その日から、前日までと様式が変更された。 「さあ乗ってください」 朝食を取って宿を出ると、コンラッドは馬を一頭だけ用意して待っていた。 「……あの、今日は最初が同乗……?」 朝のうちなら余裕があるのに、なんでいきなりなんだろうと首を傾げる。 「今日から、お一人では馬に乗せません」 「え……?」 「そのまま逃げようとするかもしれないでしょう」 「え、だ、だってわたしとコンラッドの手綱さばきじゃ、逃げたってすぐに捕まるのにそんな馬鹿なことしな……」 「ええ、あなたがそんな馬鹿な真似をするはずがないと思います。逃げてもすぐ捕まえられますが、連れ戻す時間のロスが惜しいですから」 「だから逃げな……」 「乗ってください」 聞く耳も持たないとはまさにこのことだった。 092.連日連夜(4) 「……怒ってる?」 黙っているのも気詰まりで、小さく声を掛けてみる。馬蹄の音で聞こえないかと思ったけど、距離がごく近いので聞こえていたようだった。 「怒っています。自分で自分の身を危険にさらすような行為をして……まったく、あなたは全然変わっていない」 「コンラッドは」 変わりすぎだよ、と言おうとしたのに、続きを言えなかった。 昨日叩かれた右頬をそっと触ってみる。 コンラッドに怒られたのは初めてじゃないけど、あそこまで怒らせたのは初めてだった。 ヴァン・ダー・ヴィーア行きの船でも、ヒルドヤードでも、そして今回も、コンラッドはわたしが無茶をすると心配して本気で怒った。 真剣な目で、まっすぐに見据えてきて。 ……どうして、昨日も、同じ理由で怒ったんだろう。 あのときとは違うのに。 右頬を押さえたままぼんやりと流れる景色を眺めていたら、どこか見覚えのあるところを通り過ぎた。 「あれ、今の、どこかで見たような」 「……昨夜あなたが隠れていたところです」 「さようですか……」 思ったより町から離れていなかった。せいぜい二キロも……なかったかな。 振り返ってみると、背の高い草の間でも昨日の位置よりもっと奥に行かないと、日が高く上った今なら、注意していたら見えたと思う。 「けど、昨日の時点ではあんなに暗かったのに、どうして気付かれたんだろう?」 独り言のつもりで呟いたけど、距離が近いから聞こえていることをうっかりしていた。横に固定されているコンラッドの腕がぴくりと反応した。 「理由は教えません」 「え、あら、聞こえて……」 「次回の脱走に向けての反省点にされては困りますから、教えません」 「だ、だから逃げないって言ってるのに……」 返事は無言だった。よっぽど信用をなくしてしまったらしい。 「……ごめんなさい」 「え……?」 謝るかどうするか、ずっと迷ってようやく言ったのに、コンラッドはあれほど怒っていた割りには驚いた声を出す。 顎を持ち上げて真上を見上げると、驚いたように丸めた茶色の目と視線がぶつかった。 慌てて前に向き直って、鞍を掴む手に力を込めてごにゃごにゃと口の中で言い訳をする。 「その、あ、あそこから運んでくれたんでしょ?だから、ごめんさない。重かったと思うから」 「ああ、そのことか……いいえ、くらいの体重なら背負って歩いても大した負担じゃありません」 うん、まあそれはお年頃としては嬉しい答えなんですけれど、どう考えてもリップサービスだよね。だってコンラッドだってこの旅程は疲れているはずなのに。 怒ってはいるようだけど、普通に返答を返してくれるから少しほっとした。話かけても無言というのが、一番きつい。 怒ってはいるようだけど……どうして怒るんだろう? 結局またこの疑問に戻る。 それは、手間をかけさせたわけだから怒るのは当然としても、ついでに恩を売るくらいのつもりだったのなら、逃げ出したとしても野垂れ死にでもするだろうと見捨ててもよかったはずなのに。 昨日も言った通り、賊に捕まって売り飛ばされたその後、双黒ということで小シマロンの王宮に見つかることを避けたかったとか。 わたしは手札になるとか言ってたし。 なんとなく答えが見つかったので、コンラッドに聞くのは止めておこう。自分でこうだろうと思っていても、改めてコンラッドの口からそう言われるとショックなのは、もう昨日で体験済みだ。 溜息をついていると、頬を押さえていた手の上に、コンラッドの手が重なった。 「痛みますか?」 「……っ」 上から覆い被さるようにして覗き込みながら、わたしの手ごと右頬を大きな手が包む。 「すみません。焦っていたとはいえ、手を上げるのはやりすぎた」 う、ううう上から覗き込んで、囁くのはやめてよ! 心臓に悪すぎる。 それに囁く声がさっきまでと違って、悔いているような響きがあるから、錯覚しそうになる。 ここが、眞魔国なんじゃないかって。 「べ、別に痛むわけじゃ……た、手綱をちゃんと握ってください!」 コンラッドの右手を払って、俯きながら両手で鞍を掴んだ。 叩いたと言っても、コンラッドは右利きなんだから、叩いたのが左手で平手だった時点で手加減はしてるし、謝る必要なんてまったくない。 ……右手で叩いてくれたらよかったのに。 そうしたら、わたしは右頬だって差し出して、求婚成立だって国まで引っ張って帰ったのに。 そんなこと、できるはずがないと判っていても、叩かれたのが右頬だったのが悲しかった。 「……ごめんなさい」 「?」 「……心配かけて、ごめんなさい……」 叩いたのはコンラッドが悪いわけじゃないと……ことの発端を思うと微妙な気もするけど、だけどコンラッドが息を切らせて、流れるほど汗をかいて探してくれたことは本当だから。 「……」 コンラッドの嬉しそうな声が上から聞こえて、もしかしてと思って振り返ってみると、にこりとバリアみたいな笑顔で返された。 「反省してみせても、に一人の時間はないですよ」 点数稼ぎで謝ったんじゃないのに。 それから二日、コンラッドの干渉はまさに宣言通りだった。 昨日までは馬の乗り換えのときは「ここで待っていてください」で、わたしを置いて一人で行ってたのに、厩舎まで連れて行くようになったし、わたしがトイレに行けばドアの前までついて来て張り込んでるし、コンラッドがトイレでもやっぱり連れて行かれて、紐で手首を括って繋いでいくし。 このときはなんだかご主人様を待つ犬にでもなった気分だった。 だから逃げないって言ってるのに!連れ立ってトイレなんてどこの女学生よ。 当然、夜にとる宿も同じ部屋で、これはお風呂場に行けば混浴させられると諦めて部屋に桶と水を運んでもらえば、その間だけ部屋を出てとお願いしても衝立で仕切るだけで出て行ってくれない。 おまけにコンラッドが身体を拭いている時は衝立すらしてくれないので、わたしが背中を見せて窓から外を眺めていた。 カロリアでフリン・ギルビットに捕まって大シマロンへ向おうとした旅でさえ、ここまで徹底して監視されてはいなかったよ。 コンラッドの宣言を甘くみていた。 「……ねえ、コンラッド……」 「なんですか?」 後ろから水音に混じった返事があった。 「疲れない?」 「お疲れですか?ではどうぞ先にお休みください」 「そうじゃなくて!そこまできっちりみっちり監視してて疲れないのって言ってるの」 「目が覚めたときの姿が見えないことに比べたら、どうということはありません」 「じゃあ夜だけでいいじゃない。昼間コンラッドから逃げられるわけないんだから……」 「……では、夜に逃げ出す算段が」 「逃げないってば!」 疑われるのは自業自得だけど、そこまで言われると段々腹が立ってくる。 憤慨して思わず振り返ると、助かったことにコンラッドはもうズボンは履いていた。 あ、危うく裸を見てしまうところだった。 桶に浸したタオルを絞りながら、コンラッドは首を傾げる。 「言ったでしょう、『俺の側から少しも離しはしない。そう覚えておきなさい』と」 「言ったけど……」 その言葉は本当に嬉しかった。それは嘘じゃない。 だけど物事には限度があるし……。 俯いて、座っていたベッドのシーツのしわをじっと見つめる。 心配してくれるのは嬉しい。 だけど、信用されないのは悲しい。 衣擦れの音が聞こえて、服を着たらしいコンラッドが水の張った桶を廊下に出して戻ってくる。 「の気持ちに配慮しないとも言いました。俺の側にいることがどれだけ苦痛でも、我慢できないとしても、俺は絶対にあなたから離れない」 「……でもそれは、軍港までなんだよね?」 コンラッドの側に置いてもらえて、それが苦痛なはずがない。 行き過ぎだと呆れても、信用されなくて悲しくても……側に来るなと言われるよりは、もういらないと言われるよりは、ずっといい。それに比べたら、これくらい苦痛なんかじゃない。 ベッドの端に腰を掛けたコンラッドを見上げると、苦笑しながらわたしの手を取った。 「ええ、そうです。この調子でいけば、あと五日ほどで着きますからそれまでの辛抱です」 淡々と説明しながら、今日もわたしの右手とコンラッドの左手の手首を繋いだ。 「五日……」 「長いとお思いでしょう。ですが、我慢してもらいます」 長い……はずがない。 たった五日しかない。 五日経てば、コンラッドはまたわたしを置いて行ってしまう。 厳重に布を結び終えると、コンラッドは昨日と同じでベッドから下りようとした。 一昨日、目が覚めたときの状態と同じように、床に座ってベッドにもたれて眠るために。 コンラッドだって、この行程で疲れていないはずはないのに。 寝返りをうっても大丈夫なように、布はかなり余裕を持った長さになっている。 右手を引きながら、左手でも布握って引っ張った。 床に下りようとしていたコンラッドは、左手首を引っ張られて振り返る。 「これは外しませんよ?」 「床で座って眠っても、疲れは取れないよ」 「……どういう意味ですか?」 コンラッドは意味を測りかねるというように眉をひそめた。 ううん、意味じゃなくて、そんなことを言う考えを、かもしれない。 「そのままの意味」 「ですから」 「一緒にベッドを使おうって言ってるの」 平気な振りをして言いながら、心臓はドキドキと早く高く鳴っていて、少しくらい離れててもコンラッドにその音が聞こえているんじゃないかという気さえする。 「……正気ですか?」 本気なのかじゃなくて、正気かと聞かれてしまった。 随分ひどい。 「だって、お金を出しているのはコンラッドなのに、わたしがベッドでコンラッドが床っていうのはおかしいでしょう?でもコンラッドは、わたしが床なのは駄目だって言うし」 「のほうが体力がないから当然です。それに、俺は訓練を受けている。床だろうが座っていようが、少しの睡眠でも回復力が違います。お気遣いなく」 「お気遣いなくで気にしないなら、こんな提案しません」 髪に手を入れて呆れたように溜息をついたコンラッドは、ベッドに座り直してぐっと一気にわたしとの距離を縮めた。 「男をベッドに誘う行為の意味が判らないほど、子供ではないでしょう?」 からかうように、呆れたように囁かれて、目の前の銀の光彩の散った瞳を睨みつける。 「無理やりは好きじゃないって言ってた」 そう。これは、コンラッド自身が言った言葉だ。 あの、大シマロンの夜に。 負けるものかと、膝の上でぎゅっと拳を握り締める。 唖然としたようにコンラッドが言葉を無くした隙に、畳み掛けるように続けた。 「昨日も同じ部屋で眠っていたのよ?あなたにその気があれば、どうすることでもできたはずなのに、あなたは何もしなかった。わたしは睡眠をとるための提案をしているの。それは、合意ではないわ」 震えそうになる声を押さえて、驚いている瞳をじっと見つめる。 「あなたの言葉を信じています。………ウェラー卿」 コンラッドは後ろに退いて背中を見せると、身体を揺するようにして小さく笑う。 「なるほど……確かに俺が言ったことですね。狭くなりますが、本当にいいんですか?」 突っぱねられなくて、ほっと胸を撫で下ろしながらコンラッドがベッドの中に入れるように後ろに下がる。 「わたしから提案したんだから、そんなことは最初から承知の上です」 「では遠慮なく」 コンラッドがランプの明かりを消して、闇の中でお互いにベッドに入る。 見えなくても、気配で何となく判った。 コンラッドも、わたしと同じように背中を向けて寝転んでいる。 狭いベッドでお互いに背中を向け合って、触れ合っていなくても、体温が伝わってくるようだった。 近くて遠い、ほんの数センチの距離。 あと、たった五日だけの距離。 目を閉じると涙が零れて、枕に顔を押し付ける。 あと五日。 ううん、軍港に着けばもうその日のうちに別れるかもしれないから、あと四日。 最後の夜、わたしが願えば、コンラッドはこの距離をゼロにしてくれるだろうか。 |
触れそうで触れられないのは、物理的なものだけではありません。 |