荒れ野での最初の夜、毛布に包まり地面に寝転んだまま、意識は浮いたり沈んだりを繰り

返していた。

ぼそぼそと聞こえてくる話し声は、遠くのもののような、近くのもののような。

誰かの足音が聞こえて、少し目覚めに近付く。夢うつつで誰かが近くに座ったな、と感じて

いたら、聞こえた言葉に一気に意識が浮上した。

「それがウェラー卿か」

コンラッドの名前が聞こえたから。






072.路上に来る朝(3)






すぐに有利が上から覗き込んできた気配がして、懸命に寝たふりをした。最初にそうした

のは、反射のようなものだったけれど、それで正解だったとすぐに思った。

ときどき視線が降りてきて、有利が何度もちゃんと寝ているかの確認をしてきたからだ。

後ろからも探るような気配があって、どうやらみんな、わたしにコンラッドの話題を聞かせ

たくないらしい。村田くんに叱られるまで腐抜けていたから仕方がないのかもしれない。

ヨザックさんの話を寝たふりで聞いてると、わたしは本当にコンラッドのことを何も知らない

んだと実感した。

コンラッドの今の好きな食べ物とか、最近の一番の楽しみとか、そんなことは聞いている

けれど、昔の話はほとんど知らない。

コンラッドが思い出話をするときは、ちょっとした小話だったり、まだ反発する前のヴォルフ

ラムと遊んでいた頃のことだったり……今よりもっとずっと昔のことで、今と幼い頃の間が

ごっそりと抜け落ちていた。

「忠誠心を示して立つと宣言したウェラー卿の元には、国中から混血の者たちが集まって

きました。中にはまだ新兵教育さえ終えていない、素人同然の若いのもいましたね。自分

達が果敢に戦い信頼を得れば、残される弱き者達が苦しまずにすむ。この先、謂われの

ない偏見や、差別に苦しめられずにすむと思った。人間の血を引く者ばかりで編成された、

小規模で特殊な師団だった」

今まであった出来事を、根掘り葉掘り聞くことが正しいとも必要とも思わないし、そんなこと

ができるはずもない。

それに言いたくないだってあるだろう。わたしだってヒルドヤードの騒動がなければ、あの

恐ろしい夏のことをコンラッドに話せなかった。

だけど。

「我々は最も重要で、しかも絶望的な激戦地に向かいました……陥落寸前のアルノルド

です。コンラッドは女王の嫡子だ。そんな事情でもなければ、好き好んで死にに往く必要

はない。生きて戻る望みのない戦地への出陣をシュトッフェルは命じ、ウェラー卿は名誉

であると答えた……オレたちが現地に到達した時、既に勝負はついていたも同然でした。

新たな兵力を加えても、こちらは四千弱、敵は三万を越えている。……地獄だった」

ヨザックさんの声が低く沈み、重ねていた有利の手が小さく震えた。

有利の手を握り締めそうになるのを懸命に堪えて、息を殺してじっと話を聞く。

「シマロン軍には法術を使える連中もいましたが、魔族の地では絶対的な戦力にはなら

ない。我々にも魔術に通じた兵が送られてはいましたが、壊滅的に苦しい戦況の中では、

強大な魔力をもつ優秀な兵士など残されてはいない。かろうじて治癒魔術が操れる程度

です。戦闘時には何の役にも立たない。結局は斬り合いだ。何体か斬るとエモノは肉の

脂で斬れなくなる。そうすると即座に剣を捨て、いま倒した敵兵の手から、シマロンの紋

のついた武器を拾った。もしすぐ脇に同胞の遺体があって、その手に血の付いていない

剣があれば、それも迷わず使う。それが駄目になれば次の武器を。その繰り返しです」

話を進むたびに、有利がときどき堪えきれないように震えて、わたしは起きていることを

悟られないように必死に毛布を握り締めて耐えた。

後になって考えれば、ここまで話が進んでいて今更わたしが起き出しても、こんな中途

半端で話をやめたとは思えなかった。ただこのときは、じっと話に集中していた。

きっと、コンラッドの口からは聞けないだろう、つらい過去の話を。

「それでもオレたちは迷わなかった。敵も味方も折り重なって倒れ、死体で地面が見え

ないほどだった。草は血で赤く光り、稀に覗く土はどす黒く湿っていた。腕や足を避ける

余裕もなく、たとえ生きていようと踏み越えて進んだ。結局オレたちは千に満たない数

になるまで敵を屠り、奇跡的に防衛線を守りぬいたんです。しかし味方にも多大な被害

が出ました。たとえ一命はとりとめても、傷つき弱った者達が殆どだった。五体満足で

帰還した者など、全大隊を通じて皆無に等しかった……ウェラー卿も動かせないほどの

重傷を負い、自分の命は半ば諦めて、数少ない生存者を先に帰還させたくらいです」

耐え切れずに震えてしまったけれど、有利も同時に強くわたしの手を握り締めて、その

せいで震えたことに気付かなかったようだ。

コンラッドの身体に痛々しい傷跡がたくさんあることは、ちょっとだけ知っている。ヒルド

ヤードの温泉に行ったとき、恥ずかしくてほとんど目を向けられなかったけれど、脇腹の

酷い傷跡は特に記憶に残っていた。

「多くの犠牲は出しましたが、結果として南西の拠点アルノルドは死守され、敵に進軍

されずに済んだ。これを契機に眞魔国軍は勢いを盛り返し、グランツ地方やカーベルニ

コフ地方でも反撃に転じました。敵地までの深追いはしませんでしたが、海上ではあの

ドゥーガルドの一族らが猛威を振い、シマロン軍を追い詰めた。絶望的なあの状況から

停戦にまで持ち込めたのも、アルノルドでの勝利があったからだ。オレたちはそう思って

ます。事実、その戦績が誉れ高き武勲と称されて、ウェラー卿は十貴族と同等の地位を

得ました。こればかりはシュトッフェルの思惑も叶わず、臨時評議会の全会一致で認め

られた。ただ、隊長にとっては階級なんかどうでもよかったらしい。詳しく聞いたわけじゃ

ないけど、もっと大切なことがあったんでしょうね」

わたしが知っているのは、今のコンラッドだけ。

優しくて、頼り甲斐があって、いつでも揺るぎなくて。

それはいい。過去を知ることが必要だとは言わない。

でもわたしは本当に、今のコンラッドのことも知っているんだろうか?

だってあの人の、不満も、苦しみも、悲しみも、泣き言も。

何も聞かされたことがない。

優しく包み込むように護られ、甘えを受け止めてもらって、ただ与えられてばかりだった。

どうしてそんなことにも気付かなかったんだろう。

わたしはコンラッドよりずっと年下で、ずっと弱い。剣の腕や体術などの話だけではなく、

精神的にも情けないほどに脆い。

コンラッドがそんなわたしを頼れないのは仕方ないのかもしれない。

だけど、ほんの少しの不満を漏らすことも、疲れたから少しだけ寄り掛かるなんてことも

できないほど、一方的に甘えていたんだ。

それで恋人だなんて、よくも言える。

わたしだけが甘えて、わたしだけが頼って、コンラッドのために何も出来ずに。

閉じた瞼の裏に、教会の床に落ちたコンラッドの左腕が浮かんだ。

有利とわたしを護るために、片腕を無くしてもまだ剣を握っていた広い背中を思い出す。

あんな時にすら、ただ足を引っ張るだけだった。

涙が滲んで、小さく唸りながら寝返りを装って有利の手から自分の手を引いて、毛布に

顔を押し付ける。

情けない、悲しい、悔しい。

わたしにはコンラッドを好きだというこの気持ちしかなくて、何一つ、返すことも出来ない

でいたんだ。

頭の上ではわたしが起きたのかと思ったらしく、しばらく沈黙が降りて焚き火の爆ぜる音

だけが聞こえた。

有利が上から覗き込んでいる気配があったけど、毛布に顔を埋めたから、もう見えない

はずだ。泣いて呼吸が震えないように、単調な寝息を演じた。

「もっと大切なこと、か……」

わたしが寝ていると判断を下したのか、上から覗き込んでいた影が消える。

「コンラートが戻ったときにもはもう……」

さっきまで聞こえなかったヴォルフラムの声がした。

「ジュリアは亡くなっていた。そしてそれ以降、コンラートは決して軍籍に戻ろうとしない」

ギルビットの館で聞いた名前に、驚いて毛布を握り締めてしまった。

え、でもその人、アーダルベルトさんの婚約者じゃなかったっけ?

「あれ、起こしちゃったか?」

「あんなにびくびく震えられては、ゆっくり寝ていられるはずがないだろう。話だけで怯え

るなんて、お前ときたら本当に情けない」

「えーと……でも、もう一回確認しておくけど、その人はコンラッドの恋人じゃなかったん

だよな?」

「繰り返すが違う。そんな話は聞いたこともない」

わけがわからなくて、グルグルと頭の中が混乱する。

だって今のヴォルフラムの言い方だと、その人が亡くなったことが原因で、地位を捨てて

しまったように聞こえたんだけど。

でも恋人じゃなくて、相手には婚約者がいて……。ヴォルフラムや周りが知らなかった

だけで、本当はこっそり付き合っていたとか?

……わからない。

「そうです。せっかく本来の地位を得たのに、ウェラー卿は軍人としての出世を放棄して、

それどころか元の階級も返還して、今では……」

ヨザックさんが話を続けて、お陰で考えてもわからない問題から意識が逸れる。

「ただ、陛下の護衛のみを至上の命としています。オレなんか他にできることもないのに、

直接の上官を失っちゃって、仕方なしにこうしてフォンヴォルテール卿の指示下に入って

ますけどね。今でもウェラー卿の復帰を望む声は多いんですよ。彼の下で働きたがる者

は後を絶たないし……無理もありませんがね。雄叫びをあげながら先頭切って敵陣に

切り込む姿や、傷付きながらも力強く、前しか見ない惑わされぬ眼差し。戦鬼とも見紛う

その姿が、どれほどこの目に焼きついているか。あの場にいた者は誰しも、自らの命を

預けることに微塵の迷いもなかった。ウェラー卿コンラートはルッテンベルクの誇りです」

戦場に立つコンラッドを想像する。

わたしが知っているコンラッドの戦う姿は、数えるほどしか見たことのないものだ。

だけどあの身体中についた傷を抱えて、それでも剣を握るコンラッドを思うだけで、涙が

出そうだった。

「でも……」

有利が火の燃える音に掻き消えてしまいそうな小さな呟きを漏らした。

「でもおれは、そんなコンラッドは好きじゃないな」

うん、有利。わかる。

ううん、でも少し違う。

コンラッドに、そんな戦いを強いる状況を作るほど、不甲斐ない自分が嫌いなんだ。

あの時、わたしが素直に有利を連れて日本に戻っていれば、コンラッドは左腕を失わず

に済んだかもしれない。

あの時、使えるかどうかもわからない魔術を使おうとしたりせず、自分の身を守ることに

集中してれば、コンラッドがわたしを庇う必要はなかったかもしれない。

もしも、あの時。

過ぎてしまったことを悔やんでも、もう時間は戻らない。わかってる。間違ったのなら、

その教訓を生かすことを考えなくてはいけない。

もしもとか、こうしていたらとか、そんな後悔は無意味だ。

わかってる。

でも……。

「うわ、雪だ」

奥歯を噛み締めて毛布を握り締めていたら、有利の声が聞こえた。

「雪とは厄介だな。ただでさえ走りにくい荒れ野だというのに」

「うーん、雪中行軍は馬でも難儀しますからね」

「じゃあ車に移動しておこうか。濡れちゃうし。グリエさん、を運んであげて」

優しさなんだろうけど、村田くんのとんでもない提案に、思わず飛び起きそうになった。

それはちょっと、勘弁してほしい!

「いや、それはちょっと……もし抱き上げようとした時にが目を覚ましたら、ヨザックが

殴られるぞ。おれが運ぶよ」

「陛下の細腕だと姫が落とされないか心配なんですが」

「失礼なこと言うなよ!抱き上げるのは……ちょっと…無理だけど、背負うことくらいなら

できるさっ!」

いいところで有利が怒鳴りつけたので、有利には悪いけどその声で起きたような振りで

小さく声を上げた。

「あ、ごめん、起こしたか?」

「ううん。もう出発?」

わたしは今までの話を聞いていない。聞いてないことになっている。

だから、いかにも今起きましたと少し寝惚けたふりをして、巻きつけた毛布に顔を埋めて

起き上がる。目を擦るようにして、滲んでいた涙を拭った。

「いや、雪が降ってきたから車に移動しとくことにしたんだ」

「そう……なら、車に入らないとね……」

空を見上げると、真っ白な綿毛のような結晶がふわりふわりと落ちてくる。

ぼんやりとその白い雪を見ているうちに、ヨザックさんが火を消して荷物をまとめた。

「目ぇ覚めてるか、?車に戻ったらもう一回寝直してもいいからさ、ほら……うわっ、

何事!?」

わたしの腕を掴んで上に引き上げていた有利の悲鳴に振り仰ぐと、車の方を見て後退り

している。

「な、なんか形状が変わってるぞ!?」

視線を追ってみると、一休みしていたはずの羊たちが揃って目を覚まして立っていた。

それどころか瞳は爛々と赤く輝き、柔らかそうだった羊毛が身体にぴたりと張り付いて

いる。

「雪モードってとこか。羊は悪天候に強いのかな?しかもどうやら夜型……というか」

村田くんはわたしの腕を掴む有利の手にある時計を見た。

「……午前三時。超朝型動物かな。今にも走り出しそうだし、月明かりで進むのは少し

不安だけど、積もらないうちに走っておくのはいいかもしれない」

その意見に反対する理由もなく、羊たちを車に繋いでいると村田くんは荷台から何かを

取り出してきた。

「魔動遠眼鏡。ジョイント部分を引っ張ると手頃なサイズの望遠鏡ができあがり。小型な

がら魔動の元が中に挿入されているから、世界中地域を選ばず使える優れものだって。

夜間の走行は危険だから点灯も忘れずにねー」

「ムラケンさん、望遠鏡は灯りじゃないから!」

有利が笑ってそう言った。







コンラッドの過去を聞くとともに、恋人としての自信も揺らぎ……。



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