レースコースは黄色く固い土が剥き出した、草の少ない荒れた土地だった。 轍の残る馬車用の路はあるが、石や溝、場所によっては植物が邪魔をして安心して走れる 環境ではない。 五人も乗る車を牽く羊たちの苦労もさることながら、一瞬の油断が脱輪や事故に繋がると、 乗っている方も緊張の連続だった。 サイズモア艦長たちに預けるはずだったも、大シマロンの兵士の乱暴なやり方のせい で同行することになって、おれとしては複雑極まりない気分だ。 の安全を思うと艦長たちといた方がよかったと思うし、同時に側にいないとどうしている かが気になって仕方なかったと思う。 夜になって、一旦休憩を取るために焚き火を囲みながら、おれは赤い炎をじっと見詰めて いた。 072.路上に来る朝(2) 最初の火の番を志願したヴォルフラムは、おれの肩に凭れていつもの個性的な鼾をかいて いて、村田は一旦簀巻きを解いてもらってがそこから這い出すと、このままが温かいと 言って一日中毛布に包まっていて、今もそのまま眠っている。 羊たちも短い休息時間に、四、五頭ずつ固まってうずくまっていた。 はおれの手を握ったまま、村田から一枚だけ略奪した毛布に包まって地面に転がって 眠っている。 炎は温かく赤く、冬の夜空の月は冷たく青く輝いている。 朝よりも疲れているはずなのに、吐き気も頭痛も朝よりはだいぶ治まっていて、味気ない 携帯食料のみの夕食もきちんと摂れた。 足音が聞こえて見詰めていた炎から視線を上げると、周囲を見回りに行っていたヨザック が戻ってきて、斜め向かいに腰を下ろした。三十分ほど前に見張りの交代をしたばかりだ。 「眠れませんか」 様子を見に行く前も帰って来てからも眠る様子のないおれに、眠るたちを気にしながら ひそひそと話かけてくる。 「うん、まあ色々……この先のこととか考えちゃってね」 「坊ちゃん達は城育ちですからね、荒野での野宿はつらいでしょう」 「おれもも村田も温室育ちじゃないよ。ヴォルフラムは王子様だから、召使いがいっぱい のお城で育ったかもしれないけど」 「閣下も一応は軍人階級ですからね、後方支援の任が多かったとはいえ、野営の経験は それなりにおありでしょう。やっぱり心配なのは陛下と姫と猊下ですよ。お三方に何かあり でもしたら、オレ、火炙りどころか八つ裂きにされちゃうー」 ヨザックは両手を顔の脇に上げておどけた仕種と茶化した口調でそう言ったけど、瞳には 笑いとばせないものがある。 「一度に三人も護衛する羽目になるなんて、オレってなんて運が悪いんだろう。せっかく 国許の者とも合流したってのに。無事にご帰還された暁には、働き者のグリエ・ヨザックと して、特別賞与をご検討くださいね」 「ゴケントウします」 ヨザックに合わせておれも軽口のつもりのように言ったものの、本当にヨザックには大変 な役をさせてばかりだ。サイズモア艦長とダカスコスとドゥーガルドの兵士もランベールに 向かってはいるが、そのことについてはヨザックが渋面を作った。 「まったく、ドゥーガルドの一族ときたら、海の上では無敵でも陸にあがりゃてんで素人と きたもんだ。サイズモアはまだ野戦でも使えるものの……まったくねえ、小動物好き閣下 ったらなんであんな連中まで陛下の捜索に出したんだろ。オレってそんなに信頼ないん ですかね」 小動物好きって……グウェンダルのことか。 ヨザックは枯れ枝で火を掻き回し、二つに折って放り込んだ。 「陛下は陛下で異国の代表の振りをして、仇国の競技会に出場されるし、信じらんない」 「悪かったね」 ヨザックが冗談めかして言ったので、おれもそれほど反省したようには言わなかったけど、 すぐに苦笑の表情を見せた。 「……ま、陛下がどんな奇行に走られようとも、従うことに決めましたがね」 おれはちらりと横のを見る。おれと握り合わせた手も少し緩んでいるし、ちゃんと眠って いることを確認しておく。 「コンラッドにそうしろって言われてんの?」 この名前を、今のの前では軽々しく口にしてはいけないから。 「うちの隊長……ウェラー卿に?いやいや、そんなこと誰かに指示されなくたって、魔族の 大半がそうでしょう」 「うちの隊長って……あんた、よく言うよね。コンラッドのことだったんだ?でもヨザックって グウェンの部下じゃなかったっけ?」 温かいものが欲しくなって、薬缶からカップに湯を注ぐ。そのまま飲もうとしたら、見かねた ヨザックが食料袋から茶葉を取り出してくれたので、自分でできるとそれを受け取る。 「もちろん、オレはフォンヴォルテール卿の部下ですよ。ウェラー卿がオレの上官だったの は昔の話ですね。今でこそ穏やかな人格者で人畜無害になっちゃってますけどね。昔は あれで泣く子も黙る恐怖の男だったわけですよ」 「ルッテンベルクの獅子とかいう?」 おれがそのあだ名を知っているのが意外だったらしく、ヨザックは軽く眉を上げる。 「よくご存知で。そう、若きルッテンベルクの獅子。彼の親父さんがそこに居を構えていた んです。眞魔国西端の直轄地の、人間が多く住む地域。もっとも、その親父さんががいた から人間が多く住んだんですが、そこの名前。そもそもそこで生活する住民というのは… こんな話しちゃっていいのかしら、おねーさん、後になって怒られるのやだわぁ」 急にグリ江ちゃんになって誤魔化そうとした。今ならまだ聞かなかったことにできるという ことだろう。 ヨザックの分の紅茶も淹れようとしたら、それこそ自分でやると薬缶を取り上げられた。 「できたら知っておきたい。もしお咎めがあるようなら、ヴォルフから聞いたってことにする から」 「なんという細かいお気遣い。でもオレがばらしたと言っちまっても構いません。この場に いないウェラー卿が悪い」 ヨザックは首を振って、火から距離が空くほど闇の広がる辺りを見回した。 「ちょうどこの辺りですかね、いやもう少し西かもしれない。何十年か前、ここにある特殊な 者が集まった……強制的に集められた村があったんです。『村』なんてのは名目上のこと で、実際には収容所でしたが。四方を柵で囲まれ、敷地から出ないように見張りも立って いました」 「特殊な者って?」 「魔族と関わりのある者のことです。魔族と契った人間や、その結果生まれた混血の子供 とか。当時、眞魔国と人間の……言ってしまえばシマロン本国ですが、その関係が不穏に なってきた頃に、大陸全土から魔族と関わりのある者を狩って、この荒れ野に村を作らせ たんです」 自分の分の紅茶を作ったヨザックが、何かに気付いたように顔を上げた。おれが振り返る と、簀巻きになっていた毛布を巻きつけたままの村田がこっちに来ていた。 「猊下、お休みだったのでは」 「僕だけ見張りをしないのも不公平かと思ってさ」 そう言って、寝転ぶをおれと挟むように座る。この動きでが起きなかったか、もう 一度覗き込んで確認するが、瞼は震えることもなく閉じたままで、静かな寝息も聞こえた。 「隔離施設の話なら、僕も聞きたい。僕の魂の所有者達は長いことこの世界にいなかった から、こちらの状況を知っておきたい」 ヨザックが村田の分の紅茶も作って、それを差し出した。 「一日一杯の嗜好品さえ口に出来ないような生活でね。水と麦があれば上等だった。あの 頃の日々に比べると、軍隊での生活なんて天国みたいなもんです。オレはその村で十二 まで育ち、十三になろうかという夏に転機が訪れました。何人かの人間が闇に紛れて忍び 込み、隔離された全員を解放した。月を背にした馬上の黒い影を、今でも忘れない。ここに 残りたい者は残るがいい、だが自分の中のもうひとつの血に生きると決めた者は、我々と 一緒に海を越えるがいいってね……それがダンヒーリー・ウェラーだった。一人ではまだ旅 もできないような、十かそこら……実際はオレと同じ歳だった子供を連れていました」 「それがウェラー卿か」 「そうです。まさか女王陛下のご子息とは思いもよらなかったけど、ダンヒーリー・ウェラー はオレたちを迅速に船に乗せ、眞魔国に連れ帰り、自分に与えられたささやかな土地に 住まわせた。それがルッテンベルクです。考えてみりゃ凄い話だ。左腕に追放者の刺青の ある男が、流れ着いた先で女王様と結ばれて領地までいただちまったわけですからね」 「追放者!?コンラッドの親父さんって、なにか凶悪なことを犯しちゃったのか?」 思わず声が高ぶって、おれに寄りかかっていたヴォルフラムが小さく呻いた。起こしたかと 口を閉じると、すぐにまた個性的な寝息が続く。 はどうかと確認するが、やっぱり眠ったままでほっとした。 「さあ?オレも、たぶん他の誰も詳しい話は聞いてないと思います。剣の方で名高い血統 だったようですが、何しろオレたちにとっては英雄ともいうべき男だ。とにかくシマロンとは 違い、眞魔国ではオレたちもある程度の自由も保障されましたし、土地そのものがずっと 肥沃でした。田畑を耕してそのまま住み着く者や、それまでの経験を生かして職人になる 者もいた。他の土地に移動して仕事につく者、兵士になる者、新しい家庭を持った者もい ます。それもこれもツェリ様の自由恋愛主義のお陰ですけどね」 長く語って、ヨザックは紅茶をありがたそうに啜った。 焚き火の爆ぜる音を聞いて、ヨザックが再び口を開く。 「ウェラー卿……っと、卿と呼べるのはコンラッドだけですよ。人間の血を引いているとは いえ、母親は当代魔王ですから、息子に貴族の地位を与えるのは当然でしょう。もっとも この時点では下級扱いで、上級貴族でさえなかった。成人の儀で母方の姓を名乗りさえ すれば、十貴族の一員にもなれただろうに。そーいうとこ、あいつは不可解なんです」 いよいよコンラッドの話に入ったので、ますますの様子に気を配る。 それはおれだけじゃなく、村田もヨザックもだった。三人とも、話の合間にちらちらと の方を窺うが、顔まで確認できるのはおれだけだっただろう。背中を向けられた村田や、 火の向こうのヨザックではよく見えないはずだ。 「オレとウェラー卿は同い年でしたから同じ頃に王都に出て軍に入隊しました。こっちは 下から順番に行けばいいわけで、下っ端なりの不満以外は、まあ気楽なもんでしたが、 あっちは兵学校とか士官教育とか、貴族の子弟に囲まれて色々あったみたいです」 「現代日本じゃあんまり想像つかない世界だな……」 呟くおれとは違い村田は軽く目を伏せた。遠い記憶のどこかに、そういった社会の思い出 があるのだろう。 「それから紆余曲折はありましたが、同じ部隊に配属され……もちろん、そこは一兵卒と 士官候補ですから、ウェラー卿がずっと上の人だったわけですが」 「なるほど、それがルッテンベルク師団ってわけ……」 「いえ陛下、それは違います!」 鋭い否定におれが驚いて目を瞬くと、ヨザックは複雑な感情を滲ませる顔でもう一度否定 した。 「それは断じて違います」 「話しにくそうだね」 そう言いながら、村田としては聞いておきたいらしい。無言の催促にヨザックは小さく溜息 をついた。 「二十年ほど前に停戦するまで、魔族が戦時下にあったことはご存知ですよね?敗戦の 危機であったことも、お聞き及びですか?」 「負けそうだったの?」 魔王に就任してから、おれはずっと戦争反対を唱え続けている。大体王位につくと決心 したのも、戦争をしない国にしたかったらだ。 でもそれは、自分が体験して辛さを知っているからじゃない。戦争の残酷さや、無情さ、 悲惨さ、そういったことを体験した人の訴えを聞いて教育されただけだ。 でもそれが正しいという自信はある。戦争なんて、誰かが命を奪い合うことなんて、ない 方がいいに決まっている。 「どう贔屓目に見ても敗色が濃厚でしたね。当時、大陸の南西から上陸してきたシマロン 軍は、力のない二つの小国を潰して急速に北上してきました。あと一都市、アルノルドが 陥落すればシマロン軍は容易に国境を突破し、本土決戦になるのは必至だった。しかも 我々の主力は北のグランツ地方と、沿岸のカーベルニコフに分散されていた。アルノルド にまで兵を割けば、戦線が崩壊しかねなかった。とにかく戦力が違ったんです」 ヨザックはおれとも村田とも目を合わさずに、両手で握ったカップの中をじっとみつめた。 「当代陛下は政治能力の未熟を理由に、兄のシュトッフェルに全権を委ねていました。 確かにツェリ様には荷が重かったかもしれませんが……何もかも摂政任せにすることは なかった。……アルノルドで敵を食い止めていた陸兵から援軍の要請が届いたとき…… もう遅いと誰もが思いましたけれどね。ちょうどその頃、グ……ある人物が、シュトッフェル に良からぬ進言をしたんです。根拠のない誹謗を。フォンヴォルテール卿はグランツより 先へ遠征中だったし、奴には絶好の機会だったんだ」 それまで淡々と話していた声に、強い憎しみが篭った。だからこそ、冷静で話そうとして いたのかもしれないけど。 聞き入って何も言えないおれに代わって、村田が先を促した。 「何を、言ったんだ?」 「……忠誠心に、疑問があると」 ヨザックの声は、低く、苦い。 「人間の血の混ざった者は、国家と眞王陛下、魔王陛下への忠誠心に疑問があると。 敵国の血が半分流れている者は、危険となれば裏切る可能性があると……くそっ!」 激しい憤りを表すように、ヨザックの手の中のカップが音を立てて割れた。 「人間の血が何だってんだ!魔族として生きると決めたオレたちの誓いが、そんなことで 揺らぐとでもいうのか!?だがシュットフェルはその言葉を利用した。奴にとっても絶好の 好機だったんです。自分から地位と権力を奪う可能性のある存在を、一人でも減らすこと ができる……申し訳ありません、陛下、猊下。取り乱しました」 「いいって。謝るほどのことじゃないよ」 の様子を確認しておきたかったけど、視線を動かすとヨザックがますますいたたまれ なくなるだろうと、じっとその青い目を見る。 次に口を開いたときには、ヨザックはもう平静さを取り戻していた。 「オレ達は……特に彼はね、黙っているわけにはいかなくなった。このまま黙って屈辱に 耐えているだけでは、いずれは昔と同じことになる。オレたちがシマロンで受けた仕打ち を、眞魔国で同じ立場の者たちにまで味合わせたくない。女や子供や、力のない者たちを 同じ目に合わせるわけにはいかない。……コンラッドに、ウェラー卿に残された路は、ただ 一つだった。忠誠心を示す。国家に眞王に、魔王陛下に、全ての民に。自らの命を以って、 絶対の忠誠心を……それが、ルッテンベルク師団です」 |
戦中の眞魔国の様子です。ヨザックの話はまだ続きます。 |