「……っ!……から………止めるんだっ、!」

肩を揺さぶられて、意識がぐんと引き上げられた。

真っ暗な闇から、真っ白な雪へ、目が痛くなるほどの視界の変化に、身体中を苛む痛みと

ともに、前につんのめって倒れかける。

!」

「う……っ」

後ろからヴォルフラムが肩を抱えるようにして、階段に顔面を強打することは防いでくれた

けれど、頭が割れそうに痛くて、まともに目を開けることも出来ない。

魔力を使えたのかどうかすらわからない、それもたった一瞬のことのはずなのに。

「無茶をするからだ!くそっ、を止めても渋谷はそのままか。グリエさん、熱いうちに穴を

広げてっ」

「簡単に仰いますねぇ。曲がるくらい熱した鉄なんて素手じゃ触れないし、かといって道具を

使うと……よっ……っと!なかなか思う通りに曲がってくれないもんでして」

「泣き言は後だ!ほら、そんなこと言いながら、あとちょっと!」

「ゆ……り……」

ガンガンと後頭部を殴られているような痛みと、肩を掴んで揺さぶられているような眩暈で、

込み上げる吐き気にえづきながら日が落ちて真っ黒になった空を見上げる。上空にまるで

意思を持つように渦巻いていた白い雪は、空に次々と模様を描き、最後にバケツのような

形状で固まる。

そのまま急降下して、有利を押さえ込んでいた男の後頭部に直撃した。

「ごぐ」

痛そうな鈍い音と、潰れたような鈍い声が聞こえた。






078.逸らした瞳(2)






衝撃で緩んだのだろう腕から、有利が身を沈めて拘束から抜け出した。そのまま地面を

転がって距離を取る。

「ゆー……り……早く、降参……し」

「なぜだ、。いつもの上様形態になったからには、ユーリの勝ちは確定だ。確かに

傍迷惑な魔術ではあるが、しばらく物陰でじっとしてやり過ごせば問題ない。倒れた後の

疲労困憊ぶりは不安だが、その症状ともどうにか折り合いをつけつつあるだろう」

わたしを支えながら後ろで呟いたヴォルフラムに、鉄格子に掴みかかったまま村田くんは

何度も首を振る。

「そうじゃない!これまでとは違うんだ!渋谷、危険すぎる、早く気づけーっ!」

「どこか違うか?」

ヴォルフラムがわたしと一緒に闘技場を見上げる。

対戦相手に一撃を喰らわせた雪の塊は、今度は人型を取りつつある。形はまだ随分曖昧

だけど……力士?

「とにかく違うんだ。魔力の質や条件が異なるんだよ……まず、彼はもう随分長い間地球

に戻っていない。これまでもそういうことはあったかもしれないけど、戻らないまま何度も

魔力を使い続けてはいないはずだ」

ギルビット邸、小シマロンのスタジアム、大シマロンの神族の子達の収容所、そして今回。

確かに、こんなに何回も、おまけに立て続けに大掛かりな魔術を使ったことはないと思う。

「それから、君も見たろう?船でまるで渋谷らしくないことを言ってたじゃないか……僕は

あれが不安なんだ。何か止めようのないことが、渋谷の中で起きてなければいいんだが」

そう。ヴォルフラムの言うように上様形態のときの有利は、まるで別人のような話し方を

するけれど、あのとき、村田くんを罵ってヴォルフラムに止められたとき有利は有利のまま

だった。

「それに……僕がいる。最も危険だ」

深刻な表情で村田くんが見つめる先を見てみると、ヨザックさんが鉄格子を斧の柄に力を

込めて、押し開けるように曲げていた。

……曲げて?

「僕は彼の力を増幅させる。倍にも、下手をすれば数倍にも。恐らく魔力の質さえ変える

だろう。より攻撃的に、破壊的になる……かもしれない。破壊するために作られた関係だ

からね。熟練の術者なら自力でコントロールすることもできるだろうけれど、と一緒だ。

まだ魔力に目覚めて間がない渋谷には、制御するのは難しいんだ」

ヴォルフラムは不愉快そうな顔をして、ヨザックさんと一緒になって鉄格子を広げにかかる。

「フォンビーレフェルト卿、腰は」

「腰はどうでもいい!ユーリの近くに行けば。あいつの暴走を制御する助けになるのか?」

「確かではないけど、まあ多少は」

「よしグリエ、急げ!」

「急いでますよ」

ヨザックさんの呼吸と共に鉄格子が曲がった。どんな力をしてるんですか。

その間にも、有利のいつものあの口上が続いている。

「国内に無駄な混乱を起こし、余の権力失墜を望む謀反者めが!フォングランツ、同族と

いえど造反、出奔は大罪。この際、血を流すことも厭わぬ。やぬを得ぬ、おぬしを斬る!」

「血を流すことも厭わぬ……?」

いつもなら、血を流すことは本意ではないが、なのに。権力に対する執着を見せるような

セリフといい、やっぱりいつもと違う。

どうしたらいいのかもわからずに、でも不安でいても立ってもいられずに周囲を見回すと、

グラウンドで取り残されていたコンラッドが、いつの間にか闘技場の壁に短剣と長剣を突き

立ててロッククライミングを始めていた。

「コンラッド……っ」

まだ低い位置にいるうちはいいけれど、登れば登るほど、もしも落ちたときは命に関わる。

「成敗っ!」

空中にあった雪像が、急降下してフォングランツ・アーダルベルトの上に襲い掛かった。

もう、どちらをより心配すればいいのか、混乱しながら分厚い外套と上着を脱ぎ捨てた。

!?何を……」

「ヴォルフラム、ヨザックさんどいてっ」

側に行ったからって、村田くんみたいに魔力のコントロールの助けになれるというわけで

もないけど、こんなベンチでぐずぐずしてられない。

ヴォルフラムとヨザックさんの間に無理やり割り込んで、鉄格子の間に身体を捻じ込んだ。

どれほど熱くなっていたのか、服が焦げる嫌な匂いがした。

「姫っ、危険ですっ」

「素肌を……つけなきゃ、大丈夫っ」

つけていたウィッグが焦げると嫌な匂いは倍増したけれど、二人掛かりで広げられていた

鉄格子にはそれほど接触することなく潜り抜けることができた。

「あっ、!待って、一人で行くなっ」

「有利ーっ!コンラッドーっ!」

痛む身体ともつれる足でグラウンドを駆け出すと、上空の闘技場で有利の雪像がアーダ

ルベルトさんの剣で真っ二つにされる。

「なに!?」

有利もわたしも、後ろでヴォルフラムたちも驚いていた。あの状態の有利の成敗を凌いだ

人は初めて見た。

「人間の土地で、その上隣に神殿まである環境で、これだけ大掛かりな術が使えるたあ、

大したもんだ。さすがは王のなるべく生まれた魂、並みの魔族とは違うってとこか」

そう言って構えた剣は、赤く染まっている。

「だが、あまり調子に乗るなよ。相手が必ず無抵抗で、お前の足下に跪くとは限らんぞ。

忘れたのか?オレは魔族としての自分を捨てた。地位も身分も名も……魔力もな。だが、

代わりに得たものも多くある。人間の使う法術もそのひとつだ」

グラウンドを走りながら、降ってくる雪に当たるほど少しずつ頭痛が治まってきた。わたし

は強く法術に影響されることがないはずなので、雪の無属性というより、きっとその冷たさ

がよかったんじゃないかと思うんだけど。

「余に逆らうか。よかろう、フォングランツ・アーダルベルト。おぬしとその血族はたった今、

余の粛清目録頂点に記された。第二十七代魔王の名において、グランツ家の末裔まで

排除を宣言する」

「待て!親族は関係ないだろうがっ」

「王に仇なす一族など、余の治世には邪魔なばかりだ!」

どうしよう。やっぱり有利がいつもと違う。今までも驚くほど強大な魔力を操りながら、でも

そんな冷酷なことは言わなかった。

コンラッドがもう闘技場の頂点近くまで上っていて、そんな危ないことはやめてと叫びたい

のに、同時にどうか有利を止めてと懇願したい。

有利もコンラッドも大切なの。危険なことなんてしてほしくない。

どうしてわたしは、こんなところから見ているだけなの?

どうして祈ることしかできないの!?

有利の操る雪とアーダルベルトさんの指から放たれた青い炎がぶつかり合う。

雪と炎では有利に分が悪く、だけど結晶には事欠かないので押されるということもない。

有利が右手を上げると、吹雪は一度うねりを上げて氷を含む風の刃となった。

鋭い風刃が、対戦相手に襲い掛かり、赤い血飛沫が上がる。

「やめて有利、もうやめて!闘わないでっ!どうしてさっきその武器を振り下ろさなかった

のか、思い出して!有利、お願い殺さないでっ!」

有利の手で誰かを殺さなくてはならないくらいなら、どうか勝負に負けて。正気に戻れば

有利が傷付く。有利が苦しむ。

もつれる足がもどかしい。側に行きたい。わたしがあそこに割って入れば、きっとカロリア

は反則負けになるだろう。そしたらあの闘いは終わるのに。

有利は氷混じりの風刃を頭上に掲げ、相手は赤く染まった剣を構えた。

あの距離なら、すぐに斬りつけることができる。……お互いに。

「有利、お願い、負けを宣言してっ!」

有利が誰かを傷つけるのも傷つけられるのも……殺すのも殺されるのもいやだ。

「やめろアーダルベルト!」

コンラッドがとうとう頂上に着いた。

肘をついて上半身を引き上げながら、でもコンラッドの制止はもう遅かった。

有利が指を鳴らし風刃は唸りを上げ、そして赤く染まった剣先が有利を―――。

「ユーリの魂はジュリアのものだ!」

「なに!?」

切っ先は、有利の首を掠めてギリギリで左に逸れた。

つんのめって前のめりになった相手の上に、容赦ない豪雪が雪崩れ落ちる。

数秒の静寂のあと、割れんばかりの歓声が湧きあがった。勝負が決まったのだ。

でも有利は?フォングランツ・アーダルベルトの命は?

そして。

有利はコンラッドを振り返る。そのままふらりと身体が揺れて。

有利が闘技場から、あの高さから、落ちた。





「ゆ……っ」

「ユーリっ!」

一瞬の出来事だった。

コンラッドが手を伸ばし、わずかに届かないまま落ちかけた有利を掴んだ。

自分も、闘技場から手を離して。

「い………っ」

数秒後の悲劇が、あってはならないことが脳裏を掠める。

「いやあぁぁーっ!!」

もつれる足で走り続け、力の限り手を伸ばして。有利を護るように抱えたコンラッドから目を

逸らすことも出来ずに。

風がわたしの身体を撫でるように巻き起こり、身体の中から力が根こそぎ奪われた。





一瞬だけ暗転した意識から目を開けると、すぐ目の前にわたしの背丈以上の高い雪の山

が出来上がっていた。

力が入らなくて、そのまま雪の山に身体が落ち込んだ。新雪らしく柔らかいそれに身体が

めり込む。

上を見上げると、もうここは闘技場のすぐ真下だった。

じゃあ有利と、コンラッドが、ここに?

萎える手足には力が入らなくて、それでも懸命に目の前の雪を掻く。

有利の最後の力だったのかもしれない。それとも、この虚脱感は、わたしの魔力を有利が

使ったのかもしれない。

どちらでもいい。二人が無事なら、そんなことはどちらでもいい。

疲労が、深い眠りへとわたしを引きずり込もうとする。

まだだめ。コンラッドの、有利の無事を確認していない。

雪の山に潜るように上半身を突っ込みながら、雪を掻き続けている手に、触れるものが

あった。

白い服が見える。

「コン……っ」

雪が口に入って声も上手く出せない。おまけに掘った穴は柔らかいから、上からの重み

が身体に掛かり始めて、なかなか前にも進めない。早くしないとこんな中途半端な位置

で、わたしも埋もれてしまうだけだ。

途端に腕を掴まれた。

引っ張る力と、わたし自身が潜ろうとする力で、柔らかい新雪を崩しながら、その体温を

感じるところまで、ようやくたどり着いた。

周りは雪で囲まれているのに、上だけぽっかりと穴が開いていて黒い夜の空が広がって

いる。横の壁から崩れ落ちてくる雪と、まだ降り続く雪が有利と、有利を抱き締めたまま

下敷きになっているコンラッドの上に降り注いでいる。

「……コン……ラッ…ド……」

本物だ。

今度こそ、確かに、ここにコンラッドがいる。

片腕で有利を抱き締めて、片手でわたしの腕を掴んでいたコンラッドがふと表情を和ら

げた。

「大丈夫、ユーリは無事だ……二人とも無茶ばかりして……」

「コン……コンラッ……ド、こそ……」

声が詰まって、雪に冷えた頬に水滴が伝い落ちていくことがわかった。冷えすぎていて

鈍くなった感覚のせいで、涙だと気付かなかった。わかったのは、今度こそ側にくること

ができたのに、そのコンラッドの顔が滲んで霞んでしまったから。

「ぶ……無事でよかっ……い……生きてて……くれ……て……」

もっと話したいのに、話さなくては、聞かなくてはならないことが山ほどあるのに、意識が

急速に沈んでいく。二人の無事を見て、緊張の糸が切れてしまったんだ。

「やだ……もっ…と……」

雪の中をもがくわたしをコンラッドが引っ張ってくれた。

有利を抱きかかえるコンラッドの胸に、どうにか上半身を乗り出す。

外から誰かが何かを叫びながら雪を掘っている音が聞こえてきた。救助が来ている。

邪魔をされる前に、聞いておかなければならないことがある。

「コンラッド……一緒に……」

肯定を期待した言葉は、逸らされた瞳で返答された。

「それはできない」

「ど……して……」



ずっとずっと聞きたかった。

コンラッドが、わたしの名前をもう一度読んでくれる声を、ずっと聞きたかった。

なのに。

雪と冷気で冷えた大きな手が同じくらい冷えたわたしの頬を撫で、紡がれた言葉は。

「俺のことは、もう忘れて」

「なん……で……そんな……」

「忘れてくれ、。忘れて、ユーリたちと幸せになる道を探してくれ」

「いや……」

這いずるようにコンラッドの上に上がり、その服を掴んで縋りつく。

だけどそこで力尽きてしまって、コンラッドの胸に顔を押し付けたまま重い瞼が落ちて

しまう。

まだ駄目。まだ起きるの。コンラッドの話が途中だよ。あんなの嘘だと、そう言って。

事情があるに決まってるのに。

……?」

コンラッドの声が上から聞こえても、もう重い瞼も口も、少しも開かない。

待ってコンラッド、教えて。どうしてこんなことになっているのか、どうしてそんなこと

を言うのか、理由を教えて。

「……本当は、忘れるくらいなら俺を憎んで欲しいけど……」

たぶん反応のないわたしが気を失ったと思ったんだろう。潜めるような声はわたしに

聞かせるためのものではなく、小さく独り言として呟かれている。

「憎んで、憎んで、許せないくらいに憎しみを抱いて……そうすれば、の心は

俺のものなのに……」

コンラッドの手がわたしの頬を撫でて、それからコンラッドの服を握り締めていた指を

解く。

「だが俺は、には幸せになって欲しい。誰よりも、幸福に。……陛下、これが

俺の、唯一の望みです」

解いたわたしの指を、握り締める力を感じながら意識は闇の中へと落ちていく。

「愛してる、

確かに、そう聞こえたはずだった。







矛盾するコンラッドの言葉の真意は?



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