ここのところは確かに、おれを導いてくれるあの女の人の声は聞こえなくなっていた。

だがここまで苦しかったことはない。

鼓動と同じタイミングで襲ってくる頭痛、鼻の奥に広がる鉄錆の臭い。針でも刺されたよう

に目頭が痛み、大音響の耳鳴りが終わらない。誰かが喋っている言葉が、意味もとれず

に延々と続いた。耳から聞こえてくるのではなく、脳味噌に直接ヘッドフォンを当てられて

いるみたいに。

「……や……渋谷……渋谷っ!」

今聞こえた声の言葉は、はっきりと意味がわかった。おれを呼んでいる。

濡れた後に乾いたとわかる、貼り付いて開けにくい瞼をようやく僅かに押し上げると、金色

の髪と翠色の瞳が見えた。

「こうなったら」

ぼんやりと視界に映ったのは、金属バットもどきをおれに目掛けて振り上げたヴォルフラム

の姿だった。

「待てっ!よせ、やめろっ!殺す気かよ!?」

起き上がって止めようとしたら、吐き気と眩暈に襲われてまた地面にダウンした。






079.遠い存在(1)






地面にダウンしたおれだが、頭の下は明らかに地面じゃなかった。

誰かの膝枕だ。かと思ったけど、この弾力と張り詰めた肉の感じは、絶対に違う。

「陛下、こんなことしかできませんが」

やっぱり、ヨザックだったか。

「渋谷、ほら水を」

「ごぶっ」

口の中に雪玉を押し込まれた。村田だ。乱暴すぎるぞお前ら、と文句を言おうとして、村田

の肩にもたれかかって目を閉じているに気がついた。

「んふぉん!?」

それでも、やっぱり起き上がれない。

無理やり噛み砕いて飲み込もうとした雪玉が気管に入って激しくむせる。……眩暈が酷く

なった。

は眠っているだけだ。力と……精神力を使い切ったんだろう」

どこかでこんなことがあったな、と思ったがなんてことはない。小シマロンのスタジアムだ。

あのときも、『地の果て』の暴走を抑えたは力を使い果たして眠っていた。

深刻な顔をしている村田がいて、がもたれて眠っていて、ヨザックはおれに膝枕をして

いて、ヴォルフラムはさっき振り上げた金属バットもどきを支えに腰の負担を減らすように

して立っている。

でも、いるべきもう一人が、どこにもいない。

「コンラッドが」

目が合ったのに、ヴォルフラムはすっと逸らした。

「ヴォルフ、コンラッドが…いたよな、確かに。似合わない服着てさ……なあ、どこ行った

んだろう?」

「少しは自分の心配をしろよ!」

村田が眉を吊り上げた。ここまではっきりと怒りを見せることは珍しくて、それ以上、何も

言えなくなる。

「君はあそこから落ちたんだぞ!?が雪をかき集めて下にマットを作らなければ……

いや、それでもウェラー卿がクッションになってくれなければ、受身も取れずに落ちていた

んだ。どんな怪我をしていたか、わからなかったんだぞ!?」

、が……?」

村田の肩にもたれて眠るは、頭からぐっしょりと濡れていた。全身が濡れているのに、

不思議なことに肩にかけている上着と外套は濡れていない。

視線をその後ろに向けると、もうほとんど崩されていたけれど、壁に残った跡を見る限り、

せり上がった闘技場の三分の一強くらいの高さまで雪が積み上がっていたらしい。

「あんなに……」

「それに、僕等を閉じ込めたあの鉄格子を簡単に曲げられるくらいまでの高熱にも熱した。

途中で止めなければ、鉄を溶かしたかもしれない。わかるか渋谷、それもこれも、みんな

君のためだ。危険なことをする君を助けるためにしたことだ!わかっているのか!?君は

自分と、妹の命すら危険にさらしたんだぞ!?人間の土地で魔術を使うことが、どれほど

危険なのか、どれだけ言い聞かせたと思っているんだ!」

「ご、ごめん……」

反論の余地無しで弱々しく謝ると、村田は溜息をついてようやく怒気を鎮めた。

さすがに、の命まで危険だったと言われると反省する。守ると決めているを危険な

目に遭わせてどうするんだよ。

「アーダルベルトは……?」

「生きてますよ、まったくしぶとくてヤんなっちゃう」

ヨザックは心底残念そうだった。

「……まー……一回、の怪我も治してもらったしね」

カロリアで、が嘘の身分で騙した時だ。あのときアーダルベルトは、の傷を治した

上に結構な金額を施ししてくれたんだった。その辺りの事情を知らないヨザックは、意外

そうな顔をする。

「いっ……つ……」

どうにか起き上がると、首に激痛が走った。恐る恐ると喉に触ってみると、指先を固まり

かけた黒っぽい血が塗らす。アーダルベルトにホールドされたときに突きつけられた剣

で切ったところだ。

「う……わー……よく助かったなあ、おれ」

幸い深くはないが、動けばすぐに傷が開くだろう。

「渋谷」

ギロリと村田に睨まれた。

わ、わかってます。こうしておれが無事なのはとコンラッドのお陰。

「傷を見せろ」

ヴォルフラムがやけにギクシャクした動きでおれの横にしゃがみ込んだ。腰が相当痛む

に違いない。ぎっくり腰とか癖になるらしいから、持病になったらどうしよう。

「……グリエ、針と糸を持っているか」

「持ってますよ。より美しく着こなすために、服の採寸直しは必須ですからね。なんなら

オレが縫いましょうか?」

「縫うの!?麻酔もなしで!?」

「動くな」

目で村田に助けを求めるが、自業自得と一蹴された。

「仕方がないね。みんな必死で止めたのに、意地張って戦い続けたのは渋谷だし」

は……だめだ、はまだ眠っている。なら、絶対止めてくれるのに。

助けになるものを探して辺りを見回したおれの目に、こちらに小走りで向かってくる白衣

の二人組が見えた。俯き加減で髪をきっちりと帽子で覆っているから顔は見えないが、

あの姿は間違いない。医者だ。

「ああホラ、救護班が来てくれたよ!どうせならプロの治療を受けるから勘弁してくれ!」

ヴォルフの手から逃れようと後ろに下がったら、背中がヨザックの逞しい胸に当たった。

「ごめんなさい、お待たせしてしまったかしら。あぁ陛下、なんて痛々しいお姿!」

「は……?」

聞き覚えのありすぎる色っぽい声の白衣の天使がおれの前で膝をついた。

襟を大きくはだけて、はっきりくっきり繰り広げられる胸の谷間に、慌てて鼻を押さえる。

「フェリふぁま!?」

「母上!?闘技場は女人禁制ですよ。いったいどうやってこんなところまで……」

「だめよヴォルフ、静かにね。ちょっと救護班の衣装を拝借しただけよ。あぁこちらが噂の

猊下ね?聞いたとおり髪も瞳も黒ではないけれど……でもとっても可愛らしい方!」

美しい愛の狩人は両手で村田の手を取って、その胸に挟…もとい押し付けるようにして

一度抱き締めた。

「正式なご挨拶をのちほどさせていただきますわ。今は陛下のお加減を見なくては」

「もちろんです、上王陛下」

いつもどおり「ツェリって呼んで」と続けてから、村田の肩にもたれるも覗き込んだ。

「……は魔力を使い切って眠っているだけね。それにしても、なんて可愛い寝顔

なのかしら。愛らしさではあたくしも、どうやってもには敵わないのよね。こんなに

濡れても、いえ濡れているから、いっそう痛々しくもあどけなく……」

愛らしさでは敵わないとは、美しさとはまた別という意味だろう。ええ、もちろんですとも

ツェリ様。この溢れ出る色気は、にはまったくない。

ツェリ様はの両頬を掌で拭ってから、すぐにおれの首の傷の治療にかかった。

「……大丈夫、この程度の深さの傷なら、無理に縫わなくてもよくってよ。けれどごめん

なさい、平凡な魔力しか持たないあたくしには、この法力に従う要素に満ちている場で

は満足な治療は施せませんの。組織を繋げるくらいで精一杯。少し痛むでしょうけれど、

軽くでも傷口を塞いでおけば動くのも楽になるわ」

「だ、大丈夫だからやっちゃってください」

白魚のような細くて綺麗な指がおれの喉にかざされると、傷の上の皮膚が引っ張られる

感覚が襲ってきた。傷口の上が動くのだから、刺激されて痛い。

誰かが手を握ってくれて、まずいと思うのに苦痛に耐える縁にしてしまう。

その細い手は、ヴォルフのものではなかった。

「……フリン?」

小さな呟きの返事は言葉ではなく、握る力を込めることで返ってきた。

「さあ、あとは布で覆っておきましょう。あたくしの愛は充分に注いだつもりですけれど、

この場所では応急処置が限度だわ。傷口が開いたら大変だから、あまり激しい運動は

お薦めできないわ……あら、激しい運動ってなんだか思わせぶりね」

「ツ、ツェリ様?」

「それから」

さっきまでおれの喉にかざしていた白くて細い掌が、おれの両頬を包んだ。思わせぶり

な笑顔は消えて、何かに耐えるよなエメラルドグリーンの瞳がおれを覗き込む。

「コンラートのしたこと、許して頂戴。息子に成り代わって謝るわ」

「ツェリ様が謝ることじゃ……」

「いいえ、すべての発端はあたくしにあるの。あたくしの無知があの子をどれだけ辛い

目に遭わせたことか。でも陛下、これだけはどうか信じてあげて。あの子の行動には、

何か理由があるのよ」

真摯な視線も冷静で押さえるような口調も、平素とはまるで違う。これが、この恋多き

女性の母親の顔なのか。愛の狩人なんて名乗って自由恋愛旅行に出ている、だけど

確かにコンラッドたち三人の母親の顔なんだ。

なおも言い募ろうとするツェリ様に、おれは首を振った。

一瞬だけ悲しげに眉を寄せたツェリ様に、どうにか笑みを作ってみせる。引き攣ったの

は首とか全身の節々の痛みのせいです、ツェリ様。

「やっぱりツェリ様が謝ることじゃない。コンラッドにはきっと何か、何か絶対に事情が

あるんだ。おれもそう思う。コンラッドがおれを……を、裏切るはずがない。さっき

だって……覚えてないけど、おれを助けてくれたわけだし」

悲しげに曇りかけていた表情が一転して明るくなる。

「陛下」

「信じてる……いや、疑いようがない。だってコンラッドなのに」

そして今度こそ、引き攣ったわけじゃなくて苦笑した。

「今はまた、姿がみえないけどね」

「でも生きてる」

ぽつりとヴォルフラムが呟いた。どれだけ意地を張って嫌いなポーズを取っていても、

それは相手も無事健在で、側にいるからこその照れ隠しだ。甘えと言い換えてもいい

のかもしれない。

だからこそ、コンラッドに対する思ったとおりの気持ちをヴォルフが口にするのは珍し

かった。

「これ以上の朗報はない」

「そうなんだよな……」

鼻の奥がつんと痛くなった。




感動の対話は、イライラとした声に邪魔をされた。

「もういいだろう救護班。カロリア代表は、速やかに移動するように。これから殿下の

お目通りがある」

ずっとこちらを窺っていたのだろう審判の一人だ。

「お目通り?ヘロヘロなのに面倒だなあ。ヴォルフ、代表で行っといてよ」

「無礼なことを申すな!畏れ多くも殿下より杯を賜り、直々に願いを申し上げる機会を

いただけるのだぞ!」

「そんなの目安箱に入れとくから……待てよ!?願いが叶うって、おれ勝ったの!?

アメフトマッチョにおれが!?」

「今まで気付かなかったのか」

村田とヴォルフラムは呆れ顔だ。

これは大変だと地面に手をついて、立つ準備をする。そうしなければ動けないくらいに、

身体が疲れ切っているのだ。

「……しょっと……」

年寄りくさい掛け声で立ち上がったおれと村田の間に、ツェリ様が手を差し出した。

「猊下、はあたくしが預かりますわ」

「で、でも……」

「今から謁見ですのよ、陛下。眠ったままのを連れては行けませんわ。どこかで

引き離されるなら、あたくしに預けてくださった方がずっと安心できるでしょう?」

まったくだ。ここは人間の土地で、おれたちはシマロン側にとって予定外の勝者だ。

危害そのものを加えるつもりじゃなくても、引き離されたがなにかの拍子で双黒だ

とか女だとか、バレないとも限らない。

村田の手からツェリ様の胸に移動したは、それでもまだ昏々と眠り続けて、起きる

気配は微塵もなかった。

「奥方様、彼女は私が運びます」

フリンがを覗き込んで、それからツェリ様を見上げる。

「彼女には、命を助けてもらいました。こんなことくらいでは恩返しにもなりませんが」

「……そぉ?じゃあ、あたくしは救急キッドを運ぶわね。でもその前に」

恩返しとかは、本人の気の済むようにするのが一番だ。

承諾したツェリ様はを片手で抱き寄せ、悪戯っぽい笑みを見せて片手でフリンを

おれの前に押し出した。

急に押されたフリンは驚いて目を見開いて、すぐに俯いて硬い声で一言だけ戸惑い

ながら口にする。

「……おめでとう」

「うん。あーいや何いってんの。これは一応、あんたの旦那の勝利なんだからさ」

何か返事を間違えたのか、いっそう俯いてしまう。何だ、何が駄目だっんだ。

「複雑だねー、乙女心は」

訳知り顔の村田に問いたい。

お前だって、彼女いない暦十六年だろうが!







いよいよ優勝の賞品……願いを叶えて貰いに行きます。



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