コンラッドに同乗させてもらうのは、確かに自分で馬を乗りこなすよりはずっと楽だった。 ただ乗るというだけの意味でなら。 この距離で会話のない状態の気疲れは、並走していたときの比じゃない。 宿や食事中の会話はどこかよそよそしかったけど、この状態は視線どころか言葉も交わさない。 これが今の、わたしたちの距離なんだと思うと涙が滲みそうになって、首を縮めて外套の中に溜息をついた。 092.連日連夜(2) 宿に入ったのは、その日もかなり夜が更けてからのことだった。 わたしの体力はやっぱり途中で限界が来て、最後の乗り換えはコンラッドと同乗していたので、先に降りたコンラッドは当たり前のように手を取ってこのまま腕の中に降りて来いと言う。 やっぱり膝はガクガクと震えていて、ここで断っても昨日の二の舞だと諦めて手を伸ばすと、危なげなくわたしを抱き留めてくれた。 そうして、宿の部屋ではやっぱり今日もマッサージをしてくれるわけで。 ベッドに座ったわたしの前に膝をついて、お湯を掬って足を暖めながらゆっくりと固まった筋肉を解していく。 「今日は素直で助かります」 「……あなたを困らせることが目的じゃないから」 こうしてもらわないと朝になったら動けないんだって今日しっかり実感したんだから、これ以上迷惑にならないためにもこれは受ける必要がある。 わたしが抵抗すれば、その分だけコンラッドの手間になるだけだ。 自分で言っててなんだけど、なんだか言い訳くさい。 俯いて黙々と作業をするコンラッドの旋毛をぼんやりと眺めながらそんなことを考えると、今頃になってふと気が付いた。 どうしてコンラッドは、こんな面倒なことをしてまでわたしを連れて行ってくれるんだろう? 急いでいるのなら、わたしを置いて行ったほうがずっと早いのに。 今まで疑問に思わなかったことのほうが疑問だった。 どうして最初わたしは、自分一人の力で国に戻らないといけないと思ったの? コンラッドが一緒に帰ってくれないと判っているから……だけではなくて、もうコンラッドがわたしを助けてくれるはずがないと思っていたからだ。 大シマロンの軍人のコンラッドが、眞魔国の魔王の妹を助ける理由なんて、少しもない。 ……期待なんてしちゃだめだ。 何か政治的な意味があるとか、良くて昔の顔馴染みに対するちょっとした情とか、そんなところだろう。 理由を聞けば落胆すると判っているのに。 「……ねえ、コンラッド」 「なんですか?」 昨日みたいにぐだぐだ言わずに大人しく介抱されているからか、コンラッドは気軽に返事をする。 落胆すると判っているのに、聞かずにはいられない。 「どうして、わたしを連れて行ってくれるの?」 「……どういう意味でしょう」 「急いでいるんでしょう?わたしを連れていたらどうしても遅くなるのに。馬の手配だって一頭余分に必要だし、一日の終わりにはこんな手当ても必要だし、それなのにどうして連れて行ってくれるのかって……」 お湯の中でコンラッドの長い指が、足の指の間に入り込んできて、足の先をぎゅっと強く握る。 痛いんじゃなくて、だけどヒュッと喉が鳴って、訊ねる言葉に詰まった。 なんだろう、どう言えばいいのか、奇妙な感覚に足を引こうとしたけれど、握り込まれてびくともしない。 「あの……!?」 困惑するわたしの目の前で、コンラッドはゆっくりと屈み込んで、裾を捲って露になっていた膝の上に、口付けをする。 足を掴まれて、いつの間にか膝裏にも手が回っていて、前にも後ろにも動かせない。 「や……っ!な、なにを……」 膝に触れたコンラッドの唇が動いて、何かを囁いたことが判った。 「え……な……っ」 温かくて柔らかな舌が膝を舐めて、ぞくりと背筋を駆け抜けた感覚に強く目を瞑る。 「……んっ」 シーツを握り締めて唇を噛み締めていると、コンラッドがゆっくりと離れた。 「……コンラッド……?」 声が震えそうになって、それ以上言葉にならない。 「……こういう答えをお望みだったのなら、申し訳ないがそれは違います」 「ど……いう……意味?」 顔を上げたコンラッドの表情には微笑が浮かんでいる。 優しくない……あの夜の……蝋燭がひとつ灯っていただけの、薄暗い図書館で見たものと同じような。 「あなたの存在は眞魔国に対して切り札になる。もちろん決定的な、というわけではありませんけれどね。ですがそんな手札をみすみす小シマロンに渡す必要もない。……ただそれだけですよ」 判っていた。 手間をかけてまで連れて行くのだとしたら、理由なんてそんなものだって、判っていた。 声が詰まって、息が出来なくて、シーツを握り締めたいのにそれすら満足に力が篭らない。 判っていた。 そんな理由なんだって。 でも、だからってどうしてそんな風に言うの? わざわざ、わたしの気持ちを笑うように。 どれだけ気持ちを隠そうとしても、コンラッドには筒抜けだったんだ。 それが迷惑だから? 笑みを浮かべた茶色の瞳がまた伏せられて、マッサージが再開される。 泣き喚きたくなって、強く目を瞑る。 引きつりそうなる呼吸が整うのを待って、震える手で喉を押さえた。 「……だっ……たら」 少し震えていたけど、大丈夫、声は出る。 「大シマロンには、連れて行かないの?」 「切り札にはなりますが、同時に扱いも難しいですからね。それなら送り届けて恩を売るというのも一つの手なんですよ」 「……そう」 痛みに麻痺したのか、それとも自分で思った以上に諦めるのが早くなってしまったのか、胸を締め付けるような苦しさがなくなった。 楽に息ができるようになって、ゆっくりと目を開ける。 コンラッドはさっきと同じ姿勢で、今度は左足に取り掛かっていた。 「サラレギー記念軍港までの道のりは、今日走っていたあの道をずっとまっすぐでいいのかしら?」 「そうです。ですが途中で枝分かれしますから―――……?」 怪訝そうに顔を上げたコンラッドに、にっこりと微笑む。 本当に笑えていたのかどうか、鏡を見ていないから判らない。 だけど、わたしは笑ったつもりだった。 「なに?」 「そんなことを聞いてどうするつもりですか?」 「……別に。気になっただけ」 「一人で行こうなんて馬鹿な考えならおよしなさい。ここからでは馬でもまだ軽く半月は掛かる。今の速度で進めばその半分まで短縮できますが、一人でとなると不可能です」 半月も。 この強行軍でどうにかその半分。 それは、確かに常識的に考えて一人でなんてとてもじゃないけどたどり着けない。 「……判ってる。だってわたし、お金を持ってないもの。一人で旅を出来るなんて思ってない」 「……ええ、判っているのならいいんです。俺はには絶対に金は渡しません」 「恩を売るんでしょう?特には危害を加えられないと判っているのに、わざわざ逃げたりしないわ」 真意を掴もうとするように、しばらくじっとわたしの目を覗き込んで、コンラッドはようやく息をついた。 「そうですね。あなたもそこまで愚かではないはずだ」 「……そこまで愚かなんです」 昨日と同じように足に続いて両腕から肩に掛けても揉み解してもらって、お休みなさいと出て行くコンラッドを見送った。 ちゃんと部屋の灯りを消して、ベッドに潜り込んで寝た振りをして、覗きにきたコンラッドに眠っているとアピールしておいて。 たぶん昨日の晩も、こうして様子を見に来ていたんだろう。 隣の部屋から物音が聞こえなくなるまで、眠りに落ちそうになるのを堪えてじっと待った。 音が聞こえなくなってからしばらくの間も息を殺して、深夜になってから行動を開始する。 脱いでいた上着を着て、髪をきつく括ってその上からバンダナを巻いて色を隠して、色の入ったメガネをかけて、ブーツを履く。 すべての作業を、できるだけ音が出ないようにと注意してやっているので非常に時間が掛かったけど、どうにか外套を着るところまで完了した。 ……お金を返すなら、大シマロンのウェラー卿宛てに匿名で送ればいいよね。 使っただろう金額はグウェンダルさんとかヨザックさんに計算してもらえばいいし、それでコンラッドも誰からの送金か判るだろうし。 たとえコンラッドにどんな思惑があろうと、どんなことを言われたとしても、お世話になったことは間違いないし、今来ている服の一揃えがなければどうしようもなかった。 だから、お礼を言わずに姿を消すのは、わたしの良識に反するけれど。 音を立てないように細心の注意を払ってノブを回すとゆっくりとドアを開ける。 深夜の宿は動いている人の気配がまるでなくて、耳が痛いほど静かで、そして明かりも無くて真っ暗だった。 真っ暗なのは、もう闇に目が慣れているので問題ない。 気配に鋭いコンラッドを起こさないようにしないといけないから、足音を立てないよう床に両手をついて四つん這いになってそろりと進んで階段を降りる。 誰もいないカウンターを抜けて宿から外に出たとき、その冷たい空気に一度足が竦んで、だけどようやく深呼吸できた心地良さがあった。 大きく息を吸って、両手を上に伸ばす。 「よし、頑張らないと」 馬も拝借していくことは考えた。とにかく少しでも距離が稼げるし、売れば少しは旅費の足しになる。 だけど馬を厩舎から連れ出したら、それこそコンラッドを起こしてしまうだろう。 馬で半月ということは、歩いていたらその四、五倍は軽く……下手をしたら十倍くらいは掛かったりして。 「……うん、頑張ろう」 考えたら気が遠くなったので、とにかく出発することにした。 夜明けまで歩いて、日が昇ったら街道から見えないどこかに隠れて眠ればいい。 コンラッドは急いでいるし、馬で走りながら見つからなければ諦めて置いて行くだろう。 言った通りについでで恩を売るだけのつもりなら、小シマロンの王に追いつくことが優先されるんだから。 「う……」 自分で考えたことに涙が滲みかけて慌てて袖で拭う。 「泣いたら体力がもったいない」 真っ暗な、街道に続く町の大通りを見据えて一歩踏み出した。 強く後ろ髪を引かれるのに、宿から離れるほど疲れているはずの足が軽くなっていくような気がした。 |
我慢の限界に達したようで……思い切った行動に出ました。 |