から逃げて……見つけたユーリはなぜこんなことになったのかと思えるような惨状の図書室にいた。足元にはアーダルベルトが倒れている。
俺がアーダルベルトの手当てをしている間も、ユーリは怒りを抑えようとしながら揺さぶりをかけてくる。
「……のこと、聞かないのかよ」
「どうして俺が。もう関係のない身です」
「関係ないだって!?」
抑えようとした感情が一気に噴き出したらしい。ユーリはのことをないがしろにされることが一番許せないから。
はずっとあんたのことを心配して泣いてたんだ。あんたに判るか?あんたが無事だと思えるような話を聞いて、それが勘違いだって知ったときのおれ達の気持ちが。……泣けなくなってたよ。どこか遠くを見て、あんたに貰った、あんたの目と同じ色のイヤリングを握り締めて、ずっと独り言で自分に言い聞かせて。あんたは絶対無事だって……絶対にどこかで生きてるって!それを横で聞いてたおれの気持ちが、あんたに判るか!?関係ないだって!?よくもそんなことが言えるなっ!」
素晴らしく堪える話だ。
だがそれも、先ほど本人を目の前にして振り切ってきたところだったお陰で少しは冷静に聞くことが出来た。
ああ……だけど。
「あんただから、を幸せにしてくれるって、信じたんだ」
真っ直ぐに俺を見つめる漆黒の瞳。
嘘を許さない、その強い輝きは、今の俺が直視するには厳しすぎた。


EXTRA6.いつか見た夢、君の涙(3)


カロリア側で問題が起きたという声が聞こえてユーリが去り、俺もすぐに戻るつもりだった。
なのに、誰かを呼んでアーダルベルトを運ばせる前にもう少しまともな手当てを施そうと思ったのは、とユーリの傷を癒してくれたらしいからだ。
生粋の魔族の癖に、法術を操れるようになるまでにどれほどの苦渋があっただろう。
国にいた頃は、魔族である誇りを一片も疑わない男だったのに。
「……置いていかれるのは……つらい……な……」
ジュリアを失った痛みに耐えかねて、全てを許せなかった男だ。
失うことは、それほどつらい。
後ろで足音がした。下で騒ぎが起こっているのにわざわざ上階に上がってくるのは用事があるものだけだろう。ユーリが戻ってきたと思った。
「……行きなさいと言ったでしょう……陛下、俺は」
「有利じゃないわっ」
驚いたのは、それが予想しなかった相手だったこと、そして予想すらしなかった俺自身に対する両方だ。
両手を強く握り締めて、ランプ一つきりの部屋よりも明るい廊下との境に立っていたのは、赤いドレス姿のだった。
「わたし……有利じゃないわ……」
……」
俺があれだけ素っ気無い態度を取ったのに、はまだ追ってくる。
もう俺なんていらないと、愛想を尽かしてくれたらいいのに。
そんな勝手なことを考えていたのに、それを本気で願っていなかったことはすぐに判った。
アーダルベルトはもうユーリを狙わないだろうと俺が言った、その理由をが訂正したとき、恐怖を覚えたから。
「有利がジュリアさんの生まれ変わりだからだよね?」
その名を、が口にする日が来ると思ってもいなかった。
「どこでその話を」
どうしてが……誰が教えた?
どこまで知っている?
誰が教えたかで、話の内容は大きく変わるだろう。
決して彼女とはやましいことはなかった。
だが、がどう感じたかだ。
がどう彼女のことを聞いて、どう受け取っているのか、想像だけで背筋が凍った。
これで本当に、に嫌われる……?
……思い通りじゃないか、思い通りになるんじゃないか。
喜ぶべきところで、言い聞かせるように何度も心の中で繰り返さなくてはならなかった。
そしてようやくその名前を口にした犯人が思い当たる。
「どこでもなにもない……あの時の言葉を、聞いていたんだね?」
他でもない、俺自身じゃないか。間が抜けているにも程がある。
「魔石がジュリアさんの物だったことも聞いた。有利の魂はコンラッドが大切に守って地球に運んだんだよね?有利が生まれるまで大切に見守っていたんだよね?」
いや、やはり他に誰かにジュリアの話をした者がいるらしい。
余計な真似を。
いや違う。
……助かった、だ。
裏切りを演じても、今までの積み重ねがユーリにも、そしてにもそれを容易に信じさせない。
だがに出会うより前の話なら、そしてそれを引き摺っているというのなら、には信じるも信じないもない。あったことを知ったのだと思うしかない。
「……ジュリアさんの魂を、大切に守っていたんだよね?」

握り合わせたの手が震えて、俯いたその表情が見えないことに不安になる。
「ジュリアさんとは、恋人じゃなかったって話も聞いたよ。……でも、好きだったんでしょう?とても大切だったんでしょう?本当なら、結婚もしていたはずだって」
「それは違う!ジュリアの婚約者はアーダルベルトだ!俺は……っ」
思わず強く肩を掴んで、の小さな悲鳴に正気に戻った。
ちょうどいいなんて言いながら、実際にに捨てられるかもしれないと思ったらこれだ。
結局俺は彼女の愛情に甘えて、捨てられるなんて、本気で考えてはいなかったんだ。
俺のこの半端な態度が、をより惑わせているんじゃないのか?
「もうあなたに説明する義理もないんでした。ですが故人の名誉のために言っておきます。彼女は婚約者を裏切るような女性ではありません。口さがない周囲の目にどう映っていたかは知りませんが、俺と彼女はそんな関係では……」
「家紋を象った品を手渡していたのに?」
ジュリアとアーダルベルトの婚約は成立していて、破棄はされてない。彼女が不実な女性でなかったことは確かだと、それだけは言っておこうとしたのは言った通り彼女の名誉のためだ。……俺のための言い訳ではない……はずだ。
だが、の糾弾に息が詰まる。
だらりと下げた俺の両腕を掴んで、縋りつくように身を乗り出すを受け止めた。
「その人は家紋の入った品をあなたに渡した。あなたはそれを今でもずっと大切に持っていた。そしてそれを有利に……彼女の生まれ変わりに渡した……」
「……ええ、それは事実です。ですがそこに込めた意味はあなたが思っているようなことではありません」
彼女の本当の意図は、もう判らない。今では知る術はない。
ただそれを、当時の俺がそれを何よりも変えがたい品だと思ったことは事実だ。
だが今は違う。今、ユーリにあの石を渡したことにの考えるようなやましい気持ちはない。
「……いいや、そう思っても構わない。そして、俺のことなど忘れてしまいなさい。あなたには許し難い裏切り者だ。そんな男はさっさと忘れてしまえばいい」
言っていることと、気持ちがまるで重ならない。
を失いたくない。愛してる。
いいや、だから手を離さなければ。
俺は二度と国に帰らない。
の傍に帰らない。
だから。
「そんなことできない!」
それでもが俺を失いたくないと、そう叫んだことに喜びで心が躍る。
「ではどうしたいんですか。どちらにしろ、俺はもう……」
もうそれでいい、それだけでいい。
は真摯に俺を愛してくれた。
今ではなく、あるいは傍にいたときから裏切っていたかもしれないと思いながら、それでも俺を忘れたくないと言ってくれた。
それだけでいいと、そう思ったのに。
「二番目でもいい」
周囲のすべての音が消えた。
ただの声だけが俺の耳に流れてくる。
「二番目でもいい……ジュリアさんの……有利の、次でもいい……」
涙を堪えて、震える声で、偽りのない漆黒の瞳で真っ直ぐに俺を見上げて。
「それでもいい。わたしのことも見て、わたしのことも愛してくれるなら、それでいい。いつか帰って来てくれるのなら……待っていろと言ってくれるなら、それでいいから……」
声も出ない俺の胸に、が飛び込んでくる。
アーダルベルトの手当ての包帯代わりにシャツを使ったことを痛烈に後悔する。
上着の下は何も着ていなかったから、直接の体温が俺に伝わってくる。
「愛してるの……コンラッド……この手を、離さないで……っ」


目眩がしたのかと思った。
が俺を強く抱き締めて。
「コンラッド……わたし、あなたが……」
震える声が紡ぐ言葉を、これ以上聞くことはできなかった。
「好……」
を引き離して、そのままの勢いで近くの書棚にの細い身体を押し付けて、急いでその口を上から押さえる。
今、はなんと言った?
二番目でもいい?
俺が?
を二番目に?
まさか。
だが聞き違いではない証拠に、押さえられて声が出ない状態でもはうめくように繰り返している。
どうしてにそんなことを言わせた。
俺が半端な対応をするからじゃないか。
が俺の裏切りを信じないから、それでも縋ろうとしているんじゃないか。
「並ぶ者もない美貌と貴き身分を持つあなたが、裏切り者の愛妾であることを望む必要などない。あなたがその気になれば、男などいくらでも掴み取りできる。俺よりも身分の高い者でも、俺よりも容貌に優れる者でも、いくらでもだ」
突き放さなくてはいけない。にそんなことを言わせてはいけない。
俺がどんなに必死になってを冷たくあしらおうとも、は声にならない言葉を唇の動きで伝えようと、俺の手の下で繰り返し訴えている。
俺が好きだと。俺でなければ意味がないと。俺以外の男なんていらないと。
これほど残酷な幸福があるだろうか。
はそれでも俺を愛してくれる。
俺は、こんなにも君を傷つけているのに。
「男性恐怖症のことが不安なら、大丈夫ですよ。俺で男との接触は随分と慣れたでしょう? ヨザックに抱えられても、お連れの方に後ろから羽交い絞めにされても、ふたりを殴ることも振り払うこともなかった。もう大丈夫ですよ。俺でなければ怖いというのは、単にあなたがそう思い込もうとしているだけだ」
こんなにも傷つけているのに、俺の手を濡らして涙を零しながら、それでもは首を振る。
抱き締めたかった。
愛してると囁きたかった。
「そんなに俺がいいんですか?」
………突き放さなければいけない。
俺が……俺なら、を愛しているなら、絶対にしないことをして、突き放す。
それがの心をどれだけ傷つけたのか、俺は確かに聞いた。
「そんなに俺がいいんですか?」
俺を信じて、だからこそ俺だけは触れることを許してくれたのに。
「……コンラッドじゃなきゃやだ……」
ゆっくりと手を離すと、は震える声で、だが迷いなく涙に溢れる瞳で俺を見上げる。
「どうして俺が、絶対に一人にならないように忠告したとお思いですか?」
突然まったく違うことを言い出した俺には目を瞬いて、新たな涙が頬を伝い落ちた。
「どうしてだと、思っているんですか?」
「……だって……パーティーに一人でいると……ダンスに誘われるし……」
「ダンスね……」
書棚に押し付けていた力を抜くと、の身体がよろめいて俺の腕の中に収まった。
このまま抱き締めることができれば、どれほど幸福だっただろう。
「可愛らしいお答えだ。無用心にもほどがある」
軽い身体を抱き上げて、近くのテーブルの上に降ろす。
は戸惑いながら手の甲で涙を拭い、俺はその手を掴んだ。
「コンラッド……?」
「あなたのように自分の容貌に無自覚で、無用心な女性がどれほど危険なのかを、身を以って学習されるといいでしょう。まあ………あなたは俺が好きで、二番目でも良いそうなので学習になるかはわかりませんが」
力を込めて肩を押すと、油断していたは抵抗もなく机の上に仰向けに倒れた。
まだ俺を信頼している証拠だ。あまりにも抵抗がなくて、思った以上に勢いがついた。
背中を打ちつけたは息を詰めて、喘ぐように空気を吸う。
背中に痣ができてしまったかもしれない。
今からさらに心を砕くような真似をする。その上、身体にまで傷をつけたくはないのに。
「コ……」
「あなたのお兄さんと賭けたことの内容を教えて差し上げます」
軽薄に笑った。笑えたはずだ。
こんな風に傷つけることだけは、したくなかった。
だけど、君が俺に想いを残すくらいなら、その欠片までも俺の手で砕こう。
「俺の望みはあなたです。あなたを抱きたいと言いました。一晩だけくださいと。最後まであなたを一度も抱けなかったのは少し心残りで。残念ながら、勝負自体が流れて賭けは成立しませんでしたが、まさか賞品がただで転がり込んでくるとは思いませんでした」
君を愛しているから。
どうかもう思い出すこともないくらいに、俺を嫌ってくれ。







どうやら彼は自分の愛情のほうがずっと大きいと思っていたようで……
彼女のここまでの執着は予想外だった模様。

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