたしの手を引いて階段を上がった。 093.言いそびれた言葉達(1) 部屋に入るとコンラッドは、部屋の中をぐるりと点検して、カーテンの開いていた窓から外を窺う。 今までの宿では見られなかった行為に、何をしているのだろうとぼんやり眺めていると、入り口前に突っ立っているわたしに気付いたコンラッドが、窓から離れて手を引っ張った。 「そんなところで立ち止まっていないで、奥へ」 そう言いながら、部屋の外の気配を窺っているようだった。 「コンラッド?」 「……ここじゃないみたいだな」 「何が?」 連れて行かれたベッドに腰を降ろして見上げると、コンラッドは苦笑しながら荷物を少しだけ解いた。 「ここでお別れです」 「え……」 あまりにも突然の宣言に驚いて言葉に詰まる。 コンラッドは日本から着てきたわたしの服とお金を一緒にして、自分とは別の荷物を作る。 まさか、わたしの不純な考えが見抜かれたのかと思ったけれど、そうではなかった。 「町の様子が少しおかしい……さりげなくを装っているが、警備の手が町の入り口にまで届いていた。どうやらこの町の一等の宿にサラレギー王がいるようです。一応確認して、もし違うようなら戻ってきますが、サラレギー王に追いつくことができたら、その後は俺はあちらと一緒に移動する。あなたを連れてはいけない」 「あ……」 それは、昨日になって気付いたという間抜けな話ながら、軍港に着く以外の、もうひとつのコンラッドとの別れの契機だった。 「そ……う………」 首を前に落とすように頷きながら、ここまでありがとうございましたとお礼を言わなくちゃと思うのに、その言葉がなかなか出ない。 だってそれは、別れの言葉だ。 「」 テーブルに重い金属が置かれた音が聞こえて顔を上げると、そこには剣が置いてあった。 コンラッドが使うには小さい。それにコンラッドの剣は今もまだ腰にある。 「これは、あなたに。使わずに済むはずですが、一応、念のためです」 「あ……ありがとう……」 これは違う。これはまだ別れの言葉なんかじゃないとお礼を言うと、コンラッドはなぜか顔をしかめた。 「礼はいりません。本当なら、俺の手で軍港まで送り届けたかった。ですがそれが叶わない以上は、護身のために……止むを得ない。……できれば渡したくなかった」 真剣な表情は、それがコンラッドの本心なんだと思う。 そこに含まれている意味までは、測れないけれど。 「いいですね、あくまで護身用です。無闇に抜いてはいけません。ですが、もしものときは、これを使うことを決してためらわないでください」 わたしの分の剣と荷物を置くと、コンラッドは少ししかない自分の荷物を手早くまとめる。 「は、絶対にこの宿から動かないでください。国許へは赤鳩特急便を送っていますから、あなたが軍港に現れなければ必ず、向こうから逆走する形で探しに来ます。遅くとも三、四日程度でしょう」 「え、あの……」 「あなたから軍港に行こうとか、あるいは迎えが来るまで町を探検してみようとか、絶対にしないように。一応、三ヶ月はこの宿に滞在できるだけの金は置いていきますから、例え一人で心細くても、半月は宿から動かないでください」 「は、半月も?」 「ええ、下手に動けば迎えの者があなたを見落とすかもしれない。……特に今日は何があっても……そうだな、宿が火事になったりしない限りは、自分から出てはいけません。もしも半月以上経っても迎えがこない場合は、大シマロンの俺に連絡をください。この町の民間の連絡業者はここです。手紙には署名はしないで。この手本通りに書いて送れば大丈夫です。手順もすべてここに書いておきました」 そう言って何かを書き付けた紙を、テーブルに置いた剣の下に滑らせる。 妙に何度も宿から出るなと念を押してきて、それが気になった。 「……何か隠してる?」 「いいえ、特には。あなたの髪の色が知れると大変だから、外に出るなと言っているんです」 「……コンラッド」 ぎゅっと眉を寄せて、コンラッドを見上げた。やっぱりコンラッドは何かを隠している。 「わたしはコンラッドが隠している何かが、外に出てはいけない理由についてだと言った覚えはないけど」 意地の悪い論法だ。 確かにコンラッドは他にもいくつか注意をしたけど、何度も繰り返したのは『外に出るな』の一点だけだから、殊更それと指摘しなくても隠していることがあるとすれば、外に出てはいけない理由だと感じるに決まっている。 コンラッドも眉間にしわを寄せて難しい顔をすると、溜息をついた。 「とにかく、必要なことは言いました。それでは、俺はこれで」 一度も椅子に座ることもなく、宿に入ってすぐに出て行くというコンラッドに驚いて、ベッドから下りて駆け寄る。 「もう行くの!?」 「サラレギー王がいつ出発するとも限りませんから」 「だって、さっきはわたしにまだ眠ってろって言ったのに!」 宿に着いて起きたわたしに、まだ寝ていなさいと言ったのに、早口の説明だけをしてもう帰ってこないつもりだなんて。 「―――黙っていなくなるつもりだったの?」 「同じ内容を書き置きしていくつもりでした」 「やっぱり、黙っていなくなるつもりだったんじゃない!」 ここで別れたら、次に会えるのはいつになるか判らない。 ひょっとしたら、二度と会えないかもしれない。 それなのに、コンラッドは黙って姿を消すつもりだったんだ。 ひどい。 そう言いかけて、両手で口を押さえる。 もう関係もないのに、コンラッドの都合もあったとはいえ、ここまで連れてきてもらって、ひどいはないだろう。 ……でも、ひどい。 そんなに何度も改めて、わたしのことが不要だなんて、示さなくてもいいじゃない。 どうして、最後にお別れをいうことさえ、嫌がるの? 「わ、わたし、まだここまで連れてきてもらったお礼も言ってない」 「必要ないと言ったでしょう。俺は俺の都合で連れてきただけです」 「でもお礼を言いたいのは、わたしの感情だわ。あなたには必要なくても、わたしは言いたいの!」 「……つくづく愚かな人ですね」 コンラッドが苦く笑って、大きな掌がわたしの頬を撫でる。 言葉を無くしたわたしに、その苦い笑顔だけを残してそれ以上は何も言わず、部屋から出て行ってしまった。 音を立てて閉められた扉を見つめたまま、へなへなと床に座り込んだ。 ……行ってしまった。 視界が歪む。 頬が濡れていて、床についた手の甲に水滴が落ちてきた。 コンラッドは行ってしまった。 振り返りもせず、わたしにお礼すら言わせてくれないままに。 「ひ……どい……」 そんなのは、今更だ。 コンラッドは散々、もうわたしなんていらないと、そう態度で示してきた。 判っている。今更なんだ。 ぽたぽたと音を立てて床に落ちる涙はとめどないのに、それが嗚咽に繋がらない。 この一週間近く、息さえもできないほどに毎晩のように枕に顔を押し付けて、隣で眠るコンラッドに嗚咽を聞かせないようにとしていた。 もう、声を上げて泣いてもいい。 それこそ泣き喚いて、部屋中を暴れても、もうコンラッドは帰ってこない。 だから声を上げていいのに、まるで喉に大きな飴でも詰まったみたいに、声が出ない。 「………ッド……」 もう名前を呼んでも、返事をしてくれる声はない。 もうすぐだと思っていたくせに、小シマロンの王に追いついてしまえば終わりだと判っていたはずなのに、あまりにも突然すぎて頭では理解していても感情がついてこない。 鉛のように重い手を持ち上げて、頬に当てる。 最後にコンラッドが撫でた右の頬。 もう涙で濡れて冷たいのに、温かいコンラッドの掌の感触を覚えている。 「……いかな……いで……」 悲しいとか苦しいとか寂しいとかつらいとかの感情で胸が詰まって、息も上手く吸えない。 両手で胸を掻き毟るように服を掴んで、床に額を打ち付ける勢いで身体を折り曲げる。 苦しい。悲しい。寂しい。 ……行かないで。 いつもいつもいつも、あの日から、もうずっとあなたの背中ばかりを見ている。 左腕を無くしても戦っていたあの背中から、もうずっと。 窓から光が差し込んできて、完全に夜が明けたことが判った。 折り曲げていた身体を起こして、胸の辺りの服を掴む両手を見下ろす。 服じゃなくて、その下の小さな袋を握り締めているんだ。 拭いても拭いても溢れてくる涙を袖で拭って、よろよろと力の入らない足で、椅子に縋りつきながら立ち上がる。 一緒に行けなくても、もう声を聞けなくても、小シマロンの王が泊まる宿を見つけ出せば、この街から出て行くコンラッドの顔を遠目でも、もう一度見ることくらいはできるかもしれない。 だからなんだと、自分でも思う。 顔を見たって、つらさが増すだけなんじゃないのかと、そう思う。 またその背中を見送りにいくのかと。 足を叩いて、ようやく震えを力づくで止めると、剣帯をつけて、コンラッドが置いていった剣を腰に佩く。 顔を洗って、鏡を見ながらバンダナから髪がはみ出ていないか入念にチェックしてから、色のついたメガネをつけて、部屋を出た。 言いつけを破って外に出て、もしもコンラッドに見つかったら嫌な顔をされるのは判っているのに。 どうせコンラッドの中ではわたしはどうでもいい、愚かな存在なんだから、呆れられても、怒られても構わない。 このまま部屋で泣いていても、もう一度だけ顔を見に行っても、置いていかれることに変わりない。 判っているのに。 宿から出ると、明るい日差しが街を照らし始めていた。 |
突然の別れが受け入れられずに外へ……。 |