「、ホントのホントに行かねーの?」 村田くんに学園祭に誘われてから、当日の出かける寸前にまで、わたしが行かないのは納得できないとばかりに、有利はしつこく念を押してきた。 090.白紙のままの日記(2) 有利は休日だけど他校に行くということで、真面目に制服姿。 他校の学祭なんだから、私服で行けばいいのに。それとも「あっち」向け対策なのかな? それならむしろ黒の学ランは着ないか。もしも国外に出たときが厄介だから。 「行かなーい」 部屋でベッドに寝転んで雑誌を読んでいるわたしの横に立って、両手を腰に当てて大きく息を吸う。 「なあ、行こうぜ!」 有利が考えているのは、わたしがいればあちらに行きやすくなるんじゃないかということだろう。 「せっかく村田が誘ってくれたんだしさ、気晴らしにくらいはなるだろ?」 「行かない。あのね、有利。場所の問題じゃないって散々、村田くんに言われたでしょ」 「けどさあ……」 有利の真意なんてどうせバレていることが判っていたらしく、有利は言い繕いもせずそのまましつこく食い下がってくる。 「だってちょっと前に変な噂が立ったばっかりなのに、のこのこ村田くんの学校の学園祭に行ったなんて、誰かに見られたらまた変なこと言われるんだもん。い・や・だ!」 「いいじゃん、村田と恋人説くらい。どうせ嘘っぱちなんだしさ」 「恋人は嘘だけど、結局これからも村田くんと接触回数が多いでしょ!もともと噂が立ちやすい状況なんだから、絶対必要でもないのに村田くんに会いにいくのはいや!」 わたしが強く音を立てて雑誌を閉じるのとほぼ同時に、部屋のドアが勢いよく開いて壁に激突した。 「ちゃんがあのメガネと付き合ってるだとぉ!?」 「勝利……お前、盗み聞きかよ!」 「盗み聞きなんかじゃない!たまたま部屋の前を歩いていたら聞こえたんだ!駄目だぞ、ちゃん!あのメガネは駄目だ!」 「メガネなら勝利もだろ」 「『あのメガネ男』が駄目なんだ!俺ならむしろなんの問題もないだろう!」 「お前相手の方がはるかに問題じゃねーか!プチ変態から真性変態になる気かよ!」 なんだろう、このズレた喧嘩は。 有利とお兄ちゃんのおかしな言い争いを遮ったのは、下から時間を告げたお母さんだった。 「ゆーちゃーん!出かけなくていいのー?」 「あ、しまった!もうそんな時間か。なあ、行こうぜ」 「駄目だ駄目だ駄目だ!ちゃんとメガネを近づけようなんて、お前は何を考えているんだ!ちゃんに狙いを定めた男など、有利も縁を切れ!お前は利用されている!」 「アホか」 わたしと有利の会話の一部だけ聞いて、勘違いもはなはだしいお兄ちゃんに呆れた顔をして、有利はわたしの説得を諦めたようだった。一つには、お兄ちゃんが横で聞いているから会話内容が制限されるということもあるんだろうけれど。 「じゃあ行ってくるよ……本当に行かな……」 「ちゃんは行かない」 「お前に聞いてねえよ!くっそ、この馬鹿勝利!」 有利はお兄ちゃんを激しく罵倒すると、足取りも荒く出て行ってしまった。 「……お兄ちゃんと呼べと言ってるのに……」 馬鹿とかアホとかより、それが一番気になったの、お兄ちゃん? やっと静かになったので、閉じた雑誌を広げた途端にそれを取り上げられた。 「あ、なにちょっと、お兄ちゃんまで」 雑誌を取り返そうと起き上がってみると、意外なことにお兄ちゃんはひどく真剣な表情で取り上げた雑誌を机の上に置いてわたしを見下ろしていた。 「……なに?」 「ちゃん、最近なにか悩み事があるんじゃないのか?」 「え………」 今まで、お兄ちゃんもわたしや有利の様子が変だとは気になっていたようだけど、こうも面と向かって直接聞かれたのは初めてで、言葉に詰まる。 もうときどきしか一緒に入らなかったお風呂はこのところ一ヶ月が毎日一緒だし、今までの状況を再現してみようと有利はトイレに足を突っ込むし、わたしは庭で水撒きしながら頭から水を被ってみたり。 ナルシストみたいに毎日一度は部屋の鏡に張り付いているのは、さすがにお兄ちゃんも知らないだろうけど。 「べ……別に……」 「そんなはずないだろう。夏休みの途中あたりからずっと元気がない。ときどき思いつめたような顔をしているし、この間の実力テストは散々な結果だったじゃないか」 それもまた一言もない。 夏休み明けの実力テストで、散々な成績を取って担任の先生にも思い切り驚かれた。 「お兄ちゃんが話を聞くぞ。何があったんだ?」 何が……。 実は半年ほど前から異世界に行くようになって、あっちでは王様の妹なんて身分で殿下だなんて呼ばれて、恋人ができたのに、たった数ヶ月で振られました。しかも国を跨いで逃げられるという、ものすごくバッサリと切り捨てられる形で。 ……言えない。言えるわけがない。 溜息が漏れそうになって、慌てて飲み込みながら曖昧に笑って首を傾げる。 「別に、何もないけど?」 「ゆーちゃんになら遠慮して言えないことでも、お兄ちゃんになら話せるだろう?」 ぎくりと顔が強張ってしまったかもしれない。お兄ちゃんがますます心配そうに眉を下げた。 ゆーちゃんに言えないこと。 どうして、お兄ちゃんが知っているんだろう? コンラッドのことは、まだ有利とはまともに話していない。名前も出さない。 はっきりと宣言したから、有利はわたしがまだコンラッドのことを好きで、諦めていないことは知っているわけなんだけど、だからこそ名前も出せないというか……。 う……ダメだ、また涙が滲んできた。 こうやって、ことあるごとに泣きそうになる。 実力テストの時も、途中でふと窓の外を眺めたら、地球に帰ってきたあの日に見たような晴れ渡った青い空が目に入ってしまって、それからチャイムが鳴るまで目が離せなかったというのが真相だ。それに動揺して、その後のテストもずるずると……あのテスト結果でも有利に心配かけたっけ。 わたしの中で、あれから一歩も進歩がない。 あの日から、ずっと空白のままだ。 涙を見られないようにベッドにうつ伏せに寝転ぶと、お兄ちゃんはベッドの端に腰掛ける。 有利のものよりずっと大きいお兄ちゃんの手が、頭を優しく撫でてくれた。 大きさは……コンラッドと、同じくらいかな? でも、コンラッドの手より少し華奢な感じがする。 それはそうかな。コンラッドの手は剣を握っているから、指には剣ダコとかも出来ていて掌も固く分厚い。 もっと泣きたくなるから思い出しちゃいけないと思うのに、目を閉じてあの優しい一時を思い出してしまった。何も知らないはずのお兄ちゃんの前で泣いちゃだめなのに。 「……コ……ン……」 名前を呼びそうになって、毛布を握り締めて堪えるとお兄ちゃんが小さく溜息をついた。 「可哀想に。こんなに怯えて」 「……え?」 怯えて? わたしが眉間にしわを寄せて不審そうな顔で見上げると、お兄ちゃんはとても心配そうな表情で優しく言った。 「あのメガネに何かされたんじゃないのか?ゆーちゃんはすっかり騙されて、こともあろうに奴を信用しているから、ちゃんも何も言えないんだろう?大丈夫だ、お兄ちゃんは、ちゃんの味方だからね」 勘違いも甚だしい。 むしろ恩人の村田くんに酷い言いがかりで、わたしはがっくりとベッドに沈んだ。 お陰で涙は引っ込んだけどね! 何かされたんだろう、何もされてません。 お兄ちゃんとの押し問答はかなりの長時間に渡って続いた。 途中で村田くんに対してあまりにも酷い言い草に、わたしが逆に叱り付けたせいで、今度は村田くんと付き合っているという噂のことを思い出して、あんなメガネとは別れろと騒ぎ出して、本当に大変だった。 休憩を挟んでまで続いた問答からどうにか退いてくれた頃には、既に三時を回っていた。 ということは、二時間近くも下らない言い争いをしていたらしい。信じられない。 貴重な休日を実に多く無駄にしてしまった。有意義に使うあてもなかったけど。 こんなことなら有利と一緒に村田くんの学校に行ったほうが、ずっとましだった。 カーディガンを羽織って、携帯電話と財布だけを掴んで、気晴らしに散歩に出かけることにする。 「どこに行くんだ、ちゃん」 叫びまくっていたお兄ちゃんはちょっと嗄らした声で、玄関で靴を履くわたしを呼び止める。 「散歩」 こっちも不機嫌なので、短い返事で返すとまた議論を蒸し返された。 「まさか、あのメガネに会いにいくつもりじゃないだろうな!?」 「今から村田くんの学校に行ったって、もう学園祭なんて終わってるよ!」 「終わってるからこそ、有利とはもう別行動になっているはずだ。そこを狙って会いに……」 「お兄ちゃん、しつこい!」 「しつ……っ」 お兄ちゃんが絶句したところで、お母さんがひょっこりと顔を出した。 衣替えしようとして見つけた振袖を、まだ着れるんじゃないかしらと思って着てみたという珍しい着物姿。 「なあに、しょーちゃん。また、ちゃんにしつこくして嫌われてるの?」 「きらわ……っ」 お兄ちゃんを黙らせたお母さんに感謝するより先に、お母さんはわたしにもとんでもないことを言い出す。 「でも、ちゃん。健ちゃんはお買い得よ?高学歴、高収入候補だし。身長はまだ伸び盛りでしょう?何より物腰も穏やかで優しいし、ちゃんにはぴったりじゃないかしら」 「ぴったりなんかじゃない!」 お兄ちゃんと寸分違わず声が重なった。 「母さんはどこに目をつけているんだ!?あのガキのどこがお買い得!?お買い得というのは、俺のようにまさしく高学歴、高身長、そして高収入候補!顔も性格も良い……」 「行ってきまーす」 お兄ちゃんがお母さんに自分の良さをアピールしている間に、小声でさっさと家を出た。 外に出るとすぐ、わたしがいないことに気付いたお兄ちゃんの金切り声が聞こえてきて、慌てて走って家から離れる。 「お兄ちゃんのねえ……あの過保護なところだけはどうにかなんないかしら」 呆れと言うか、疲れと言うか、家からだいぶ離れてから速度を落として溜息をついた。 さっきまでの口論の腹立たしさと、思い返してみると脱力すらしそうな馬鹿馬鹿しさに、休憩しようと自動販売機でジュースを買って、そばにあった公園に入った。 まあ、あの一人で憂鬱になっていたところからは抜け出せたけど……。 あ、だめだ。思い出しちゃった。 まだ口を開けていないジュースを片手に、人気の少ない公園に入ってぐるりと見渡す。 ここは有利が一度目にスタツアしたところだ。 ……トイレから。 有利もさすがに公衆トイレは、しかも女子トイレは試したくないらしくて、足を入れてみたのはうちのトイレだったわけだけど……。 トイレから移動できないか、試してみるべきかとトイレの建物を睨みながら、取りあえず噴水の淵に腰掛けた。 「うーん……」 ジュースを片手に、噴水の淵に座って、公衆トイレを睨みつける女。 傍から見ればなんだろう、この構図。 トイレに足を突っ込むか突っ込まないか、ジュースを飲んでいる間に決めようと、プルタブに爪を掛けたところで携帯電話が鳴った。 「うわっ、びっくりした……って、村田くん……」 ポケットから出した携帯のディスプレイを見て、うんざりした気分になる。村田くんに責任はこれっぽっちもないんだけど、タイミングが悪かった。 このまま無視しようかなあとは思ったものの、大賢者様からのお話はどこに有意義なものが転がってるか判らない。今頃は一緒にいるはずだから、用事があるのは有利かもしれないしね。 「はい、もしも……」 『!今どこにいる!?』 「……っ……」 耳にあてた受話器から大声が飛び出して、電話を遠ざけて耳を押さえる。聴覚の暴力だ。 「いきなり……っ」 『大声で悪かったよ!それでどこにいるの!?』 悪かったと言いながら、相変わらず大声だ。 「どこって、近所の公園……村田くん、走ってるの?」 聞くまでもない。これで走ってるのでなければ、悪戯電話かと思うくらいに、言葉の合間に「はっはっ」と息を継ぐ音が聞こえる。 『公園?渋谷が最初にスタツアしたあそこ!?』 「そう、あなたが有利を見捨てて逃げ出した公園」 『それは不可抗力で……と、とにかくそこにいてくれ!一時間ほどで着くと思うから』 「ちょっと、一時間もこんなところで何して待てって……」 おかしなことを言うと文句を言いかけて、ふいに閃いた。 どうして村田くんは走りながら電話をかけてきたんだろう? 「……村田くん、有利は?」 『………渋谷は、あちらに渡った』 「なにそれ!?」 絶対に行けないと言ったのはどこの誰!? こんなことなら本当に有利と一緒に行けばよかった。 思わず立ち上がって、村田くんを責める言葉が出かけて、拳を額に当てる。 違う。無駄だと言ったのは村田くんでも、行かないと決断をしたのはわたしだ。 有利はそれでも行ったのに。 「あれ……でも待って。どうして村田くんがこっちに向かってるの?走ってまで……」 長い沈黙があった。その間ずっと、村田くんが走っている呼吸だけが聞こえる。 『………渋谷が帰ってこないんだ』 「え……」 『今までは数十秒、ほんの数分のタイムラグで帰ってきた。だけど今回は五分待っても、十分待っても、帰ってこないんだ』 「どういうこと!?」 『僕にも判らないよ!とにかく、今から君のところにいく。君と僕で力を合わせれば……渋谷があっちにいるなら手繰り寄せられるかもしれない。そこにいてくれ!』 それだけ言うと通話が切れてしまった。走ることに専念するためだろう。 「……帰ってこないって……」 どうして? 携帯を握り締めたまま、うろうろと歩き回って、足を止めてを繰り返す。 「落ち着かなきゃ……落ち着いて……どうして……」 落ち着かなきゃと言いながら、どうしてと呟いて、自分でも支離滅裂でわけが判らない。 噴水の淵に置いたままだったジュースが目に入って、まずそれを飲んで落ち着こうと携帯と入れ替わりで缶を手にした。 「あ……」 缶を取り上げようとした手が滑って、噴水に落しかけたそれを慌ててキャッチしたとき足が滑った。 いくら動揺してるからって、そんなベタな! 自分に突っ込む間もなく、水飛沫を上げながら噴水に落ちた。 どうしよう、一時間もあればうちに帰って着替えてくる時間は充分にあるけど、ずぶ濡れで家に戻ればお兄ちゃんがうるさい。素直に家から出してくれるとは思えない。 かといって、十月に入った気候で濡れ鼠のまま一時間もここで村田くんを待つなんて……。 「あ」 噴水の底についた手がめり込んだ。 これは。 「き、きたっ……がふっ」 沈んでいるのについ叫んでしまって、水を飲みながらのスタツアになってしまった。 |
有利が帰ってこないという状況でスタツアです。 村田にも判らない不測の事態のようですが……? |