それから三日間、旅の行程は順調だった。 今回のスタツアは小シマロンの首都サラレギーに出て、そこから小シマロン王サラレギーを追うコンラッドに連れられて、サラレギー記念軍港に向かっていたわけなんですが。 「すっごく自己顕示欲の強い王様だなー」 今ごろになって、ふとそんなことを呟いたら、手綱を握っていたコンラッドが首を傾げた。 「何がですか?」 「小シマロンの王様のこと。だって首都とか軍港とかを自分の名前に改称しちゃうなんて、よっぽどの自信がないとできないというか。なにかすごい偉業を成し遂げたとか、そんなのかな、と思って」 「偉業といえば、偉業でしょうか。サラレギー王は二年前に弱冠十五歳で即位して以来、奇妙なまでの求心力でこの広大な国土をまとめ上げていますから」 「二年前。たった二年で国をまとめちゃうんだ」 しかも二年前で十五歳ということは、今はまだ十七歳。有利やわたしより一つ年上なだけ。 小シマロンにとっては、それは確かに素晴らしい王なのかもしれない。 だけどわたしは、その名前にいい思い出はない。 わたしの脇を通って手綱を握るコンラッドの左腕に目を落とす。 フリン・ギルビットに連れられて大シマロンへ向かう途中に連行された、小シマロンのスタジアムで、ナイジェル・ワイズ・マキシーンという男が演説で何度も口にした名前だ。 最悪の箱、『地の果て』を開けようとした、あの演説で。 092.連日連夜(5) あれは、確かにコンラッドの腕だった。間違いない。近くで見て触りもしたから、それだけは絶対だ。 近くで見て、触った……。 『鍵』をどうにかしなくてはならないと握った手の、あの硬く冷たい感触を思い出して背筋が寒くなった。 砂のように崩れて消えてしまった、コンラッドの腕。 崩したのは、わたしだ。 でも確かに、今もコンラッドは左腕を持っている。何の不自由もない様子で動かして。 ぎゅっと目を閉じると、わたしを庇って教会の床に落ちたあの腕が瞼の裏に浮かんだ。 「コンラッド」 「はい」 「………左腕、痛くない?」 そっと服の上から、あの傷がある辺りを撫でてみる。 コンラッドの左腕はぴくりと動いたけど、上からは苦笑が落ちてきた。 「が気にすることじゃありません」 「だって!わ……わたしを庇ったせいなのに」 コンラッドを助けようと魔術の使用を試みて失敗した、わたしを護るための怪我だった。 あのとき、わたしが有利と一緒に素直に逃げていれば、コンラッドは腕を失わなかったかもしれない。 ……今でも眞魔国に、いたかもしれない。 そういうことじゃないんだとは思うけど、そんな馬鹿なことを考えずにはいられない。 「あれから、もう何ヶ月も経っています」 「判ってる。この左腕がちゃんと動いているのも何度も見た。でも、だけど……っ」 「……気にすることはないんです。あれは俺の仕事だったんですから」 「仕事……」 「ええ、仕事です」 あのとき、まだコンラッドはわたしの側にいた。 だけど、わたしを護ったのは仕事だからという。 判らない。 それなら本当は、一体いつから、わたしの側にいることが義務だったんだろう? 「それでも、まだあの夜のお礼を言ってなかったから……ごめんなさい……ありがとう」 「律儀な方だ。俺は役目を果たしただけなのに」 苦笑する声に、目を閉じる。 本当は、最初からわたしを好きだなんて、嘘だったんじゃないだろうか。 好きだとか、愛しているとか、側にいるとか、大切だとか、本当は、全部嘘で。 それこそ、嘘だ。 そんなはずない。 だって心配して、つい数日前だって本気で怒ってくれた。 ……それはコンラッドにも都合があるからで。 男の人が怖くてなかなか進めないわたしを、待っていてくれると言った。 ……子供には興味がないから、別に待ってたわけなんかじゃないかもしれない。 理由をつけようとすれば、今までの言葉が全部嘘だったと、いくらでも理由をつけられる。 だけど違う。 それはない。それだけはない。 あの言葉も、あの笑顔も、あの優しさも、あの温もりも、あのときは全部本当だった。 そのはずなのに。 考えることに疲れてしまって、溜息を漏らして首を振る。 馬鹿馬鹿しい。どれだけ考えたって、一緒なのに。 もしもコンラッドの言葉が嘘だったとして、それでわたしがコンラッドを嫌いになれるのかといえば、それは限りなく不可能に近い。 どうしようもなくこの人が好きで、忘れたくても忘れられなくて、それが監視でも側にいてくれるのなら、それが嬉しいことに変わりはない。 だったら一緒じゃない。 もう考えることには疲れてしまった。 どうしても好きで、どうしても忘れられないのなら、もう一生消えないように、その存在を、わたしの中に刻み付けて欲しい。 決心がつかなくてずるずるとここまで来てしまったけど、順調に旅が続けば五日で軍港に着くという話だったから、明日にはこの旅が終わる。 夜をともに過ごすのは、今日が最後かもしれない。 目を閉じて後ろのコンラッドにもたれかかると、コンラッドは左手をわたしのお腹に回して落ちないように体勢を整えてから手綱を握り直した。疲れたから少し眠ろうとしていると思ったんだろう。 ……明日別れてしまったら、今度こそもう二度と会えないかもしれない。 目を閉じてコンラッドの左胸に耳を当てると、一定のリズムの心音が聞こえた。 眞魔国に帰った夜、グウェンダルさんと話したことを思い出す。 側にいなくても、生きていてくれて嬉しい、と。 冷たくされて、どれだけつらくて苦しくて悲しくても、それはすべてコンラッドが生きているからこそ、感じることだ。 生きているからこそ、今ここにいる。 だけどそれも、明日別れてしまったら、今度こそもう二度と会えないかもしれない。 だから。 コンラッドが無事に生きてここにいるのだと、わたしの中に刻み付けておきたい。 側にいなくても、二度と会えなくても、あの絶望よりはずっといい。 それを知りたい。 コンラッドの心音を聞きながら、その外套をぎゅっと握り締める。 仮初の愛でもいい。 わたしが今どうしても、自分が傷付いても欲しいのは、きっとこの人の愛情じゃないんだ。 コンラッドが生きていて、今ここに、側にいるという証。 もう二度と会えなくても、遠い所で生きているのだと、それを覚えておきたい。 こんなことを言えば、呆れられるかもしれない。 浅ましいと今度こそ本当に嫌われるかもしれない。 それでも、わたしは欲しい。 だから今夜。 愛していない相手でも抱けると言ったのは、あなただ。 ところが……計画通りというか、思惑通りいかないのが世の中なんだよね……。 コンラッドの気持ちがなくてもいいなんて、そんな考えに罰が当たったんでしょうか。 焦げ臭い匂いの漂う中、町でたった一軒だった焼けた宿を前に、わたしは唖然として佇み、コンラッドは軽く肩をすくめた。 どうやらその宿で小火騒ぎがあったらしい。すでに鎮火されていて、怪我人も出なかったみたいで幸いなんだけど、みなさん、客の対応どころじゃない状態。 「参りましたね。この様子だと今日は営業しそうにない」 今日泊まる予定だった町が中継点でしかない、本当に小規模だったことが災いした。 「民家の一角を借りるという手もありますが……」 その民家も数件しかないから、火事の事後処理は町というか、村のみんなで当たっている。 コンラッドは溜息をついた。 「次の町に行きましょう。到着する頃には夜が明けそうですが、次はそれなりに大きい街ですから、まともな宿があるし、そこで仮眠を取った方がまだ疲れも取れる」 結局そう判断すると、さあ行きましょうと促してくる。 がっかりしたのか、自分に呆れたのか……とにかく力が入らなくて、どうにかこうにか馬によじ登ると、ざわめきの残る小さな町を後にした。 馬に揺られながら溜息をつくと、コンラッドの手が後ろからわたしの額を押さえて、自分にもたれるようにと引き寄せてくれる。 「お疲れでしょう。は俺にもたれて眠ってください」 夜の街道はランプを灯しながらでも道がよく見えないので、馬の走る速度も格段に落としていて、これくらいならコンラッドは片手でも充分手綱を握れるらしいし、確かに眠ることだってできそうだった。 ただ、わたしが疲れているのは物理的な疲労だけじゃないので、ますます情けない。 「……わたしより、コンラッドのほうが疲れてるのに。ずっと手綱を持ってるし、わたしがついうとうとしたときも、落ちないように気を遣ってくれるわけだし」 「俺は訓練を受けた兵士です。元々は休まず行くつもりでしたから、一日、二日程度の徹夜くらいはどうということはありません」 「……じゃあ、小シマロンの王様に追いつけないのは、わたしのせいなんだ……」 「それもが気にすることじゃありません。あなたを連れて行くのは俺の都合です」 勘違いして嬉しくなりそうな言い方をする。 正しくは、わたしを連れて行くのは、大シマロン的な都合なんでしょう? 今更ながら気付いたけど、この旅の終わりは二種類あった。 軍港に着くか、小シマロンの王に追いつくか。 小シマロンの王に追いついたら、コンラッドが軍港まで行く理由はなくなるかもしれないし、もしその出航に同行するとしたら、眞魔国の関係者のわたしをそれ以上一緒に連れて行くわけにはいかなかっただろう。 いっそ、追いつけなければいいのに。大シマロンの仕事なんて失敗しちゃって、あの国に居づらくなればいいのに、とかめちゃくちゃなことまで考えて、落ち込んだ。 コンラッドが大シマロンに居られなくなったら眞魔国に帰ってくるかといえば、きっとそんな単純な問題じゃない。 それに、小シマロンの王が聖砂国へ向かえば、眞魔国が危険になるかもしれないんだ。 「いいから少し眠りなさい。サラレギー王が出航する前には捕まえなくてはいけないから、下手をすれば仮眠なしで強行軍になるかもしれない。あなたの体力では耐え切れません」 目の上に大きな手を置かれて、諦めて瞼を下ろした。 不埒な考えは、実行できなくて終わりそう。 常識的に考えれば、きっとそのほうがいいんだと思う。 そんなことをしても、きっと満足できるのはわたしだけで、コンラッドには嫌悪感が残るだけなんだから。 目を閉じて、コンラッドの外套を握りながらその胸にもたれて呟いた。 「コンラッド、ひとつだけ聞かせて」 「なんでしょう」 「国にいたとき、わたしのことを好きだと言ったのは、本当だった?」 答えが返ってくることは、正直あまり期待していなかった。 だから、長い沈黙の後で小さく囁かれた言葉に胸が痛んでも、もう涙は出なかった。 「……どういう答えを、お望みですか?」 それが答えなら。 「そう……もう、いいわ」 たとえコンラッドの答えがどうあっても、わたしの気持ちは変わらない。 だとしたら、あの日々まで嘘だと言わない、それだけで今はもう充分なはずだから。 |
旅も終わりが近付いています。 |