早まったかもしれないという気持ちが、まったくなかったと言えば嘘になる。 だけど、じゃあ今から宿に戻るかと言えば、それは絶対に嫌だった。 月明かりだけの夜道は闇に慣れた目でないと、きっと真っ暗で何も見えなかっただろう。 町から出るときはさすがに足が竦んだけど、それ以上に後ろを振り返ることができないという気持ちが背中を突き飛ばした。 行くんだ。 闇で遠くが見えない道は、ずっと先まで続いている。 真っ暗の街道に踏み出した時、外套の下で服を握り締めていることに気が付いた。 正しくは、その下にある、小さな袋を。 馬鹿だ。 あの人から逃げるのに、あの人にもらったイヤリングに縋ってる。 本当に、馬鹿だ。 092.連日連夜(3) 月の位置だけが頼りの時間感覚で、一時間くらいは歩いた気がする。時計がないから正確な時間はわからないけど、空を見上げると月はそれほど動いていない。 コンラッドにマッサージしてもらったおかげで、ちょっとは回復していた足がまた震え出していた。 明け方まで歩くつもりだったけど、どう考えてもそこまでもたない。 どこか休めそうな影を探すべきか、それともそんなものが目に入らないように道だけを見て歩くべきか迷う。 先は長いんだから、今夜ここで無理をしたって仕方が無いと思う。だけど今は、今日だけは少しでも町から離れたい。 一度立ち止まれば、きっともう今夜は一歩も動けない。 あと少し、あともう少しは歩こうと踏み出した足は、それ以上はもう上がらなかった。 「……軟弱……」 日本の同年代の女の子よりは体力があるつもりだけど、もう身体が悲鳴を上げている。 足はろくに上がらず、すり足のようにして前に進む。 仕方がない。道の脇でもいいからとにかく休もう。 止まれば進めなくなることが判っていたので、街道からなら見えない程度でいいから身体を休められそうなところを探す。 岩場も木陰も見当たらなかったので、諦めて街道から少し外れたところに広がっている草原に向かった。 街道の周辺はそうでもないけど、少し離れたら足の長い草が生えている一帯がある。 あの茂みの少し奥に入って転がっていたら、よっぽど注意していないと見えないだろう。 ましてコンラッドは馬で駆け抜けるんだから。 そう遠く離れていない場所を目指して街道から足を踏み出したとき、微かに誰かの声が聞こえた気がした。 誰かって。 血の気が引く。 微かに聞こえた。 だけど、わたしがあの人の声を聞き間違えるはずがない。 すぐに遠くに灯りが見えて、急いで道から外れる。茂みまでそんなに遠くじゃないのに、引きずっても足が思うように動かない。 早くしないと、今は風も吹いていないから草を分け入る音が聞こえたら不自然だ。 早く早くと動かない足で、最後には転がり込むようにして背の高い草の中に潜り込んだ。 ドクドクと心臓が早く動いて息が乱れている。 その音さえ街道まで聞こえるんじゃないかと、両手で口を押さえた。 空を見上げると雲ひとつない。雲が月を隠してくれたらより暗くなったのにと、そんなことにまで悔しくなる。 大丈夫、落ち着いて。 月明かりとランプ一つだけで、街道から外れた草の中まで見えるはずがない。息を殺してじっとしていれば、見つかるはずがない。 少しでも闇に溶け込もうと、頭のバンダナを外して黒い髪を晒して街道に背中を向けた。 コンラッドの姿を見ないほうがいい。 心が揺らぐのも、もうこれ以上苦しいのもやだ。 声が段々はっきり聞こえてくる。 「―――こだ!……じを……か………!」 静かな夜を切り裂いて聞こえてくる声に、びくりと震えてしまう。慌てて耳も塞いで、立てた膝に顔を埋める。 だけど、両手で押さえたくらいでは、完全にはコンラッドの声を消せない。 「!返事を、してくれ!―――!」 両手の向こうから聞こえてくる声が大きくなっている。 近くまで、来てる。 黙っていれば、きっとこのまま通り過ぎる。 「!ーっ!頼む、返事をしてくれっ」 息を切らした必死な声に、強く目を瞑った。 いやだ。聞きたくない。 いらないって突き放すくせに、どうしてそんなに必死に探すの? あんなに、何度も、わたしを否定するくせに……。 忘れろなんて言いながら、絶対に、絶対に忘れるなとわたしの中に入ってくる。 忘れろと言うのなら。 じっと息を殺して、声が遠ざかるのを待てばいいだけのはずだった。 だけど、すぐ背後に人の気配を感じる。 悲鳴を上げそうになった口を両手で塞いだ時、後ろから大きな腕が草の間を抜けて伸びてきて。 「……っ」 背後から、強く抱き締められた。 「い……やっ」 振り払おうとしても、疲れ切った身体には力が入らない。逆に草の中から引きずり出された。 「や―――っ」 地面に引き倒されて、目を開けた途端に飛び込んできたランプの明かりに目が眩んで手をかざす。 細めた目にはほとんどシルエットしか見えなかったけど、その人影が手を振り上げる。 「この……っ」 乾いた音が響いた。 ……叩いた。 コンラッドに、叩かれた。 「この馬鹿!何を考えているんだっ」 右の頬がじんじんと痛んで、そっと手を当てる。 「一人で出て行ってどうするつもりだったんだ!?路銀もなく、道行きすら曖昧で!たった一人で、知らない国で、髪も目も隠し通して行けると、本気で思っていたのか!?しかも夜にっ……夜に、一人で……っ」 少しずつ、灯りに目が慣れそうになったときに胸倉を掴むように引き上げて起こされた。 その一瞬だけ見えたコンラッドの顔が、今にも泣きそうだったのはきっと気のせいで……。 だけど、今度は正面から強く抱き締められる。 荒い呼吸で、強い汗の匂いがする。 抱き締められて目の前にある首筋は、まだ肌寒い季節だというのに汗が流れ落ちている。 ……ずっと走って探していたんだ。 どうして。 「もう……」 涙で視界が滲む。 むせ返るくらいのコンラッドの汗の匂いが、嬉しくて悲しくて苦しい。 「もう……放っておいてよ……」 「馬鹿なことを!一人でどうやって旅を続けるつもりだ。金もないのに、野宿の知識がどれだけある?こんな夜中に街道を歩くような無知な女なんて、夜盗に襲ってくれと言っているようなものだ!浚って犯して売り飛ばせと言っているようなものじゃないか!」 「だってもういやなんだよっ!」 突き飛ばしたけど、力では全然叶わない。 両手をついて突っぱねようとしても、ますます息苦しいくらいに抱き締められる。 「もういやっ!あなたの側にいると苦しいの!悲しいの!………つらいんだよ……」 痛くて、痛すぎて、もう何が痛いのかも、苦しいのかも、判らないくらいに、悲しいんだよ。 「……もう……いや……」 コンラッドの腕から力が抜けて、自分の身体を支えるだけの力もなかったわたしは地面にへたり込むようして腰を落す。 「……だったら……どう、すれば……あなたの……苦しみを和らげることができますか?せめて……せめて、旅を続けることができるだけでも」 わたしは俯いて、ただ首を振ることしかできない。 そんなの、わたしが聞きたい。 わたしが知りたい。 「……そんなに、俺が嫌い……なんですか?」 ぎゅっと鷲掴みにされたように、胸が痛んだ。 息が苦しくて、声が出ない。 ただ、首を振ることしか。 嫌いになれたなら、どれだけ楽だろう。 叩かれた右の頬が痛くて、熱い。 汗の匂いがわたしを捕らえて放さない。 わたしの手を掴む、その大きな手も汗ばんでいて高い体温が伝わってくる。 忘れろというくせに、わたしにその存在を刻むのはもうやめて。 忘れろと言うのなら。 忘れ方を、教えて。 目が覚めたらそこはベッドの中だった。 夜の街道脇にいたはずなのに。 まさか、夢だったのだろうか。 痛くて苦しい、リアルな夢。 そして、コンラッドが必死になってわたしを探してくれるなんて、胸が詰まるほど、目が眩むほど。 幸せな、夢。 どこまで馬鹿なんだろうと、目を閉じて手の甲を額に当てようと右手を持ち上げたら、手首を何かに引っ張られてベッドに落ちる。 手首に何か巻いていたっけ、と首を横に倒してぎょっと息を飲んだ。 「お目覚めですか?吐き気など、気分は悪くないですか?」 「なっ……ど……して……」 ベッドの支柱に背中を預けたコンラッドがすぐ側で床に座っていて、慌てて飛び起きたら右手を引っ張られた。 「わっ……って……なにこれ!?」 わたしの右手と、コンラッドの左手が白い布で括られて繋がっている。まるで手錠。 コンラッドは溜息をつきながら、その布を解き始めた。 「あなたを買いかぶっていた。まさかあそこまで愚かだったなんて」 「あ……そこまで……って……」 「二度と逃げ出さないように、眠る時は毎晩こうして俺と繋いでおきます」 逃げ出さないように、ということは……あれは夢じゃなくて、現実だったんだ。 記憶が途切れたところで、気を失うか眠ってしまうかしたんだろう。 じゃあここまでコンラッドが運んでくれたんだ。 あんなところから、宿に戻るまで。 だけどわたしが逃げ出したのはコンラッドのせいだし……え、でも気持ちにけりをつけられないのはわたしの問題だし、やっぱり謝ってお礼を言うべき? 謝ってお礼といっても、じゃあ悪かったと思って反省しているのかといわれると……。 でもこれから毎晩繋いでおくなんて、どれだけ心配を掛けたのか……どうしてコンラッドがわたしを心配するのか判らないけど。 「え……ま、毎晩!?」 どれだけ厳重に括っていたのか、わたしがぐるぐる考え込んで、最後に悲鳴を上げた時にようやく布がベッドに落ちた。 「ええ、毎晩です」 コンラッドはしれっとすました顔で答える。 「待って、待ってください。それって二十四時間コンラッドと一緒ってこと!?」 「そうなりますね」 「に、二度と逃げません!」 今でも、もうこれ以上ないくらいに気詰まりなのに、一人になる時間がまったくないなんて冗談じゃない。 「浴場を使いたいときは、必ず混浴です。嫌なら部屋で沐浴してください。大丈夫、衝立は用意させます。トイレだけはお一人でもいいですよ。ですが、定期的に声をかけますから返事をしてもらいます。返事がなければ踏み込みますからそのつもりで。ではどうぞ今朝の着替えを。俺は後ろを向いていますから」 まるでわたしの話は聞こえないとでも言うように、淡々とこれからのことを説明する。 「コンラッドだって、わたしの世話ばっかりしていたら気が休まらないでしょう!?」 自分の行動で返ってきたことだから、わたしのことじゃなくてコンラッド自身のことで考えてもらおうと言った言葉に、コンラッドがぴたりと口を閉ざす。 さっきまでの貼り付けていたような笑顔が崩れて、真剣な顔で、怒った目を向けられて、息を飲んだ。 「昨夜、もぬけの殻のになったベッドを見つけたときに比べれば、どうということはない」 腕を捕まれて、ベッドに引き倒された。 うつ伏せになった顔の横に、コンラッドの大きな手が強く突かれてベッドが沈む。 「どうせにはもう、これ以上ないくらいに嫌われているから遠慮はしない。サラレギー記念軍港に着くまでは、俺の側から少しも離しはしない。そう覚えておきなさい」 ベッドのスプリングが軋んで、コンラッドが側から離れた。 心臓がどきどきと早く脈打っていて、しばらく動くことができなかった。 怖かった。 そして。 ―――俺の側から少しも離しはしない。 涙が出そうなほどに嬉しかった。 |
コンラッドの逆鱗に触れてしまったようです。 |