気がつけば、闇の中で膝を抱えて座っていた。暗い穴のほとりで、抱えた膝に顔を埋める。 なんだかとても疲れてしまった。 「目覚めるのはつらいか」 いつかに聞いた声が、横の穴の中から聞こえてきた。 「だがここへ来てはいけない。まだ、時ではない」 わたしの前世の人だ。村田くんにその名前を聞いた……。 「さん」 顔を上げて穴を見ると、あの箱の暴走のときに一度だけ見たことのある東洋系の美女が 暗い水面にゆらめいて映っていた。 「さあ、戻りなさい」 「待って、教えてよ!わたしの役目ってなに!?どうしてわたしはこの世界に喚ばれたの? 村田くんも知らないような、一体どんな事情があるの!?時っていつ!?いつになったら この世界に喚ばれた意味をこなせるの!?いつになったら……っ」 いつになったら、コンラッドに必要とされなくても、この世界にいることに意味を持てる? ずっと無表情だった水面の顔が、少しだけ歪んだ。 「……あの子には、何も聞かないで欲しい。あの子は何も知らない。知るのは、時が来た ときでよい。裏があると、思わせたくない」 「自分の息子は大事なの?ねえ、大事なら考えてもみてよ!何も知らされないことほどに 苦しいことはないのよ!」 どうして。 ねえ、どうしてコンラッド。どうして、何も言わずに行っちゃうの? 「全てを知ろうとも変えられぬ運命は、ただ長く苦しみを与えるだけだ」 闇が薄らいだ。 夜明けを迎えるように遠くから少しずつ周りが明るくなってきて、暗い水面は消えてただ 虚ろないつもの穴になる。 「………すまない……」 最後に聞こえた声が、夢のものだったのか、現のものだったのか、ずっと後になって考え てもわからなかった。 082.追いつけない背中 「ごめんなさい、。起きたかしら?」 目覚めたばかりで部屋の抑えられた明かりでも眩しくて、目を細めた視界に金の巻き毛も 麗しいツェリ様がわたしを覗き込んでいた。 「良く眠っているようだったから、このまま寝かせてあげていた方がいいか迷ったのだけど。 目が覚めたのなら、パーティーに行きましょうか?陛下に少しでも早くお会いしたいのなら、 そろそろ準備をしなくてはいけないの。身体がつらいなら、まだ休んでいてもいいのよ」 「……行きます」 柔らかいシーツに手をついて起き上がると、ひと寝入りしたお陰か眩暈はなかった。 「じゃあドレスアップしないと。あたくしのドレスを着ていくといいわ。あたくしは萌葱色でしょ、 フリンは青色でしょ、は白か赤がいいと思うのよ。どちらのドレスがの好み?」 白のドレスはレースが上から下までふんだんに使われていて手首まで届く袖口もひらひら、 そのくせ背中が腰の辺りまで開いている。赤い方のドレスはスカート部分にレースが多く、 上半身はシンプルなラインで袖も二の腕までの長さ。左肩に赤いレースで象った花があし らってあるだけで、背中も肩甲骨の辺りまでしか開いていない。 「……赤でお願いします」 「じゃあ着替えましょう。あちらでフリンも準備中よ」 ベッドから起き出して着替えるべく服を脱ぎ始めると、胸に小さく痛みが走った。 これは比喩じゃなくて、実際に。 「……赤くなってる」 左胸の上に縦に赤く線がぼんやりと走っていて、そこが少し痛むのだ。 「そうだったわ。一体どこでそんな火傷したの?幸いすぐに消えそうだけど、女の子の身体 にそんな跡をつけちゃだめよ」 どこで? どこで火傷なんてしたっけ? 服の焦げるような嫌な匂いとともに、闘技場を思い出した。 そうだ、閉じ込められたベンチから抜け出すとき、熱くなった鉄柵の間を無理やり通ったん だっけ。服は焦げたと思っていたけど、ちょっと火傷もしてたんだ。火傷というには少し赤く なっている程度だけど。 溜息をつきながら服を脱いで、畏れ多くもツェリ様に手を借りてドレスを着る。編み込みに した髪は頭に沿って大きな円を描くようにして止めた。赤い花の大きな髪飾りをつけて鏡 で確認してみると、この姿はどこかで見たような気がする。 そうだ。ヒルドヤード船のときに、ヴォルフラムに見立ててもらった衣装と似てる。 「首飾りと耳飾りはこんなのでどうかしら?」 ツェリ様が持ってきたティアードロップ型のルビーのイヤリングは丁重にお返しする。 「アクセサリーはこれだけでいいです」 コンラッドに買ってもらった琥珀のイヤリングをつけると、ツェリ様はとても良く似合うと嬉し そうに誉めてくれた。 ツェリ様に連れられてフリンと一緒に向かった神殿の大広間は、色とりどりの光で溢れて いて、とてもランプや蝋燭の明かりだけとは思えないような煌びやかな様子だった。 「エスコートしてくれる殿方のいないパーティーなんて初めてだわ」 ツェリ様は肩をすくめて息をついて、周囲をさっと見渡す。 「陛下はまだこられていないようね。ねえ、とフリンは知っていて?シマロン流では ダンスは女性が誘うものだそうよ」 「はあ……」 ダンスどころの気分ではないので気の無い返事を返すと、ツェリ様は振り返ってそっと耳 打ちをしてきた。 「少しは気晴らしをしなくちゃだめよ、」 「……すみません、ありがとうございます」 でもわたし、ダンスなんて有利かコンラッドとしか踊れません。男の人が怖いから。 そのつもりはなかったのだけど溜息が漏れていて、ツェリ様は寂しそうに、困ったように 微笑んだ。 「すみません、あの、ちょっと喉が渇いたので飲み物を……えーと、あっちの壁際で飲ん でます」 「そう?じゃああたくしもファンファンが来るまで何か飲んでいようかしら」 わたしが窓の近くを指差してそう言うと、ツェリ様も一緒に行こうとして後ろから知らない 男の人に声を掛けられた。 「失礼。そこの美しいご婦人。一曲誘っていただけませんか?」 なるほど、誘うときでも「誘って欲しい」というから女性が誘うものなのね。 珍しい誘い文句に苦笑しながらそっとツェリ様の背中を押した。 「行ってください。わたしは大丈夫ですから。大人しく壁際で何か飲んでいます」 「……そお?じゃあフリンと一緒に……あらやだ、フリンともはぐれちゃっているわ」 「ひとりで大丈夫ですから」 今度こそ苦笑じゃない笑みを見せることができて、ツェリ様も少しは納得してくれたのか その茶色の髪の青年と一緒にホールへと出て行った。 心配してくれている、そしてご自身だって辛いツェリ様を困らせてどうするんだろう。 最近溜息の大安売りだけど、また溜息を吐きながら側のテーブルにあったソーダっぽい 飲み物に手を伸ばして……手にとる前に、赤い炭酸飲料っぽいグラスを差し出された。 「どうぞ、お嬢さん」 「あ、ありがとうございます……」 やっぱりシマロン特有の茶色い髪の、知らない男の人だ。 親切を断るのもどうだろうと受け取ったものの、他国では毒味なしで飲み食いするなと 言い聞かせられていたことを思い出す。 かといって、そのままテーブルに戻すわけにもいかないので、グラスを持ったまま壁際 に移動すると、何故か男の人もついてきた。 まずい、ナンパというか、誘いだったのでしょうか。 「おひとりですか?よろしければ一曲誘っていただけないでしょうか?」 「えっと……」 そういえばヒルドヤード船でもこんなことになったんだった。大人しく壁の花でいさせて くれないものかなあ。 髪は染めたものの、目はカラーコンタクトをしてないので、じっくり正面から目を見られ ないように俯いて頭を下げる。 「ごめんなさい、ダンスは苦手で。誰も誘うつもりはないんです」 「おや、苦手と仰るのでしたら私と練習されてみてはいかがです」 しまった、何かもっと別の言い訳をすればよかった。 「さあ、ちょうど踊りやすい曲ですよ」 手袋越しにだけど手を握られて、振り払いそうになったとき耳元を飾っていたイヤリング が弾みで小さく音を立てる。 横から別の手が伸びてきて、男の人の腕を掴んだ。 「失礼、彼女は俺のパートナーです」 聞きたくて、でも今は聞きたくなくて。 それでも会えることを期待していた声が聞こえて、涙が滲んだ。 横を向けなくて誘ってきていた男の人の顔を見てると、最初不愉快そうな表情を見せた その人は、すぐに青褪めて踵を返した。一体どんな目で睨んだのだろう。 コンラッドは。 「お一人でこのような場に、あなたのように可愛らしい方がいるのは無用心だ。ヨザックや ヴォルフラムはどうしたんですか」 まるで有利に話しているときみたいな耳慣れない敬語に、降ろした拳を強く握り締める。 「ど……どうして……」 ここにいるの。声をかけたの。シマロンに行ってしまうの。忘れてなんて言うの。 言いたいことは山ほどあって、どれを言えばいいのか言葉に詰まってしまう。 「声をかけたのはお邪魔でしたか」 「そうじゃない!」 そんなはずはない。 知っているくせに、どうしてそんな意地の悪いことを言うの!? たまらなくなって振り仰ぐと、白を基調とした礼服に身を包んでいたコンラッドが手を差し 出す。表情は、まるで貼り付けたかのような笑顔で。 「そんな大声を上げるから、注目されてしまいました。移動しましょう」 以前なら、ほんの少し前ならこの手をためらいなく取れた。 腕を組んで、甘えるように身体を寄せて。 涙が零れそうになって、唇を噛み締めて俯く。 白い礼服は、あの闘技場で着ていたような軍服よりよっぽどコンラッドに似合っている。 礼服に国境はないし、なにより眞魔国でのコンラッドの正装はこんな風に白い軍服だった から。白はコンラッドにとても似合うから。 「……どうして……?」 俯いたまま呟くと、手にしていた赤い飲み物を取り上げられた。代わりに手渡されたのは、 さっきわたしが取ろうとしていた青い飲み物。 「あちらはアルコール度が高いので、こちらにしておいた方が無難です。男に勧められた 飲み物は、下心を疑うべきですよ」 俯いていたから見ていないけれど、きっとコンラッドは軽く毒味をした。 毒味をしたグラスを渡したんだ。だってグラスの口に少しだけど拭った跡がある。 「どうして……こんなところにいるの?」 こんなことをしてくれるのに。 もう眞魔国を捨てたのなら……わたしを、捨てたのなら。 わたしがどうなっても関係ないはずなのに。 「どうして、と仰られても。俺はこの国の軍人ですから」 「そんな意味じゃない!」 そんな言葉は聞きたくない。 大声でコンラッドの言葉を遮ると、上から溜息が降ってくる。 「……移動しましょう。ほら、あなたが俺を拒絶しているので、他の男があなたを誘おうと こちらを見ている。またあのときのように何人にも囲まれて困りたいんですか?」 「そんな話し方しないで。わたし、有利じゃない。わたしは……っ」 「魔王陛下の妹君。王妹殿下……」 そっと耳元で囁かれて、血の気が引いた。まるで他人行儀に。 顔を上げると、優しくない笑顔でコンラッドはわたしの手を取る。 「本来は、俺から声を掛けられるような身分ではありませんよ、妃殿下」 「違う。だってわたしたち婚約してるもの」 「いいえ、それはもう解消されました」 わたしの手を引いて、会場を移動しながらその背中がわたしを拒絶している。 「俺が国を裏切った時点で、解消されました。俺のことは忘れてくださいとあの場で申し 上げたでしょう」 「嘘。そんなの知らない」 「……ああ、あのときは意識が朦朧としていたんですね。では改めて……」 「忘れるくらいなら憎めって言ってた」 コンラッドの足が止まる。 「憎んで欲しいって言ってた。愛してるって、そう言ってた!」 「聞き違いでしょう」 振り向いたコンラッドの顔には表情がなくて、まるで仮面を貼り付けたかのようだった。 「言ってたよ……愛してるって、聞こえたもん……コンラッドがいないと幸せになんてなれ ないよ……。好きなの……好きなの、コンラッド…一緒に帰ろう。お願い、一緒に帰ろう」 「……俺は……国を捨てました」 「じゃあせめて理由を聞かせて。納得できるかどうかはわからない。でも理由を教えて。 もしどうしても、理由も言えないのなら、一言、こう言って」 コンラッドの腕を掴んで、低いヒールを床から上げて身を乗り出して縋りつく。 「『俺を待っていて』」 コンラッドの身体が小さく揺れた。 動揺したと思っていい? 心が揺れたと思っていい? ……そう言いたいと感じたのだと、思って、いい? 「お願い、その一言でいいの。ずっと待ってる。コンラッドが帰ってくるのを待ってる。 あなたが側に帰ってくるのを、ずっと待ってる!」 コンラッドは目を閉じた。銀の光彩が散ったその瞳を隠して、眉間に僅かにしわを寄せて、 ゆっくりと首を振る。 「俺は、国を捨てたんです。二度と戻らない」 「………っ……それでも……わたし、あなたを……」 視線を避けるように顔を背けたコンラッドは、腕を掴むわたしの手を急に解いた。 それから会場を見回して、わたしの背中を押して方向転換させる。 「あそこにヴォルフがいます。見えますね?あちらに行ってください。絶対にひとりになら ないで。いいですね?」 「待って、まだ話は終わってないよっ」 慌てて追いすがって袖を掴もうとしたら、振り払うように避けられた。 「終わりました。もう、終わったんです」 涙が溢れてくる。 終わってなんかない。 だってコンラッドは、何ひとつ教えてくれないじゃない。 何ひとつ、言ってくれないじゃない。 「行かないで」 聞こえていないはずはないのに、コンラッドは振り返らずに行ってしまう。その背中を、 わたしを拒絶する背中を、それでも追いかけずにはいられない。 人込みをすり抜けていくコンラッドの行く先は、広間から出る大扉の方だった。 わたしが扉を見た、ちょうどそのとき、有利が小走りに広間から出て行く姿が見えた。 ……有利を、追ったんだ……コンラッドは。 足が震えて、血の気が引いて、涙が溢れて。 でも。 萎えそうになる足でもう一度コンラッドと話をするために、床を蹴ってわたしを拒絶した、 その背中を追いかけた。 |
何も納得できないままなのに、コンラッドは有利の方へ行ってしまいましたが……。 |