最後に見たのは、白と黄色の服だったはずなのに。 雪と外気で冷えた、だけど確かに人の肌を布越しに感じていたのに。 目が覚めると真っ白な天井が見えて、温かいけれどシーツの感覚しかなかった。 「あ……」 傍らから小さく呟く女の人の声が聞こえる。 「目が覚めたかしら?奥方様は大丈夫だろうと仰られていたけれど、気分が悪いという ことはない?」 側にいたのは、心配そうな表情をしたフリン・ギルビットだった。 080.優しさという名の免罪符(1) ベッドの横の椅子に座っていたフリンに目を向ける。 夢だったのだろうか。 どこからどこまでが? だって、コンラッドが眞魔国を捨てるはずがない。俺を忘れてだなんて、言うはずが。 何も答えずぼんやりと見返すだけのわたしに不安になったのか、フリンは椅子から腰を 浮かして後ろを顧みた。 「奥方様をお呼びして……」 捻った首が目に入る。 白く細い首に、赤い線が走っている。まるで細い糸のようなもので首を締められたかの ような……。 「コンラッドは!?」 飛び起きたわたしに、フリンがどんな反応をしたのかは見ていなかった。 急に動いたせいで眩暈がして、額を抑えていたから。 夢じゃなかった。 ランベールに到着して、天下一武闘会の決勝があって―――コンラッドが、いた。 「コンラッドは?それに、有利は!?有利は無事なの!?」 「お、落ち着いて」 「二人とも無事よ」 フリンではない女性の声に顔を上げると、ドアを開けて立っていたのはツェリ様だった。 萌葱色のドレスを優雅にさばいてベッドまで歩み寄ると、枕元に腰掛けてわたしの肩に 手を置く。 「陛下はご無事で、今はヴォルフラムたちとご一緒にシマロン王に願いを申し出に行って らっしゃるわ」 有利は無事だと、確かにコンラッドも言っていた。 でも大掛かりな魔術を使った後なのに、休まないで大丈夫なんだろうか。 「……コンラッドは……」 母親であるツェリ様に尋ねるのには勇気が必要だった。 だって。 だってもし、気を失う前の最後の記憶が正しいのなら、コンラッドは。 ツェリ様は細く形のいい眉を潜めて、そっと首を振る。 「あなたをヴォルフに預けると、行ってしまったわ」 やっぱりそうなんだ。 一緒に帰れないと言ったことも。 忘れてくれと言ったことも。 やっぱり本当なんだ。 そして。 「生き……てた……」 そして、生きてまた会えたことも、本当だった。 嬉しいのか、寂しいのか、悲しいのか、自分でもわからない。どれも本当だから。 生きていてくれて、無事でいてくれて、嬉しい。 今そばにいてくれないのが寂しい。 別れを告げられたことが悲しい。 そのすべてが心の中で渦巻いて、コンラッドに会うまではもう泣かないと決めていた涙が 零れた。 あの雪の中で、泣いたように。 「……」 「生きて……ツェリさ…ま、コンラッド……生きてた………っ」 わたしが喜んで泣いているのか、悲しんで泣いているか、ツェリ様は困惑したような表情 で、肩に置いていた手に力を入れて抱き寄せてくれる。 「そばに……いなっ……けど……生きてる……っ!」 温かく柔らかな胸に縋り付いて、その鼓動を聞きながらボロボロと泣き崩れてしまった。 しゃくりあげながらも、どうにか泣き止んだわたしの目の前に、温かそうな湯気を立てた カップが差し出された。 いつの間に部屋を出て、そして帰って来ていたのか、フリンが紅茶を淹れて持ってきて くれたのだ。 「あら、ごめんなさい。シュバリエはパカスコスたちと行ってしまったんだったわ」 「いいえ、奥方様。私にはこれくらいしか……さ、温まるわ、飲んで」 目を擦りながらツェリ様の胸から起き上がって、カップを受け取るために手を伸ばすと、 肩から布が滑り落ちた。カーディガンだ。 肩が寒くて初めて気がつく。 わたし、下着姿だ。 「え、これ!?」 「あなたの服は雪で濡れてしまっていたの。急遽あたくしの服に着替えさせたのだけど、 ダメよ。女の子の胸をあんなにきつく縛って潰しちゃ。形が崩れちゃうわ」 「あの、奥方様……テンカブは女人禁制ですから……」 「そうだったわ。そんなにしてまで陛下のお側にいたかったのね」 なるほど、ツェリ様のスリップドレスですか。どおりで肌が透けて見える……。 シーツに落ちたカーディガンを拾って肩にかけ直すと、今度こそカップを渡される。 「すみません……ツェリ様……」 ツェリ様もフリンからカップを受け取りながら、驚いたように目を瞬いた。 「何がかしら?」 「……ツェリ様だって、つらいのに……」 どうしてかわからないけれど、コンラッドが大シマロンに行ってしまって、母親のツェリ様 だってつらいのに、一人で泣いてしまった。 「いいのよ、」 カップを持たない左手でわたしの頬を撫でて微笑むツェリ様のエメラルドの瞳に、優しさ と悲しさが交じり合った色が映っている。 「……あたくしにはあの子に何があったのか、まだわからないわ。だけど、きっと これには理由があるのよ。親の欲目だと、身勝手なことを言うと思うでしょうけれど…」 「信じてます」 説得されなくても、訴えられなくてもわたしは。 「信じてます、コンラッドのこと。……ううん、疑えません」 あの雪の中での記憶は曖昧で、どこからどこまでが本当かわからない。 ……目を閉じてから聞こえた声は、ただの願望で、コンラッドはあんなこと一言も言って なかったかもしれないけれど。 きっと、本当だと、信じたい。 「だってコンラッドは本当に眞魔国のことが大好きでした。十六歳になったときに、魔族と して生きることを決めたと、迷いのない目で話してくれました。コンラッドは、有利のことを 大切に思っています。いつも有利が無事でいるように、有利のことを考えて、有利のため を思って行動していました」 「そしてあなたのことも、愛しく思っているわ」 わたしもそう、思っていた。 だけどそれには、今はもう自信がなくて言えなかったのに、ツェリ様はわたしの目をじっと 見詰めて繰り返す。 「コンラートはあなたをこの上なく愛しているわ。母親のあたくしの言うことが信じられない のなら、愛の狩人としてのあたくしの経験と言葉を信じて。あの子はのことを、誰 よりも慈しんで大切にしている。これだけは絶対なの」 「ツェリ様……」 「これを」 カップを持たない左手に、ツェリ様が何かを渡してくれる。 掌で小さく金属の擦りあう音が聞こえた。 返してもらったものは。 「袋は濡れていたから、乾かしているの。初めは、あなたがつけるには地味な色じゃない かしらと思ったのだけど……」 返してもらったそれを握り締めて、ぎゅっと拳を胸に抱き寄せる。 「あの子の瞳の色ね?」 コンラッドの瞳に似た色をした、コンラッドに買ってもらったイヤリングだった。 「一体国で何があったのか……話せる?」 ツェリ様が気遣わしげに覗き込んでくる。 「大体の話はバカスコスから聞いたのだけど、箱が二つ見つかったのだとか。そのうちの 一つがこの大シマロンにあると」 「……ダカスコスです、ツェリ様。ダカスコスさん。……大丈夫、話せます」 間違えて覚えてるらしい名前を訂正したけれど、たぶん覚え直してはくれないと思う。 今からする話の方に、わたしもツェリ様も集中することになるだろうから。 「……有利とわたしがこの国に呼ばれたとき、既に緊張状態に入っていました。コンラッド は、人間の国に不穏な動きがあるから、事が終わるまで有利とわたしには安全な地球に いて欲しいと、すぐに送り返そうとしたんです」 「陛下とには安全なところにいて欲しいのに呼んだの?」 「いいえ、正しくは呼ばれていないんです。少なくとも、コンラッドたち眞魔国の人は呼んで いないと、そう言っていました。予想外のことで、だからより混乱していたようです」 「他国の不穏な動きと言うのは、箱のことね?」 「はい。箱が人間の国の手に落ちたという情報があると……それがシマロンのことだった んだろうと思います。大シマロンと小シマロンとどちらのことを言っていたのかはわかりま せんけれど」 側でフリンが聞いていることが少し気になったものの、構わず続けることにする。 どうせ呼ばれたとか帰るとか地球とか、異世界の話なんてわかんないだろうし。 それに、たぶん彼女はもう、有利を裏切らない。 「わたしは血盟城に着いて、もうすぐ有利もこちらに到着するからという話で、コンラッドと ギュンターさんとグレタと一緒に有利を迎えに街に出たんです。予測されていたところに 有利はちゃんと辿り付いていて、無事に保護することができました。眞王廟に行く時間は ないので、そのまま街の教会から送るという話でした。ですが、その教会に行く道の途中 で、ギュンターさんが弓に射られたんです」 「ギュンターが?」 少し離れて座っていたフリンがわずかに震える。 弓と聞いて、心当たりがあったのだろう。彼女は大シマロンから鍵なる人物を手に入れた という情報を受け取っている。つまり、その弓に塗られていた毒が。 「……ギュンターさんを残したままわたしたちは駆け抜けて、教会に着きました。コンラッド が言うには、一時的仮死状態になっているから大丈夫だと」 「ああ、ギュンターのあれね。彼はああ見えても色々と特技が多いのよ」 特技……なの? とにかく、どうやらギュンターさんが仮死状態になれるのは、周知の事実らしい。 ギュンターさんが無事に復帰したことは、サイズモアさんが教えてくれたけれど。 「コンラッドは有利とわたしを地球に送り返そうとしました。だけど、教会に賊が押し入って きて戦闘に……わたしは、コンラッドの助けになればと思って魔術を使おうと……」 どくどくと嫌な鼓動が胸を叩く。 床に落ちた腕。 何かを掴むような自然な角度で曲がったままだった指。 まるで精巧に出来た義手のように、血が零れていない斬り口。 ……焼け焦げた、腕。 「、無理なことは言わなくてもいいわ」 ツェリ様が気遣うように背中を撫でてくれて、わたしは唇を噛み締めて首を振る。 「魔術を使おうとして、失敗したんです。そのわたしを庇って……コンラッドの左腕が…… 斬り落とされました」 「コンラートの腕が!?けれど、さっきのあの子には確かに両手が揃っていたわよ?」 「ですが奥方様」 フリンが恐る恐ると、わたしとツェリ様を等分に見ながら口を挟んだ。 「その時のご子息の腕と思われるものは、我がカロリアでお預かりしております。その子 が言うように、大佐も、それにもう一人のご子息も、確かに彼の腕だろうと」 「どうしてあなたの国に?」 「ツェリ様」 これをツェリ様にわたしが告げていいことなのかどうか、わからない。 だけど、起こったことを話すのなら避けては通れない。 「ツェリ様……コンラッドの左腕は、箱を解放する鍵だと……国に保管されていたはずの コンラッドの腕を盗んだ、小シマロンの男がそう言っていました」 美しいエメラルドの瞳が驚愕に見開かれた。 |
ツェリ様と一緒に状況と情報の確認を。 『鍵』の話は、母親にはつらいことでしょう。 |