ずっと心配してくれた有利を、わたしの弱さと自分勝手さで傷つけた。だから今度こそ、

もうこれ以上、有利がどんな意味でも傷つくことがないように。

ヴォルフラムのお陰で素直にそう思えた。コンラッドが誰を好きでも、それは有利には

関係ない。わたしが誰を好きでも、大シマロンに行ってしまったコンラッドにはもう関係

ないように。

そう思っていたのに。

確かな手応えが伝わった剣を、放り出したくなった。






086.持ち逃げされた心(4)






肉を切り裂く感触と、僅かに掛かった返り血と。

斬った。

人、を。

頭の天辺からつま先に至るまで、凄まじい悪寒と震えが一気に駆け抜ける。

怖い、いやだ、斬った……恐ろしい。

「あ……」

小さな消え入りそうな有利の呟きに、取り落としかけていた剣を握り直して、横合いから

斬りかかってきた剣を受ける。

今は、とにかく有利を守ることに専念しなくては。

「有利、下がって!」

「え……あ……」

「下がって有利!」

地面にしゃがんだままの有利を庇うには真正面から剣を受けるしかない。両手が痺れて、

震える刀身を伝って血が流れ落ちてきた。

刀身が震えているのは、力負けしそうなせいだけじゃない。震えが止まらないんだ。

「……くっ」

剣を弾かれて、斬られると思った瞬間だった。

空を切り裂く音が聞こえて、剣を突き出した男の動きが小さく痙攣して鈍る。剣先を首を

捻って避けると、そのまま仮面の男は地面に倒れた。

倒れた男の背中の真ん中に短剣が突き刺さっている。

咄嗟に短剣が飛んできた方を見ると、そこには……。

「コンラッド……」

「え!?」

有利が地面から立ち上がった。

遠すぎて顔は確認できないけれど、仮面の男達の間に割って入ってきた集団で騎乗して

いる三騎のうち一人は、絶対にコンラッドだ。わたしがコンラッドを間違えるはずがないし、

左手から右手へ剣を持ち直して振るった、あの居合いに似た剣筋は間違いない。

どうしてコンラッドが剣を持ち替えたのか。右利きなのに。

左でも持てないことはないけれど、コントロールは右手の方が正確だと言っていたのに。

考えるまでもない。

無言で突き出された次の剣を、どうにか叩き落す。

「有利、下がって!」

助けてくれたんだ。ナイフを投げて。

どうしてだか判らない。

いらないと言ったくせに、どうして助けてくれるんだろう。もう、いらないくせに。

元来た道から馬の嘶きが聞こえた。

「ユーリ!!」

ようやく追いついたヴォルフラムたち四人が馬車から飛び降りてくる。

ヨザックさんとサイズモアさんは謎の仮面集団とコンラッドが率いている集団の混戦の中に

飛び込み、ヴォルフラムとダカスコスさんがわたしと有利を庇うように剣を構える。

「無事か、二人とも」

「け、怪我はないよ」

有利の視線がちらりと地面に倒れたままの、わたしが斬った男に向かう。

わたしは、そちらを見ることが出来なかった。

震える手が剣を取り落としそうになって、必至に柄を握り締める。

何度も覚悟を決めなくてはと思っていた。コンラッドに剣を習っていたのも、こんな事態に

備えてのことで、今更覚悟ができていなかっただなんて言えない。

言えない、のに……。

やっぱり覚悟なんて出来ていない。

剣を持つ手が震える。その刃は赤く血塗られていて。

「ンモフー!」

いつの間に繋いでいた革紐を切ったのか、有利を庇うように前に立っていたTぞうの荒い

鼻息で恐怖に囚われそうになった思考を振り払って戦場に視線を戻す。

ヴォルフラムとTぞうとダカスコスさん越しに見える戦場は、急速に決着がつきつつあった。

圧倒的に人数の多い仮面の集団よりコンラッドがいる集団の方が戦い方が上手い。

決して一対一にはならいし、そうすると当然正面から斬り合うことにもこだわらない。

「ユーリ!」

飛来したナイフは、ヴォルフラムの声に反応して叩き落そうと振るったわたしの剣に当たる

前に、軌道を変えてユーリのすぐ横の馬車の幌に刺さる。

「うおっ!?あああ危ねっ!、助かった……」

「わたしじゃない」

ナイフの軌道を変えた原因を探って視線を転じると、集団戦闘から離れた場所に一騎だけ

騎馬兵が残っていた。戦闘に参加しているのは三騎のうち二騎だけだ。

仮面の集団は半分以上数を減らして、とうとう北に向かって逃走を始めた。

「逃げてる……?助かったの?」

仮面の集団が敗走したと確信した有利は、すぐに地面に這いつくばった。見ているのは、

わたしが斬った相手だ。

「ヴォルフ、ちょっとこの人診てやってくんない!?」

「どいつだ………お前はどこまで馬鹿なんだ!敵じゃないか!」

「いやその、そうなんだけど息があるから……」

しゃがみ込んだヴォルフラムは、うつ伏せに倒れて呻いていた男をごろりと仰向けに転が

して胸に刻まれた一文字型の傷を一瞥した。

「これくらいの傷では、今すぐ手当てをすれば死なない。放っておけ」

光が差し込んできたかのような言葉に、わたしは剣を握り締めたまま地面に転がる男を

ようやく見ることが出来た。

確かに、傷は浅くはないけど肋骨の辺りで止まっているようだった。

この人は、助かる。

「よかった!助かるんだ。いやでも放っておけってなにさ。手当てをすればだろ?」

「お前はまた殺されそうになった相手を助けるというのか?ゲーゲンヒューバーはそれで

も魔族だが、どうしてこいつを助けなければならないんだ!」

「いや、その、ごもっともなんですが、でも助かる命を見捨てるのは……」

「この人たちのことは気にしなくていいよぉ。死体や怪我人はこっちで引き受けるからぁ。

元を辿ればウチの兵士だもぉん」

血生臭い戦場に似つかわしくない、甘えるような可愛らしい声に顔を上げる。

そこにいたのは……痩せすぎて顔色の悪い四十代くらいのギラギラした目の中年の男

だった。





「ベラール陛下……」

有利の呟きに、驚いて有利と、そして男を見比べる。

この人が、大シマロンの国主なの!?

「やあ!皆さんとはどこかでお会いしたねえ?」

可愛い声は、確かにこのマッシュルームカットの男性の口から発せられた。ものすごい

違和感がある。特に返り血で目に痛い原色の服が赤く染まった今の状態では。

「終わったの?」

車から降りてきたフリンは、死体や怪我人が数多く転がる辺りを見回した。

「なぜ狙われたのかしら」

呟くフリン後には村田くんも続いている。

「カロリアを独立させるのが、今になって惜しくなったんだよぉ」

襲った理由はそちらの方だったのね。なるほど、だからカロリア一行かと確認を取った

んだ。村田くんの言うとおり、箱絡みじゃなかった。

「アハハ〜伯父上の作戦を邪魔するのは本当に気持ちがいいねぇ、これでカロリアは

ちゃんと独立するし、また伯父上の評価が下がっちゃうよぉ。権力者がうろたえる姿を

見るのは本当に楽しくてやめられないよぉ」

狂気的な目で笑っていた男は、最後に小さく消え入りそうな声で呟いた。

「……早く消えればいいのに」

シマロン王家は上層部で揉め事あるようだけど……。

「陛下!」

聞こえた声に涙が滲みそうになって振り返った。

だけど、馬上のその人は、有利を見てはいない。もちろん、わたしのことだって。

「戻りましょう、陛下。あまり長く王宮を空けていると、二世殿下に怪しまれます」

「そうだねえ」

もうその後に『すみません、つい癖で』という言葉は続かない。

コンラッドは大シマロンの王を促して、わたしたちには一瞥もくれずに背中を向けた。

「コ……ウェラー卿!」

僅かに肩越しに振り返る。もう、そんなついでのようにしか見てくれない。わかっている

のに、その度につらく、胸が痛い。

「助けて下さって……ありがとうございます。あの、ナイフを……」

「半端な技量で前に出るのはおよしなさい。己のみならず守る者も危険に晒し、共倒れ

するだけですよ」

「んだよ、その言い草っ」

「有利っ」

慌てて袖を引いて止めると、コンラッドは首をかしげて不思議そうに訊ねる。

「おかしな方ですね。大切な妹に守られたいんですか、それともなるべく安全な行動を

取ってほしいんですか?」

有利が言葉に詰まると、コンラッドは先に行った大シマロンの王を追って返答を待たず

に馬の腹を蹴って走り出した。

「い……嫌味な奴っ!」

「今頃気付いたのか」

ヴォルフラムが肩をすくめて溜息をつくと、有利は地面蹴りつけた。

わたしはただずっと、その背中が見えなくなるまで瞬きもせずに見送る。

こんなにもつらく、こんなにも苦しいのに、コンラッドがわたしを助けてくれたのかと思うと、

こんなにも嬉しく、幸福だった。

それは人の死の上に立ったものなのに。

「傷の手当て……しなくちゃ」

泣きたくなってぎゅっと一度強く目を瞑ってから、地面に倒れている怪我人の手当てを

しなくてはと顔を上げた。……わたしが斬った人もいる。

手当てをしたからといって人を傷つけたことには変わりはないけれど、それでもこの人が

助かると聞いたときには、ほっとしてしまった。

「そりゃわしらの仕事じゃー」

聞き覚えのある声に振り向くと、コンラッドが……大シマロンの王が率いていた十数人の

集団は、驚いたことに小シマロンのあの恐ろしい実験で一緒にスタジアムに連行された、

平原組の出身者たちだった。

「お嬢さーん、わしら役立ちましたかいねー?」

兵士養成集団平原組の長の娘であるフリンは、顔見知りの登場に驚いて飛び上がる。

「あなたたち……どうして……ああ、いいえ、今度は大シマロンに雇われたのね」

「今回だけですがねー」

「あ、山脈隊長もいるんだ!?ええっと、先にテリーヌさんに話しかけないといけないん

だっけ。テリーヌさん元気ですかー?」

「元気でしゅよねー、テリーヌしゃん。テリーヌしゃんはいつでもお肌つやつやで元気な

んでしゅよー」

テリーヌさんは隊長さんが抱える人骨の名前だったりする。自分が殺した敵の亡骸を

持って帰ったという話だけど、その時点で白骨化していたというオチ付き。

「っていうかね、テリーヌさんて人骨じゃなくて骨飛族なんだけどね」

村田くんがこっそり耳打ちしてくる。

「そ、そうなの?」

じゃあ白骨化どころか、最初から骨なんだ。

「ところで山脈隊長、君たちの中で法術を使える者は?」

答えはない。村田くんは小さく舌打ちして髪を掻き毟った。

「テリーヌさんは法術を使える者の心当たりはないですか?」

「そんな上等なもん使えたら、もっといいところに雇われてましゅよねー、テリーヌしゃん」

相変わらずテリーヌさんを介してでしか、会話をするつもりにならないらしい。

「なんだよ村田、法術って。ああ、傷の手当て?」

「違うよ。あの仮面集団に刺さった最初の一撃は矢だっただろ?だけど、どこにも矢が

ないんだよ。死体にも、地面にも」

「死体って……確認したの!?」

「そりゃしたよ。矢傷はあるのに矢はなかった」

「村田って眼鏡貧弱ガリ勉のイジメてくんだと思ってたのに……死体を確認するなんて

真似ができるとは……」

「その偏見で語るのやめよーよ」

視線を感じてあの仮面の集団が逃げたのとは逆の森の方を見ると、援軍として現れた

集団の騎馬のうち、コンラッド、大シマロン王以外の最後の一騎が木々の間から騎乗

したままこちらを見ていた。

「アーダルベルトさん」

「うえ!?ど、どこ!?あいつあんな怪我してんのにまだおれを……」

首を忙しく巡らせて、森にいるアーダルベルトさんを見て、何かが違うと思ったらしい。

法術、と呟いて有利は彼の元へ駆けて行く。

鞘に収めた剣を握り直して有利の後を追いかけると、気さくに有利に挨拶をしたその

青い目がわたしに向けられた。

昨日コンラッドに手当てをされていた手足は、ギブスのようなもので固定されている。

「目はもういいのか」

「あう……」

ギルビット港で、目が一時的に見えなくなったと言って嘘をついたんでした。もうあれ

が嘘だったと判っているはずなのに、意地悪だー。

「そ、その節は大変お世話に……」

……お前がだな?」

「は?え……そ、そうですけど……」

「……そうか」

「なに?に何か用だったのか!?だからさっきも助けてくれたの?あんたは法術

が使えるもんな。弓矢みたいだけどそうじゃないものを撃ったの、あんただろ?」

「それに、飛んできたナイフの軌道を変えてくれたのも……」

「さあな」

「そんなことする力があるなら、自分の怪我を治せよー」

有利が眉を下げて呆れた声を上げると、アーダルベルトさんは理不尽な説教を受けた

ような表情で目を瞬き、それから小さく笑った。

「これであの晩の借りは返した。次に会うときは……」

そこまで言って、手綱を引いて馬首を変える。

「だからその不安を残す言い方はやめろよ!最後まで言えってっ」

馬の腹を蹴ろうとして、不意にわたしを振り返った。

「二番目だなんて卑下するのはやめろ」

ぎくりと身体が震えた。表情も硬直したに違いない。

あのとき、彼は起きていたのね……嫌なことを聞かれた。

青い目に苦笑を乗せて、彼はコンラッドが消えた方角に視線を転じる。

「己を貶めると、相手も貶めることになるぞ……お前は充分にいい女だ」

馬の腹を蹴って走り出したアーダルベルトさんとわたしを見比べて、有利が頭を抱えて

悲鳴を上げる。

「なに!?なんの話!?いい女ってアメフトマッチョと何があったの!?」

いい女って……諦めが悪かったり、わがままだったり自分勝手だったりしたのに?

ヴォルフラムといいアーダルベルトさんといい、ちょっと甘いと思う。

苦笑が漏れて、服の上から残った片方のイヤリングを入れている袋を握り締めた。

「ごめんね、有利」

「え……」

昨日のことを思い出したのか、有利は消え入りそうな力のない震える声を絞り出す。

「な……なんの……話?」

「わたし、コンラッドが好き」

袋を握り締めて、顔を上げる。真っ直ぐに有利の黒い瞳を見る。

「わたし、コンラッドが好き。ふられたけど……もう、側にいてくれないけど……」

敵対してしまったけれど。

「諦め、られないの。……ごめんね有利……いいえ、陛下。あなたの側にありながら、

コンラッドを想うことを、どうかお許しください」

有利は唖然としたように目を見開き、口を開け、それから頭を乱暴に掻いた。

「なんだよー、謝ることじゃないじゃん。びっくりさせんなよ」

髪をかき回していた手を降ろして、有利は困ったように微笑んだ。

「謝ることじゃないだろ。……お前、やっぱりいい女だって」

「そう?」

「そう。ちょっと馬鹿だとも思うけどね」

「ひどいなー」

「それはお前だろ。陛下って言うな」

「雰囲気が出るかと思って」

「こんな時にそんなもん考えるなよ」

有利と、ようやく自然に笑い合いながら馬車に戻る為にゆっくりと歩き出す。

心配してくれているのに、ごめんね有利。

忘れろと言われたのに、ごめんねコンラッド。

だけどわたしの恋は、想いは。

すべて、あの人に。

あなたに。

どうか……そのわがままを、許してください。








決意と本心を語ることで、少しだけ前向きになれました(開き直りともいいます…)



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