わざと負けてくれ。 有利にそう告げられたとき、ヨザックさんは何を言われたのかわからなかったようだった。 事情を説明し、フリンのいる窓を確認すると溜息をつく。 「ごめん、ヨザック。でも」 「いいえ、判ってます陛下。大丈夫です。きっちり上手くやってみせますよ。オレの演技力 をなめないでください」 陽気にそう答えたヨザックさんが背中を見せるその一瞬、喩えようのない表情が浮かんだ のをわたしは見逃さなかった。 有利やわたしを守ることを考える必要もなく、本当の実力で対決できる闘いを中断させら れた。おまけにそれで告げられたのはわざと負けろという話。きっと、計り知れない屈辱 だったに違いない。 試合が再開されると、ヨザックさんは頃合を計って、上手く武器を弾き飛ばされたように みせて降参した。 075.光、見つけた 敗者を演じて戻ってきたヨザックさんは、改めた謝罪は必要ないとだけ有利に言って、 ベンチに座った。顔が膝につくくらいに身体を折り曲げて、黙って床を見詰めている。 客席は自国の勝利に沸き返り、大興奮の歓声と床を踏み鳴らす音が轟いている。 そんな中、グラウンド中央でアーダルベルトさんは審判に向かって抗議していた。 あれは相手がわざと負けた。対戦者が自分で武器を手放したのだ、やり直させろ。 勝者の態度だとは思えない。 そして、それはそのまま彼がこの件に関わっていないことを示してもいた。 「さて、こうなった以上は仕方ない。棄権を申し出るか」 「待てよ村田。一応まだ三戦目が残ってる」 「だがお前は、あの女を見捨てる気はないんだろう?」 ヴォルフラムはつまらなさそうに息を吐いて、ベンチの外を眺めた。 途端に。 「母上!?」 悲鳴のような声を上げて突然立ち上がる。 痛めた腰を更に悪化させないかと慌てて支えると、わたしの肩に手を置いたままヴォルフ ラムが一歩前に出た。 「無理して立つなよヴォルフ、母親が来たから張り切っちゃうなんて、お前は授業参観の 一年生かっつーの……って……ツェリ様!?」 有利もわたしも村田くんも、ベンチで俯いていたヨザックさんも顔を上げる。 あのフリン・ギルビットが捕らえられていたはずの窓に、金の巻き毛を揺らして萌葱色の スカーフを振っているツェリ様がいた。 「なんで大シマロンに母上が……」 「そりゃヴォルフ、答えはひとつしかないよ。認めたくないのは判るけどさ」 有利が肩をすくめて、ヴォルフラムはベンチに座り直した。 ツェリ様の今の恋人は、シマロンの商人だったはず。ヴァン・ダー・ヴィーアではその恋人 から贈られたというクルーザーがシマロン船籍だったお陰で助かったのだから。 「とにかく、ツェリ様のあの素晴らしい笑顔を見るにだな、フリン・ギルビットは救出された 可能性が高い。いくら陽気なツェリ様だって、人質の横であれはないだろうし」 「母上のことを悪く言うな」 「悪く言ってねえよ」 有利の表情に明るさが戻って、わたしは村田くんと顔を見合わせた。村田くんは深刻な 表情で首を振る。 「よーし、これで次は真っ向勝負だ。三人目に希望が繋がった。勝てなくても、せめて 引き分けに持ち込めば、決定戦があるかも……って、三人目っておれ!?」 今更気付いたように有利が悲鳴を上げる。 「まずい、それはまずいよ!どうしよう村田、どうするよヴォルフ!?」 「最終的には、棄権するという手も……」 村田くんの提案に、有利は首を振って額を押さえる。 「それはできない。それだけは駄目だ。だってここまで勝ち上がってきたんだぜ?フリン の件も解決して、全力で闘えるんだぞ!なのに最後の一戦でリタイアなんて、もったい なくてできねーよ!」 「じゃあ陛下が出るしかなさそうですね」 ヨザックさんが立ち上がって石段に足を掛けながらグラウンドを見た。 「どのみち陛下が危険になれば、オレも閣下も黙って見てはいません。たとえ違反行為 になり、そこで失格が宣言されても、敵とあなたの間に入りますよ。もう人質もいないん だから、今度こそ遠慮なく斬り捨てます。叩き斬ります。ぶった斬ります。それこそ、あっ という間にね」 物騒な発言をするヨザックさんに、有利がそっと囁いた。 「お、怒ってる?」 「怒ってませんて」 怒ってなくても苛立ってはいるよね……。 「あらかじめ言っておきますが、人を殺すなとか説教しても無駄ですからね。もしも陛下 ご自身が出場したいと仰るのなら、オレも閣下も止めませんよ。それでも全力でお守り するだけです」 金属バットのような武器を握り締めた有利は床をじっと見詰めた。 だけどその迷いは、ある方向へ傾いている。 わたしが口を開く前に、村田くんが先に一歩前に出た。 「僕は言ったよな、渋谷。君は護られることに慣れなくちゃいけないって」 「でも、お前はこうも言ってたじゃないか。おれとお前は特殊な関係なんだって。強力な 力を持つ王に、お前は手を貸すことができるって。自分の意思で使えない力をあてに するなんて、無謀だって判ってるよ。でもさ」 「駄目だ!」 有利の考えは一瞬で否定された。 「危険すぎる。いくら雪が味方するとはいえ、ここは人間の土地だ。しかも隣には神殿が あるんだぞ!?どんなアクシデントが起こるか予測もできないんだ!そんな危険なこと はさせられない!」 「けど……!」 「わたしが!」 有利の手からマスクを奪って、握り締めた。 「わたしが代わりに出る。ヴォルフラム、剣を貸して」 「なに言ってんだよ、!そんなことさせられるはずないだろ!?」 有利が奪い返そうとしたマスクを後ろに回して、壁に背中をつけた。 「有利だって自分の意志で魔術が使えないのはわかってるんでしょう?その上、ここは シマロンなんだもん。ひょっとしたら、危なくなってもいつもみたいな力が出ないかもしれ ない!」 わたしが前世の人に邪魔されたみたいに。 理由は違っても有利も力を出せないかもしれない。 もしもそんなことになったとき。 「ヴォルフラムやヨザックさんが助けてくれるといっても、ここからじゃ間に合わないこと だってあるの!純粋に、剣術だけで言ったらわたしの方がずっと強いわ」 ヴォルフラムやヨザックさんには敵わないけれど、有利とならわたしの方が強い。 それに。 「馬鹿言うなよ!だとしても、を危険な目に遭わせるわけにはいかないよ!ヴォルフ もヨザックも、村田もさ、なんとか言ってやってくれよ!」 有利が振り返ると、ヴォルフラムとヨザックさんは微妙な表情だった。 「……確かに勝ちにいくにしても引き分けを狙うにしても、の方が可能性はあるな」 「そうだろ、ほら、マスク返せって……え……今なんてった?」 ヴォルフラムの言葉に有利は、今度は驚いたように振り返る。 「の方が強いと言ったんだ。魔術を使えばお前に敵う者はいないが、大賢者の言う とおりこの土地でそれは危険すぎる。とは手合わせをしたことがある。一対一なら 悪くない腕前だ」 「ばっ……な、何言ってんだよ!なあヨザック!」 ヨザックさんは複雑な色を含んだ瞳で、ちらりとわたしを見た。 わたしが頷くと、目を閉じて息を吐く。 「オレも姫の意見に賛成です」 「ヨザック!」 「もしものことがあれば飛び出すというのは、陛下でも姫でも同じですよ。でもオレたちが 駆けつけるまでの数秒、その数秒を凌げる可能性が高いのは、姫です。それに……」 「だからってに戦わせるくらいなら、いっそ……っ」 棄権する、という言葉を有利は辛うじて飲み込んだ。 有利が遮ったヨザックさんの言葉の続きは、言わなくて正解だと思う。 それに、万が一の事態が起こったとき、失うわけにいかないのは有利の方だ。 魔王の有利と、その妹なだけだというわたしでは、必要の度合いが違う。 「村田!」 「うーん、僕としてもの方がお勧めかなあ。問題は、マスクをしても体格は誤魔化せ ないということだけど……もの言いがついたら、会場が大きいせいで小さく見えるという ことで押し通すのが無難かと」 「なんだよ、お前等みんなしてさ!」 有利が地団駄を踏んだそのとき、会場がひときわ沸いた。 大シマロンの三人目の代表が現れたのだ。 五人で一斉にグラウンドを見た。 三人目の選手はゆっくりとベンチの石段を上がり、雪を踏みしめる。 持っている剣は既に抜き身らしく、松明の灯りを反射して赤く煌めいた。 ベンチから離れるほどに、少しずつその姿が見えてくる。 真っ先に気付いたのは、たぶんわたしだと思う。 息を詰めて、叫びたいのに声もでなくて、側に行きたいのに足が萎えて石床に座り込ん でしまった。 「姫!?」 後ろからヨザックさんが脇の下に手を入れて引き上げようとした態勢のままで固まった。 その人がグラウンド中央まで歩いてきていて、その顔が今度こそはっきりと見えた。 シマロンでよく見かける茶色の髪。 でも、大シマロンの兵士みたいに長く伸ばした髪じゃない。 あんなにもサラサラした髪じゃないことを、わたしはよく知っている。 シマロンの人に多い茶色の瞳。 でも他の人には見られないような、銀の光彩が散っている、その不思議な色。 有利が、小さく小さく呟いた。 「コンラッド……?」 コンラッドがゆっくりと雪を踏み締めて、そしてこちらにその瞳を向けた。 「畜生!」 有利が短く叫んで走り出す。 「渋谷!」 「ユーリ!ちっ……グリエ、行け!」 立ち上がったヴォルフラムが指差す前に、ヨザックさんが有利を追って走り出す。 そのすべてを、冷たい床に座ったまま見ていた。 見ていた。 コンラッド、を。 「無事……だった」 腰を浮かしたヴォルフラムが、見下ろしてきたのがわかった。わかったけど、振り仰ぐ 気になれない。 「無事だったんだ……コン…ラッド……っ」 嬉しいのに涙が勝手に溢れ出して、視界を歪めさせた。 コンラッドの姿が見たいのに、涙が滲んで見えない。 なぜか左腕があった。 剣を持つ右腕と、そして身体の横に下げていた左腕が、確かに。 でもそんなこと、どうでもいい。 ううん、何故か知らないけれど、腕が戻っていて悪いことなんてあるはずない。 近くに行こうと震える膝を叩いて無理やり気合を入れて、ふらつく足で立ち上がる。石段 に足を掛けたところで肩を掴まれた。 「駄目だ、」 後ろから聞こえた声は村田くんのものだ。 なんで邪魔するの? グラウンドでは有利が雪に滑って転んでいる。 「行っちゃ駄目だ。渋谷も、すぐにグリエさんが連れ戻してくれる」 視界を滲ませる涙を腕で拭って、そのまま村田くんの手を振り払ってグラウンドに飛び 出した。 「コンラッド!」 まだずっと遠いけど、我慢できずに腕を伸ばした。 駆け寄ろうとしたのに、足はまだ震えていて上手く動いてくれなくて、後から駆けてきた 村田くんにすぐに捕まってしまった。 「駄目だって言ってるだろ!」 後ろから抱き付いて、精一杯に体重を後ろにかけて引っ張ってくる。力が入らないから、 村田くんを引きずるどころか、逆に少しずつ後ろに引き戻されてしまう。 「放して!放してよっ!コンラッド……!」 「だから……っ」 村田くんが何か言おうとしたけれど、めちゃくちゃに暴れてひたすら手を伸ばす。 「コンラッドーっ!!」 力の限り手を伸ばして、一瞬だけコンラッドと目が合った。 けれど、コンラッドはすぐに顔を伏せて雪に埋もれる有利に手を差し出す。 「よく見るんだ、!彼の服をよく見ろ!どこから出てきたか考えろ!彼は、シマロン の三人目だ!」 村田くんが言った意味が、わからない。 わかるのは、コンラッドがそこにいるという事実だけ。 そして、コンラッドを抱きしめて、その存在をこの手で確かめたいという想いだけだった。 |
ようやくコンラッドに再会できました。 ですが、何故か大シマロンの代表として出てきて……。 というところで天マ編は終了です。 |