八月のスタツアから帰ってからしばらく、お兄ちゃんは何か戦々恐々とした様子でわたしを伺っていたから、よっぽどおかしな状態に見えたんだろう。
あの日の夜に有利からも連絡があって、お互いに無事に帰ってきていたことに息をついた。
有利がバイト先から帰ってくるまでの間に気持ちを切り替えておこうと心に決めて、有利を出迎えたら、ものすごく心配した顔をされた。
無理をしていると思ったらしい。
実際、無理はしているけど、泣いたって有利を悲しませて困らせるだけだし、笑ってみても心配させるだけで。
どうしたらいいのか、相談できる相手といえば一人しかいない。



090.白紙のままの日記(1)



「そりゃ仕方ないよ。泣こうが笑おうが今の君を渋谷が心配するのは当然だし、いっそ思うままに振舞ったら?」
有利に知られないようこっそりと村田くんと連絡をとって、喫茶店でお茶しながら相談したら、あっさりとそんなことを言われた。
「……どう振舞いたいかも、自分でもよく判んないのよ……」
「重症だねえ……」
判ってることがあるとすれば、なるべく有利に負担をかけたくないということだけ。
有利だってコンラッドのことはひどく堪えているのに、わたしのことまで心配をかけたくない。
注文したクレープをフォークでつついて溜息を漏らすと、村田くんはコーヒーカップを下ろしてわたしの手を掴み、人のバナナクレープを勝手に切って食べた。
「あ、ちょっと!」
「さっきから全然食べないから、いらないのかと思って」
「普通、それならそれで『いらないならちょうだい』とか言うでしょ!?」
人の手を握ってフォークを無理やり動かして食べるってどういうことよ。
「だってそう言うと、自分で食べるからいやだって言われそうだし」
「……そう思ってるなら勝手に食べないでよ」
村田くんが使ったフォークを使う気になれなくて、クレープのお皿を押し出すと、村田くんは自分の食べていたサンドイッチのお皿を替わりにくれた。
たぶん、村田くんなりにわたしの気を紛らわそうとしてくれたんだ……よね?
残っていたのはハムサンドだったから、そこまで損した気分でもなく交換して食べて、実りのあったようななかったような、微妙な相談のお礼を言って帰宅した。


それをクラスメイトに見られていたとは露ほども思っていなかった。
それから数日、新学期が始まって学校に行ってみると、渋谷に男ができたという話が始業式当日のうちに広まって、友達に問い詰められるはめになった。
こういうとき、男嫌いでブラコン・シスコン兄妹として有名であることの弊害をつくづく感じる。
普段なら、男の子のほうからも距離を開けてくれて助かるんだけどね……。
「いつの間に男ができたのー!?」
「見てみたい!」
「彼氏ってどんなタイプ?」
最初はそう聞かれて、コンラッドのことを思い出して声も出なかったのに、詳しく話を聞くとすぐに村田くんのことだと判って脱力する。
「全っ然、彼氏じゃないよ……それ、村田くんのことじゃない……」
額を押さえて溜息をつくと、人の机を囲んで詰め寄っていた三人が揃って腕を組んで考え込んだ。
「村田?はて、どこかで聞いたことがあるような」
「うーん、よくある名字だし……」
「でも原宿不利以外の男と二人きりでサテンに入ってたんでしょ?なのにー」
「し・ぶ・や・ゆ・う・り!」
有利が嫌がっているあだなを使うなと念を押すと、三人は顔を見合わせて溜息をつく。
「やっぱりこれだよ……ガセなんじゃないの?」
と人を指差しながら失礼なことを言ったと思えば。
「でも、食べ差し合いっこだよ!?『あーんして』なんて普通の友達にする?」
「そんなことは、やってない!」
「男友達と二人きりという時点での場合は怪しい。そもそも男友達ができるわけない」
「し、失礼な……」
「え、だってホントのことでしょ」
三人で声を揃えて真剣に返されて答えに詰まる。
「村田くんは特別だから……」
本当のことなんだけど、憮然として返したら、三人が驚いたように後ろに引いた上に教室中がざわめいた。って、みんな聞いてたの!?
「え、な、なに……?」
「やっぱりに男ができたー!」
「どうしてそういう結論になるのよ!」
そう叫んで立ち上がったとき、教室のドアが壊れるくらいの勢いで開いた。
一斉に教室中が振り返るけど、駆け込んできた有利は脇目も振らずわたしに突進してきて肩を掴んで大いに揺らす。
!夏休みに男とデートしてたってホントか!?なんで!誰と!?早まるな!そんなのおれは絶対に認めないからなーっ!!」
「ゆゆゆ、有利!ち、ちが、村田くんっ!村田くんだから!」
揺さぶられて舌を噛まないようにしながら懸命に真実を言うと、有利の手がぴたりと止まる。
「え、ムラケン?なーんだ、びっくりしただろぉ。サテンで料理の交換とか、ジュースの飲み合いっことかやってたなんて話を聞いたからさぁ」
「話に尾鰭がついている。したのはお皿の交換まで」
に限ってまさかとは思ったけど、ヤケクソになったのかと心配して……あ」
笑っていた有利は次の瞬間さっと青褪めて口を押さえると、急に話を打ち切ってまた後でとか取り繕って教室を出て行ってしまう。
ヤケクソに、か。
コンラッドのことがなければ、有利だってそんな話これっぽっちも信じなかったんだろう。
それとも、わたしがどこか自棄になりそうに見えていたんだろうか。
「ムラケン……って………あー!思い出した、村田健だ、オナチューだった村田健!あの進学校に行った!」
「あー……どんな奴だっけ?」
「えーと、ほらメガネの」
「そうそう。ああ、あれならが落ちるのもまだ判るわ。あんまりがっついた男のイメージないもん」
有利の余計な一言で、名前だけだった「村田くん」に具体性が出てしまって、また騒ぎが復活する。
ああ……もう……冗談じゃない。


それから一ヶ月。
十月に入る頃にはガセネタで落ち着いてはいたものの、そういうわけで村田くんの学校の学園祭に誘われても行かなかった。誰かに見られでもしたら、また噂が大きくなる。
まあ、村田くんに説得されなかったら有利も一緒だったから行ったかもしれないんだけどね。
有利は、村田くんの学校なら、大賢者の通う学校ならあちらの国へ繋がり易いのではないだろうかと思って行ったらしい。
何度かは、魔王と元創主の魂を持つ二人で力を合わせて真剣に祈ったら向こうにいけない
だろうかという実験はしたけれど、二人揃ってお風呂でのぼせただけの結果で終わった。
有利もわたしも、それからお互いに一度も眞魔国の話をしなかった。
わたしはどう触れたらいいのか判らなかったからだけど、たぶん有利も同じだろう。
そんな中で村田くんに学園祭に誘われて、有利は考え込んでからOKした。
わたしも有利と同じ考えが浮かんでいたけど、その場では返事を保留したら晩に釘を差す電話が入ったのだ。
ちなみにあの変な噂が流れたせいで、友達から携帯電話チェックを受けそうになったのでメモリーに手を加えていて、村田くんの項目は「大賢者」となっている。
これはこれでどうかと思うけど、少なくとも有利以外の誰が見ても村田くんに直結しない。
『言っとくけど、僕が通ってる学校だから道が繋がるなんてことはないからね』
「う……」
『やっぱりね……そんなことを考えていたか。渋谷もそんなところだろうね。あーあ、人がせっかく気分転換に誘ったっていうのに』
「そうは言うけど……もう一ヶ月も経ったし、そろそろ向こうに行けてもいい頃でしょ?」
ベッドに座ってクッションを抱き締めながら不平を漏らすと、耳元で苦笑が聞こえる。
「それに、眞王陛下の話だと、わたしは自分の意志であっちと行き来できるはずなのに、全然できないし!何、あのいい加減な話は!」
『それは、きっと君たちの魂がベストの状態じゃないからだ。前回、長くあっちにいた上に、強大な魔術を連発しただろ?疲弊しきってるんだよ、精神が』
「……納得いかない……じゃあいつ頃なら移動できるの?」
『僕に聞かれても知らないよ。僕には君たちの魂の状態は測れないんだから。ただね』
笑っていた村田くんの声から、突然気軽な調子が消えた。
『繰り返すけど、魂に無理をさせると命に危険があるんだ。傍目にも判りやすいのは魔術の使い過ぎだけど、それ以外でだって魂は摩滅していくんだよ』
真面目に説教されてしまった。
村田くんが心配しているのは、よく判ってはいるんだけどね……。
「……でも、こっちにいてもなにも判らない。手掛かりは眞王陛下に聞くしかないのに」
電話から深い溜息が漏れてくる。
『ウェラー卿のことを悩むのは仕方がない。僕も彼の行動の真意を推測する手伝いはすると約束もした。だけど、そのために君が無茶をするというのなら、絶対に手は貸さない』
久々に誰かの口からコンラッドの話題が出て、携帯をぎゅっと強く握り締める。
有利とは、測ったようにお互いその名前は口にしなかったから。
「無茶じゃないよ。村田くんの言い方からして、あっちに行けるのなら、もう充電できたってことになるんでしょう?」
握り締めた携帯電話の電波の具合は良好だった。声が震えたことに気付かれたかもしれない。
『だから、今は無理なんだって言ってるんだよ』
だけど村田くんの口調は少しも変わらなくて、コンラッドの名前に反応して声が震えたことに気付かれたのかどうかは判断がつかなかった。
『君も渋谷も思い詰め過ぎ……いや、思い詰めるのは仕方ないとしても、精神的に不安定だからその充電も効率良くできないんだ。いいかい、力んだ状態でシュートを蹴っても、大きくゴールを外れるだろ?ああ……上手い例えにならないな。とにかく、あっちとこっちで少しは気持ちを切り替えないと、身が持たないぞ』
「……うん」
頷きはしたものの、切り替えられるかと言えば、まったく自信はない。というより、切り替えられない自信ならある。
それを察したのか、村田くんはしばらく黙ってから、次に喋った時はもう元の気楽な口調に戻っていた。
『どちらにしても、僕の学校だからということで道が開くことはありえません。単純に学祭を楽しみに来なよ』
「あ、それならパス。行かない」
『……あっさりだね。僕も傷付くんだけど。それしか価値がないみたいな言い方してさー』
拗ねた口調に思わず笑ってしまう。
「違うよ。だって村田くんの学校、男子校なんだもん。男の子ばっかりのところにわざわざ行きたくないし……」
少し迷ってから、あのろくでもない噂のことを説明したら電話の向こうで大爆笑だった。
『そーれーはー僕もその騒ぎ見たかったなあ。あの渋谷に彼氏が!?ああ、間違いなく大騒ぎだ』
「村田くんがいたら、煽りそうだから嫌だ」
『煽るよー、そりゃあ面白いからね。でも煽ろうとして君の肩なんて組もうものなら殴られそうだよね』
「黄金の右をお見舞いしてあげます」
澄ましてそう答えると、村田くんはまたひとしきり笑う。
『判った、来るのは渋谷ひとりだね。……そうだ、、言っておくけど渋谷には僕の学校に来てもあちら行きには無意味と言う話はしないでくれ。どうせ試すまでは気が済まないだろうし、それが終わったら今度こそ本格的に休養に入るように説得したいから』
「うん、判った。…………ねえ村田くん」
『なに?』
返事を聞いて通話を切ろうとしたのか、返事が少しだけ遠く小さかった。
「有利を、お願いね」
わたしと有利とでは、どうやっても眞魔国の話を正面からはできない。
お互いに、相手がいるから気を遣ってどん底まで落ち込まないで済んでいるけれど、なかなか腹を割って話すところまではたどり着けないのだ。
どうしても、あの人の背中がちらつくから。
『もちろんだよ。……それに、君のこともね』
村田くんの優しい声に泣きそうになって、慌ててお礼を言って通話を切った。
ちょっとしたことですぐに泣きたくなって。
……結局わたしはまだ、眞魔国から帰ってきたあの日のまま、一歩も進めていないんだ。






めざマが始まりました。今回はお兄ちゃんでなく大賢者からスタートです。
お兄ちゃんの出番は次回に!


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