コンラッドが全速力で……もちろん、わたしの乗馬の腕に合わせた速度での全速力だけど……街道を駆け抜けていたから、サラレギー記念軍港は近いのかと思っていた。 だってこの速度で走ってたら馬もすぐバテちゃうし。 ところが、馬が疲れ始めて速度が目に見えて落ちると、道の駅のような小さな町で馬を乗り換えるという話で驚く。 「え、そんなにお金を借りると返すのが大変……」 長時間馬に乗っていたので、馬から下りてもまだ揺れているような感覚にふらつく。 次の馬を用意して待っていたコンラッドがまた呆れた顔をした。 「あなたの立場ならはした金でしょう。それに、返済など考えなくても結構です」 「お金の問題はきっちりしないとだめなんだよ。人間関係を長く続けるコツだって、前にお父さんが……」 「あなたと俺の関係は、もう何もないはずですが」 何気なく、当たり前のように言われた言葉に息が止まった。 あ、だめだ。泣くな。 泣き出しそうになって、唇を噛み締めると用意された次の馬にすぐに跨った。 「……行きましょう、ウェラー卿」 あまりにも急な再会だったし、大シマロンのときみたいにわたしを置いてすぐにどこかへ行かなかったから、少し勘違いしていたのかもしれない。 今のわたしは、コンラッドの名前を親しく呼ぶことすらできないんだってことを。 091.偽善の恋(3) 日が落ちて完全に暗くなるまでに、それからもう一度馬を換えて走り続けた。 近いなんて甘かった。 遠いから、全速力で駆けて、代わりに何度も馬を換えて走るんだ。 深夜になろうかという時刻になって到着した町で、コンラッドはようやく今日はここまでだと止まった。 その頃には、わたしはもう口を利く気力もなかった。 鐙を踏んで鞍を膝で挟んでいた足は力が入らないし、股も擦れてかなり痛い。 ずっと手綱を握っていた手も硬直していて開くのも一苦労だった。 「お疲れ様です。お手をどうぞ」 さっさと荷物を下ろして、しかも宿に入って部屋の手続きまで終えたコンラッドが、馬から降りられないほど消耗したわたしに手を差し伸べてくれたけど、こっちにも意地がある。 それを無視して自力で降りようとした。 けど、思った以上に身体は疲れていたのだ。 降りるときに体重をかける足にまるで力が入らなくて、危うく転がり落ちそうになった。 衝撃を覚悟して目を瞑ったけど、待っていたのは固い地面じゃなくて、温かい腕。 目を開けたら、すぐ側にコンラッドの茶色の瞳があって、心臓をぎゅっとを捕まれたように胸が痛んだ。 「あ……」 「意地を張らずに、手を借りるくらいはしてください。怪我でもしたら明日の走行に支障が出ます」 冷たい口調の言葉に、ありがとうの声が引っ込む。 「……大丈夫です。降ろしてください」 「歩くどころか立つことさえ無理です。そのままじっとしておいでなさい」 そう言って、コンラッドは降ろしてもくれずにそのまま宿に入った。 態度も言葉も冷たくて、だけどこんな風に手は貸してくれる。 もちろん、コンラッドが言った通りにわたしは歩けないし立てないし、放っておいたら馬の上でそのまま降りられずに眠ってしまいそうだから、時間の無駄だと運んでいるんだとは判っている。 ええ、そうですとも。コンラッドには荷物みたいなものだよね。 馬で走っている間はそれどころじゃなくて考えなかった後ろ向きなことまで、次々と頭の中に浮かんでくる。 少しでも口を開いたら、それと一緒に泣いてしまいそうでずっと俯いて黙っていた。 疲れてるからだ。 疲れてるからこんなに後ろ向きな考えをして、すぐに泣きたくなって。 疲れているせいだ。 ぐるぐると一人で言い訳を考えている間に、コンラッドは黙ってわたしを部屋まで運んでベッドに降ろしてくれた。 「すぐに戻ってきます。靴を脱いでいてください」 いくらコンラッドだって疲れていないはずはないのに、荷物を肩に掛けたまましっかりとした足取りで部屋を出て行ってしまった。 言われなくてもすぐにでも眠りたくて、ブーツの紐を解こうとしたんだけど、指に力が入らない。 頑張って格闘して、片方のブーツの紐を半分ほど解いたところで、そのままベッドに倒れ込んだ。 いっそこのままベッドに潜り込んでやろうかと、危険なことを考えたけれど、宿屋の借り物のベッドでそんなことをするわけにもいかない。 渋々と起き上がってまた固く結んだ紐と格闘を再開したところで、湯気の立つ桶を抱えたコンラッドが帰ってきた。 「ああ、力が入らないんですね。貸してください」 コンラッドはお湯を張った桶を床に置いて、わたしのすぐ前に膝をついて簡単にブーツを脱がせてくれる。 一日中ブーツを履いていたわけで、蒸れていた足が楽になったのはいいんだけど、これでもこっちはお年頃。 汚い足を好きな人にさらすのいやだ。 ベッドに隠そうとした足を片方、コンラッドに掴まれる。 「じっとして。少しでも疲れがとれるように、マッサージしておきますから」 「え、って……ちょ、ちょっと!」 引き寄せた桶に、疲れきった足を浸けられた。 温かい適温のお湯が気持ちいい……じゃなくて! 「自分でします!」 コンラッドの手を払いのけようとしたら、逆にわたしの手が払いのけられた。 「手にも力が入らないくせに何を言っているんですか」 そう言って裾をまくると、お湯で足の裏とか指とかを丁寧に洗いながら、優しい手つきで揉んでくれる。 「や……やだ……」 足を引こうにも、がっちりと掴まれていて、身体の全体的に力が入らないから引き抜くことができない。 「やめて……」 「楽に力を抜いてください。あなたが痛い思いをするだけですよ」 「さ……触らないでっ!」 引けない足を逆に桶の底に押し込んだら、水が大きく跳ねた。 コンラッドはお湯が顔に跳ねても、肩で軽く拭うだけでマッサージを続ける。 「……俺に触られるのは不愉快でしょうけれど、我慢してください。ここには俺しかない」 力の入りきらない手でシーツを握り締める。 不愉快なはずがない。 コンラッドが側にいてくれることが、不愉快なはずがない。 だけど、こんなに苦しい。 「……優しく、しないで」 掠れた声で小さく呟くと、俯いた表情は判らなかったけど、コンラッドの手が止まった。 「別に、優しさではありません」 すぐにまた足を引っ張って、手でお湯をすくって温めながらふくらはぎへと手が上がってくる。 「明日に疲れが残っても、俺も急いでいる身なので配慮はできませんから」 「……判ってる。判ってます。わがままは言いません。だからもう出て行って」 突き放されて、優しくされて、それでまた突き放されて。 涙を堪えて、震えそうになる声を押さえて低く言うと、コンラッドは足を放すどころか片手で足首を押さえつけて、ベッドに隠していた右足まで無理やり引きずり出してお湯の中につけた。 「コ……ウェラー卿!放してください!」 「あなたが弱音やわがままを言わない方なのは判っています。だから黙って限界まで無理をするでしょう。大人しくしなさい。手入れを怠っても、つらいのはあなただ」 「判って……?」 判っているのに、こんなひどいことするの? わたしがまだ、あなたを好きだと判っていて、こんなことをするの? そんなことを言うの? ……判ってなんか、ないくせに。 判ってなんかないくせに。 その指で、掌で、触られるたびにどんな気持ちになるかなんて、判らないくせに。 わたしの中はもうあなたのことで満ちているのに、まだ刻み付けるの? 指が強く、優しくわたしの足を掴んで、解していく。 触れられたところが熱い。 もうこんなにも苦しいのに、あなたはまだ新しく、あなたの存在をわたしに刻み付ける。 決して、帰ってきてはくれないくせに。 「……触ら……ないで」 好きだから。 あなたが好きだから、触られたくないの。 続けそうになる言葉を飲み込むために、両手で口を塞ぐ。 わたしが口を塞いで黙り込むと、コンラッドはお湯がぬるく冷めるまで、足をそして腕を揉み解してくれた。 コンラッドは両腕を肩までじっくりとマッサージしてから、もう力の抜け切った足を冷めたお湯から引き上げて、おまけに指の間まで丁寧に乾いた布で拭いてくれる。 一緒にいたとき、コンラッドは本当に優しかった。 だから、わたしをものすごく甘やかしたけど、わたしが本当に嫌がることはしなかった。 これは、もうわたしの気持ちなんてどうでもいいということの再確認なのか。 それとも、わたしが本当に心の底から嫌がっていなかったのか。 どっちだろう。 「お疲れ様でした。明日の行程は今日以上に長くなります。ゆっくりと休んでください」 そのまま放り出せばいいのに、コンラッドはわざわざわたしの両足を揃えて、ベッドの上に上げてブランケットまで掛ける。 ここまでくると、さすがに嫌味だったんだろうかと思うよ? ああ、だけど。 コンラッドの手が離れてしまった。 触られているときは放せと言って、離れてしまうと寂しい。 本当に、我ながら支離滅裂だ。 ブランケットを握り締めて、一度強く目を閉じて確認する。 大丈夫、苦しくても、今ならまだ涙は出ない。感謝は表せなくても、きっと苦しさだって出さない。 「ありがとうございます。お手数をおかけしました」 顎を上げて、ようやく立ち上がったコンラッドを見上げることができた。 「どうして……」 だけどお礼を言ったのに、コンラッドは眉を寄せてまるで痛みを堪えるような顔をする。 「どうして、あなたはそんな顔ばかりするんだ……」 「そんな……顔?」 そんなと言われるほどひどい顔をしていたのかと呟くと、コンラッドは急に視線を逸らして横を向いた。 「……いえ、失礼しました」 大丈夫と思ったけど、苦しそうな、それとも嫌そうな顔をしてしまったんだろうか。 お礼を言う時にそんな顔なら、むしろそれこそ触るなと言ったのに、というような嫌味のお礼じゃない。 コンラッドから目を逸らして両手で頬を触ると、その上からコンラッドの大きな手が頬を包んで、わたしの顔を持ち上げて上を向かせてる。 「……俯いてばかりでは、疲れが増します」 銀の光彩の散る瞳がまっすぐに見下ろしてきて、目を逸らすことができない。 「あ……の……」 「たった二人の道行きで、そんな不愉快そうな顔ばかりされると、こちらも憂鬱になります。どうすればあなたのご不快を和らげることができますか?」 やっぱり不愉快そうな顔に見えたのね。 どうすればもこうすればもない。 コンラッドが帰ってきてくれるなら、それだけで全部解決なのに。 「……すみません。俺の立場で言えたことではなかった」 わたしの両手ごと、頬を包んでいた大きな手が離れた。 床に置いていた桶を抱えて背中を見せる。 「コン……っ」 名前を呼びそうになって慌てて口を押さえると、コンラッドが振り返った。 「どうぞ、お好きなように呼んでください」 そろりと手を降ろして、念を押して確かめるように訊ねる。 「………コンラッドって、呼んでいいの?」 「ええ、呼びやすいようにどうぞ」 考えてみれば、ここで再会してからもう何度か呼んじゃってる。 「じゃあコンラッドも、って呼んで」 「それは」 「わたし、あなたなんて名前じゃない」 「ですが、魔王陛下の妹君を呼び捨てには……」 「……おやすみなさい、ウェラー卿」 子供みたいな拗ね方をしてしまったけど、コンラッドは桶を片手に抱えて、片手を腰に当てて溜息をついた。 「おやすみなさい、」 、と。 コンラッドの声で名前を呼ばれただけで、心臓が大きく跳ねた。 どう言えばいいのか、気持ちが言葉になる前にコンラッドは部屋を出て行ってしまう。 なにも、なにも、なにひとつ、変わっていないけど。 変わっていないのに。 「……おやすみなさい……コンラッド……」 悲しさだけじゃなくて、声が震えた。 |
微妙な距離で旅はまだ続きます……。 |