一番じゃなくてもいい。

有利の次でいい。ジュリアさんの次でもいい。

側にいてくれるなら。

今は無理でも、帰って来てくれるなら。

わたしを愛してくれるなら、それでもいいから。

「コンラッド……わたし、あなたが……」

ぎゅっと強く背中に回した手で白い礼服を握り締めて。

「好……」

最後まで言うことはできなかった。

大きな右手がわたしの肩を掴んで引き離し、そのままの勢いで近くにあった書棚にわたしを

押し付ける。

そうして左手が、わたしの口を塞いだから。






085.千切れた思い出、守られぬ約束






「およしなさい」

焦っているような苛立っているような、苦い声がわたしの耳に流れ込んできた。

見上げた銀の光彩の散る茶色の瞳は苦々しげに歪められ、噛み締めるように言い聞かせる

ようにゆっくりと。

「あなたは眞魔国魔王の王妹だ。裏切り者にそんな言葉を向けるのは、およしなさい」

「……っ」

だって!

口を押さえられて声が出ない。

だって、わたしは信じない。コンラッドが眞魔国を裏切ったなんて信じない。有利を裏切った

なんて信じない!わたしを……っ。

「並ぶ者もない美貌と貴き身分を持つあなたが、裏切り者の愛妾であることを望む必要など

ない。あなたがその気になれば、男などいくらでも掴み取りできる。俺よりも身分の高い者

でも、俺よりも容貌に優れる者でも、いくらでもだ」

わたしを、捨てただなんて、信じない……。

「う……ううーっ」

口を押さえられたまま、涙を零しながら、何度も繰り返す。

掌に伝わった唇の動きで少しでも判ってくれないかと、繰り返す。

コンラッドじゃなきゃやだ。コンラッドじゃないと意味がない。わたしが好きなのはコンラッドで

コンラッド以外の人なんていらない。

「男性恐怖症のことが不安なら、大丈夫ですよ。俺で男との接触は随分と慣れたでしょう?

ヨザックに抱えられても、お連れの方に後ろから羽交い絞めにされても、ふたりを殴ることも

振り払うこともなかった。もう、大丈夫ですよ。俺でなければ怖いというのは、単にあなたが

そう思い込もうとしているだけだ」

もうだめなの?

何をどう言っても、コンラッドは耳も貸してくれないの?

悲しいのか悔しいのか、怖いのか腹が立つのかわからない。

とにかくそれは違うと言いたくて、押さえられたまま、あまり動かせない首を小さく振って

否定する。

怖くないから好きになれるわけじゃない。

コンラッドだから好きになったのに。

溜息が聞こえる。

「そんなに俺がいいんですか?」

どこか投げやりな声だ。口を押さえ込んでいた手がそっと外される。

でも涙のせいで、ランプの薄明るい灯りの部屋では、コンラッドがどんな表情をしている

のか、よく見えない。

「そんなに俺がいいんですか?」

少しも優しくない言い方で、これはコンラッドの望んでいる答えじゃないんだとわかって

いるけど、それでも。

「……コンラッドじゃなきゃやだ……」

それが、わたしの本当の気持ちだから。

もう一度溜息が聞こえた。

「どうして俺が、絶対に一人にならないように忠告したとお思いですか?」

突然まったく違うことを言い出したコンラッドに驚いて、何も返答できなかった。

「どうしてだと、思っているんですか?」

「……だって……パーティーに一人でいると……ダンスに誘われるし……」

「ダンスね……」

くすりと小さく聞こえた笑いはまるで馬鹿にしているようで、意地の悪い響きで。

「可愛らしいお答えだ。無用心にもほどがある」

わたしの肩を書棚に押し付けていた手が引いて、身体がよろめいてコンラッドの腕の中に

収まった。

そのまま抱き上げられて驚いている間に、近くにあったテーブルの上に降ろされた。

甲で目を擦って涙で滲んでいた視界をどうにか取り戻すと、その手首を掴まれる。

「コンラッド……?」

「あなたのように自分の容貌に無自覚で、無用心な女性がどれほど危険なのかを、身を

以って学習されるといいでしょう。まあ………あなたは俺が好きで、二番目でも良いそう

なので学習になるかはわかりませんが」

ぐっと肩を押されて、机の上に仰向けに倒される。

勢いが強くて背中を打ち付けて息が詰まり、耳元でイヤリングの鎖が音を立てた。

「コ……」

「あなたのお兄さんと賭けたことの内容を教えて差し上げます」

コンラッドはゆっくりと口角を上げて笑みを見せると、わたしの右手を机に押し付け、片手

でドレスの紐を引いた。

「俺の望みはあなたです。あなたを抱きたいと言いました。一晩だけくださいと。最後まで

あなたを一度も抱けなかったのは少し心残りで。残念ながら、勝負自体が流れて賭けは

成立しませんでしたが、まさか賞品がただで転がり込んでくるとは思いませんでした」





ドレスの裾をたくし上げて太腿を撫でる手と、首筋を這う舌と。

何が起こっているのかわからない。

「……意外だな、抵抗しないんですか?」

コンラッドは首筋に埋めていた顔を上げて、わたしを押さえ込んでいた左手で頬を撫でた。

「それとも期待していたというところでしょうか」

小さな金属の音と一緒に耳に鋭い痛みが走って、コンラッドの左手の指が摘み上げている

イヤリングが目に映った。

茶色の琥珀と中の白い気泡が、コンラッドの銀の光彩の散った瞳の色のようで、わたしが

コンラッドにねだってヒルドヤードで買ってもらった、イヤリング。

コンラッドの側にいられないときに、コンラッドを想うためにと買ってもらった。

それはただ日本にいるときなんかの少し離れている間のためだったのに、この一連の騒ぎ

の間、わたしがずっと縋っていたあの……。

「まだこんな安物を持っていたんですか?上等なドレスにこれは似合わない。捨ててしまい

なさい」

軽くコンラッドが放り投げて、床に金属が跳ねる音が聞こえた。

「や……っ」

イヤリングを取り戻そうと伸ばした手を、また机に押し付けられる。

「あなたなら、もっと上等な宝石などいくらでも手に入る。あんな安物にこだわる必要はない。

あれが特別な物に見えるのは、あなたのただの錯覚だ」

紐を解かれたドレスが下に押し下げられて、肩が直接空気に触れた。

「い…………」

左手が勝手に動いた。

「いやああぁーーっ!!」

指先に嫌な感覚を覚えたまま、めちゃくちゃに手を振り回す。

「いやっ!こんなのはいやぁっ!」

暴れる左手を押さえつけて、上から覗き込んできたコンラッドの頬に赤い筋が走っている

のが見えた。

「あなたが言ったことでしょう、二番目でもいいと」

「でもこんなのは違う!だってこんなの……っ」

「そこに愛がないから?」

ひくりと喉が鳴って、咄嗟に声が出ない。

「同じですよ。二番目の愛なんて仮初だ。あなたはそんなものでも欲しいと言った。そんな

に欲しいのならあげましょう。……身体だけの関係を」

「いやっ!」

「どうして。あなたが欲しいと言ったものだ」

「違う!わたしが欲しいのはこんなのじゃない!こんな……こんなの……っ」

「『いらない』?」

暴れる手足が止まった。

見上げたコンラッドは少しも表情を変えていなくて、こんなことをしていても、辛くも楽しくも

感じているように見えない。

「どうしました?いるのか、いらないのか、はっきり仰いなさい。いるのなら差し上げます。

いらないのなら、この手を離してあげましょう。無理やりというのはあまり好きじゃない」

喉が空気を吸い込んだけど、震えるだけで何も言えなかった。

「いるんですか、いらないんですか?」

コンラッドの指先が肌を伝うようにしてドレスを押し下げて、胸にまで降りたときにぴたりと

止まる。

「これは?赤くなっていますが」

左胸にある火傷というほどもないくらいの、少し赤くなった程度の傷。鉄格子を無理に押し

通ったときに服越しについた跡のことだ。

やっぱり唇は震えるだけで、言葉として音を紡ぐことはできなかった。

「……火傷、かな?なんてことだ。俺は怪我をした女性を組み敷く趣味もない。それでも

あなたが望むなら、この程度の傷なら続けます。続けて欲しいですか?」

「………ず……るい……」

ぽつりと漏れた一言にコンラッドは目を丸めて、そして息を吐きながら起き上がった。

溢れる涙が止まらない。

コンラッドはずるい。

本当は、最初からわたしを抱く気なんてなかったくせに、そんなポーズを見せてわたしが

拒否するのを待っている。

わたしが拒絶したら、きっともう二度と振り返るつもりはないんだ。

そして、受け入れたら。

受け入れたら、言った通りに二番目の愛を。

身体だけの愛を、くれるんだ。

自分で選んだことだと。

両手で涙の止まらない顔を覆い隠す。だけど嗚咽までは止められなくて、静かな部屋に

外からのざわめきと混じったその声だけが響いていた。

肩に、触れられる。

びくりと震えて思わずその手を振り払ってしまった。

見上げたコンラッドは苦笑して、もう一度わたしの肩をそっと掴んで抱き起こす。

「世の中には嫌がる女性でも気にしない男も、より喜ぶ男もいるということを覚えておくと

いいでしょう。これに懲りたら二度と一人でふらふらしないように気をつけることです」

「懲り……たら……?」

コンラッドは途中まで脱がしたドレスを引き上げて首の後ろの紐を括って、それから上着

しか着ていなかったのにそれを脱いでわたしに掛けた。

「好意的に解釈してくれるのは勝手ですが、もちろんあなたが望むなら続きをしましょう。

ここではさすがに味気ないので俺の部屋で。すぐに済むことですから、そのあと陛下の元

に戻ればいい」

「……すぐに……済む……?」

小さく繰り返すと、同じくらいに小さな苦笑で返ってくる。

「じっくり時間を掛けて欲しいのなら、ゆっくりと。一晩だけの後腐れのない関係ですから、

いろいろと試すのも楽しいかもしれませんね」

コンラッドの身体は傷だらけだった。

その中でも一際目立つのが、脇腹の皮膚の捻れた大きな傷。

そして何故か無事に繋がっている左腕は、斬り落とされたはずの場所に幅の広い包帯が

巻かれていた。

そっと震える手を伸ばす。

コンラッドは首を傾げただけで止めもしなければ、逃げもしなかった。

「誕生日……」

「え?」

触れた包帯はざらざらとしていて、そこから滑らせて触った腕も、確かに本物の人の腕だ。

「誕生日、プレゼント……」

つと顔を上げると、コンラッドは苦い顔で眉間に皺を寄せていた。

「これからも……側にいるって……約束した……」

「…………あなたが自分で付け足したでしょう。もし側にいることがなくなっても、嫌いに

だけはなるな、と。ええ、嫌ってはいません。約束は守っています。嫌いな女性を抱ける

ほどできた人格は持ち合わせていません。……もっとも」

コンラッドは左腕を触っていたわたしの右手と、だらり落としたままだった左手を取って、

まるで水でも掬うかのように掌を揃えて上に向けると、右手の掌にキスを落す。

「愛してもいない女性を抱けるのは、男ならだれでもそうでしょうね」

みっともなくてもいい。情けなくてもいい。

あなたが帰って来てくれるなら、愛し続けてくれるというなら、それでいいと思っていた。

……ずるいのは、わたしの方だ。

「コンラッド………いいえ、ウェラー卿」

わたしの両手を取っていたコンラッドの手が僅かに揺れて、ゆっくりと顔を上げる。

その表情にはもう、苦笑も、嘲りも、何も浮かんでいなくて。

この国で再会してから、何度も拒絶された。

何度も何度も拒絶された。

それでも縋り付こうとしたのはわたしで、そして最後に逃げたのも、わたしだ。

ずるいのは、わたしの方だ。

最後まで、最後の別れの言葉まで、あなたに言われなくては、何ひとつ進めなかったのは。

「今まで、ありがとうございました」

ここで泣いちゃだめ。

「いつも……いつでも……最後まで、あなたに頼りきりで、ごめんなさい……」

笑って。

笑うの、

「遠くからでも、あなたの無事を祈っています」

コンラッドの手を握り締めたくて、それを我慢するために両手を強く握り締めて机から飛び

降りる。

!」

伸びてきた手を避けて捕まらないように腕を胸に引き寄せて、部屋の入り口まで一気に

駆け抜けた。

壊れた扉に手を掛けて、一度だけ振り返る。

「どうか……お元気で……」

それでも、さよならとだけは言えなかった。







道は分かれました。



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