それにしても、村田を探すと言ったって、一体どこに行けばいいんだろう? その辺りの大シマロンの人間を捕まえて、カロリア関係者の控え室でも聞けばわかるか? 頭を捻りながら大広間から一歩出たところで、扉の陰から現れた手に服を掴まれる。 「あの話は本当か!?」 切羽詰った声で引き摺られて、廊下の壁に押し付けられる。 「いてっ」 握られた手首が痛くて小さく声を上げると、途端に拘束する力が緩んだ。だけどおれを壁に 抑える手はどかない。 「すまない、痛めつける気はなかったんだ。首はどうした?喉は、もう血は止まったか?」 「あ、あんた……何で」 泥にまみれたまま、服も髪も、靴までずぶ濡れでおれに必死に詰め寄っているのは、いま 言った傷をつけたその張本人だった。 「アーダルベルト……」 「教えてくれ!お前は本当に、ジュリアの生まれ変わりなのか?」 083.冷たい声(1) 「な、何のことだかさっぱり……」 「ウェラー卿が言っていたことだ!本当に、お前はジュリアの……」 「そんな話、おれは知らないよ!」 両手で相手の胸を力一杯押し返し、力が入らないのか仰け反った男の腕から転がるように して壁際から逃げ出した。 ついアーダルベルトから距離を取ろうとして、会場とは逆に動いてしまった。ここから広間に 戻るには男の横を突破しなくてはならない。 数時間前に戦闘不能に追い込まれたはずの男は、ボロボロのままなのに目だけがギラギラ と血走っていて、その迫力に自分から男の方へ近付くことはできなかった。 「待ってくれ。聞きたいことがあるだけだ。傷つけるつもりはない」 「あんたにそんなこと言われて、どう信用しろっていうんだよ!?」 泥と雪に濡れた手を伸ばされて、それを避けようと踵を返して走り出す。後で冷静になって 考えてみれば、相手はフラフラなんだから体当たりで強引に突っ切れば、人のたくさんいる 広間に戻れたかもしれない。 でもあの迫力に、そんな冷静に考えるだけの余裕なんて持てなかったのだ。 他人の国の神殿だ。当てがあるはずもなく、無闇に走り続けることしかできない。あいつを 撒いて広間に戻る計画を立てるには、神殿の構造がわからない。 人気のない夜の神殿は、澱む空気まで重い。弾むおれの呼吸がやけに大きく響いた。 確実に奴は追ってきている。 石の廊下に響く足音はともかく、聞こえるはずのない荒い呼吸まで聞こえているような気 がして、疲れてもつれる足で階段を上がる。 どんどん知らないところへ逃げている。 どうにかしれなければと、奴をやり過ごすつもりで近くにあった豪奢な扉を押し開けた。 灯りもついていない無人の部屋のようだがむしろ好都合だ。暗闇に飛び込んで、慎重に扉 を閉めて鍵を掛ける。 小さく掛け金の落ちる音がして、まだ安心はできないのにほっと息をついてしまった。その 豪奢な扉に寄りかかったまま、天井を見上げる。 このまま通り過ぎてくれればいいのに。ホラー映画の主人公に、馬鹿だなあ何でそっちに 逃げるんだとか、何でそんなところに隠れるんだとか思っていたけど今わかった。 必死に逃げているときは、そんな当たり前のはずの知恵さえ回らないんだ。 闇に目が慣れてくると、月灯りと雪の反射だけの僅かな光で部屋の中が見えてきた。 奥行きはかなりありそうな部屋だが、壁全体にびっしりと本の詰まった書棚が並んでいた。 「……図書館?」 足音を立てないように慎重に扉から移動して、すぐ近くのテーブルに歩み寄った。誰かが 読みかけで置いて行ったらしく、開いたままの本がぽつりと置かれている。 写本でもしていたのか、本の横には紙の束とインク壷、それに羽ペンと紙を押さえる石が 置かれていた。 何気なく、開いていた本のページを触ってみる。部屋の中は暗いけど、どうせおれはもと からこの国の過剰装飾文字は読みづらい。それなら反則技の指先でたどって解析する方 が遥かに効率がいい。 未熟な印刷技術のお陰で文字の部分におうとつがあって、指先でも読み取りやすい。 『大陸、統治、三王家……三王家統治期における勢力及び人口分布……西半島三国を 含まず……』 厚い書物の一部分だけ解読したところで、何の本かもわかりはしない。諦めて手を隣の 無地の紙に置いたとき、指先が読んだ文字に手が止まった。 「ウェラー……?」 紙を見れば無地なのだが、どうやら筆圧の強い人物だったらしい。下の紙にまでしっかり と文字の跡が残されていた。 『三王家・ラーヒ……ギレスビー……ベラール……ウェラーに改姓』 改姓の文字に首を傾げて、もう一度少し前に戻って指先で辿る。 『現大シマロン農政調整区コル・ニルゾンにて戦闘時滅亡認定、生存者ペイゲ・ベラールを 北神橋海メイ島に幽閉、二十年後特記事項により大シマロン王都に移送、ウェラーに改姓。 以降五世代を確認』 どうやら滅びた王家の行く末についてのようだった。 「……あれ、でもベラール?なんでベラールの名前が出て来るんだ?」 さっき会った現大シマロンの権力者たちは二人ともベラールという名前だった。なぜ自分達 が滅亡させた王家の苗字を名乗っているのか?わざわざ改姓までさせて。 ウェラーに改姓後確認された五世代のうちのどこかにコンラッドの親父さんがいるのだろう。 おそらく四世代目か五世代目に。 コンラッドは言っていた。 『元々ここは、俺の土地です……俺の先祖が治めていた土地ですよ』 あれはこういうことだったのか。比喩でもなんでもなく、そのままだったんだ。 じゃあこの特記事項ってなんだろう?わざわざ幽閉していた以前の権力者を呼び戻して、 苗字を変えさせた。そこにどんな意味がある? 今よりもずっと昔の話で、おれには関係ないだろう。そう思うのに、ひょっとしたらコンラッド が大シマロンにいる理由がそこにありはしないだろうかと、指先で文字を辿り続ける。 突然大木をへし折るような音がして、驚いてその場で飛び上がる。あんなに頑丈に見えた 図書室の扉が、白木を見せて割れている。 「どうしてここにいるってわかるんだよ……」 逃げなくては、隠れなくてはと左右を見回した、その次の一撃で、扉本体より先に掛け金 が吹っ飛んだ。入り口が勢いよく左右に開き、壁に当たって反動で戻る。廊下の光を背中 に、顔は陰になってよく見えないのにギラギラとした目だけはよくわかる。 「……なぜ逃げるんだ」 「そりゃ逃げるだろ!?」 自分のゾンビ状態を把握していないらしい。 顔や腕の傷から血を流し、そのくせ目だけは血走って、荒い息をしながら迫り来る迫力は 半端じゃない。 その上、以前殺されて掛けているとなれば、逃げるしかないのは当然だ。 「教えて欲しいだけなんだ、本当だ、傷つけるつもりはない」 「信じられるか!」 入り口には追跡者が立っていて、図書室の奥に逃げるしかない。だがこのままでは確実に 追い詰められる。なんだってこんな場所に逃げ込んだのか、本当にホラー映画みたいだ。 少しでも障害になるようにと書棚から本を片っ端からばらまきながら、どうしたらいいのかと 頭の中はパニックだ。 今の奴はフラフラだ。この本を床じゃなくて奴に投げつければ隙ができないだろうか。 でもあの執着は半端じゃない。隙を突くより掴まるのが落ちじゃないだろうか。 突然、後ろから轟音がした。振り返ると、天窓の薄明かりの部分で埃が舞い上がっている のが見えた。通った道の書棚が完全に倒れて、薄暗い床に汚れた金髪が書物に埋れて いる。 「……おい、アーダルベルト……?」 この隙に逃げろと思うのに、ぴくりとも動かない伸びた右腕に目が行く。足はそろそろと男 の方に近付いている。 おれが本を乱暴にばらまいたから、書棚のバランスが崩れてあいつに倒れかかってきた のだろう。正しく映画の主人公みたいな強運だ。さあ逃げろ、今のうち。きっとすぐに書棚 の下から這い出そうとするだろう。 そう思ったのに、アーダルベルトはやっぱり動かない。 おれが責任を感じる必要なんてない。書棚が倒れたのは、逃げるために必死に抵抗した 結果だし、それを避けることが出来ないほどボロボロになっているのも、おれがしたことと はいえ、試合中での出来事だ。その後安静にしていなかった奴の責任までおれのせいに されちゃたまらない。 たまらないのに。 「畜生!わざとらしく死んだふりなんかしやがってー!おれのせいじゃないかんなっ!」 結局おれは書棚と書物の山に駆け寄ると、男を助けようと書物をどけ始める。露になった 首筋の白さにぞっとした。 「やめてくれよ、冗談じゃねーよ!おれに前で……おれの前で死ぬなよ……」 もう二度と、あんな気分は味わいたくないのに。 「おいっ」 背中に手を置いて揺さぶってみる。突っ伏したままの顔面から低い呻き声が聞こえた。 「……どうなっ……たんだ……?」 「よかった、生きてたんだ……いやいや、悪運の強い奴だぜ!よせよ、自力では起き上が れないって。誰か呼んできてやるから待ってろ」 書物はどけても書棚は大きすぎて、現在ヘロヘロのおれとボロボロのアーダルベルトでは 力を合わせたところで動かすことはできない。 「待て」 書棚の下敷きでうつ伏せのまま、アーダルベルトがおれの喉に触れた。咄嗟に逃げようと したら、包帯越しにほんのりと温かい何かが流れ込んでくる。 「……すまなかった」 包帯を解いて触ってみると、もうその場所に傷はなかった。 「治して、くれたのか?……ツェリ様でも無理だったのに」 これで兄妹揃ってアーダルベルトに傷を治してもらったことになる。 「この土地で魔力を使うのは難しい。法術なら容易に適うことだ」 「そんな力が残ってるんなら、自分の傷を治せよな!人を呼んでくる!」 「行かなくていい」 靴の踵を掴まれた。 「行けばお前は戻らないだろう?」 「そりゃね」 「行くな、話がしたいんだ」 「あのなあ……」 長い溜息が漏れた。 呆れた。だけど、今の状態ならこいつがおれに何かすることはないし。 むしろ傷を治してもらったわけだけし。 「いいよ、話せよ。ちょっとだけだぞ。すぐに人を呼びに行くからな」 「ああ……それでいい」 床に膝を着いて頬に張り付いていた金髪を払ってやると、何が可笑しかったのかアーダル ベルトは小さく笑う。 「お前は不思議な奴だな。歴代でも稀な力を持つ魔王のくせに、魔族に不利な法術は通用 しない。逆に人間にしか効果がないような単純な力が、治癒の助けになっていたり……」 「それはおれの身体が、人間に近いからじゃないかな」 お袋は人間だし、それどころか魔族としても地球産の身体だ。こちらの世界の法則とは違う こともあるだろう。 「人間?お前は魔族だろう」 「さあ、どうなんだか。魂レベルの話では、魔王になる運命だったらしいけどね」 「それを知りたいんだ」 アーダルベルトはおれに詰め寄るように身体を起こそうとした。だが書棚の下敷きになって いるからできない。 「教えてくれ、お前の魂は……元の魂は、本当にジュリアなのか?」 「ジュリアって、フォンウィンコット卿スザナ・ジュリアのことだよな?だからおれは知らない って。名前だけは聞いたことがあるけど、あんただって自分の前世が誰かなんて知らない んだろう?」 「ではウェラー卿の言っていたことは嘘か」 「だから、嘘かどうかも判らない。おれの魂はこの世界から地球までコンラッドに運ばれた らしいけど、それ以外は何も知らないんだから」 「お前の魂は、ウェラー卿に運ばれたのか……」 アーダルベルトは自由に動く右手で顔を覆った。指の間から泣き出しそうな息が漏れる。 「ああ……ではあれは、真実なんだな……!」 「いや、だから本当かどうかなんておれもわかんないよ。それにもしおれがジュリアさんの リサイクル品だったとしても、リサイクルされたものは、もう新しいまったく別のものだろ? おれは渋谷有利。それ以上でもそれ以下でもないよ。……っておい聞いてる?」 帰ってこない返事に手で覆われている顔を覗き込むが、返事はない。 「ちょっと!まさか死んだりしないよな!?おい、返事しろよ!ああ、畜生!」 「それくらいでは死にませんよ」 弾かれたように顔を上げる。 「コ……コンラッド……」 廊下の明かりを背に、表情が見えないのは扉をぶち破ったときのアーダルベルトと同じ だった。 |
有利の方も、ようやくふたりで言葉を交わせます。 |