四日かけて帰り着いたカロリアは、確かに壊滅的な打撃を受けていた。街の入り口で入れ

そうもなかった馬車を降りて、『箱』はヨザックさん達が交代で担いで運ぶことになった。

港付近までの道のりは石畳が割れ、隆起した路面には倒れた家や水の溜まった溝が点在

していて、住む場所を追いやられて絶望した人々が力なく座り込み、親や食べ物を求めて

泣き叫ぶ子供達がよろめきながら横切っていた。馬でもとてもじゃないけど進めない。

「酷いな……」

村田くんがぽつりと呟いて、わたしと有利は言葉もなかった。






068.願い事、一つ(2)






フリン・ギルビットは惨状に蒼白になりながらも、必死で歩き回って住民に声をかけ続け

ていた。すぐに館に戻って水や食料を配るからと約束して回っている。

有利も仮面をつけて、ノーマン・ギルビットとして彼女と一緒に回っていた。声は出ない

ことになっているから、被災した住人達の手を取って握るようにして励ましている。

災害の種類は違うし、これよりも規模はずっと小さかったけれど、この苦しみと悲しみの

すすり泣きに満ちた場面を、見たことはある。

ヒルドヤードの火災のときだ。

あの時は、燃えたのは娼館ひとつだったので救済の目処はどうにかすぐに経った。

でも今度は違う。カロリアという国全体で、被害の大小は異なっても救済を待つ人々が

いる。

……あの時は、コンラッドが側にいてくれた。

ヒルドヤードでは、ずっと側にいて、ずっと励ましてくれていた。

コンラッドが。

慌てて首を振って、筒を抱える両手に力を込める。

今はこうして、過去を振り返ってる場合じゃないんだ。





わたしは箱の暴走が止まったと同時に気を失い、次に目を覚ましたときはもうその場所

からかなり移動した馬車の中だった。

そこで、有利からコンラッドが行方不明になっているという話を聞いた。

その後のことはよく覚えてない。

気がつけばカーテンを引いた隙間から窓がうっすらと染まり夜が明けようとしていると

わかったくらいだった。ずっと筒を抱えていた指は痺れて感覚がなくなっていた。

ぼんやりと筒を眺めていたら、ごそりと人が動いた気配がする。

「……お目覚めですか、殿下」

わたしの向かいに座っていたのは、有利じゃなくてギーゼラさんだった。

はい、と答えようとしたのに喉が張り付いたように声が出てこない。仕方なくただ頷くと

筒を抱えるわたしの手に、暖かい手が重ねられた。

「では何か食べる物を持ってきます」

食欲なんて微塵もなくて首を振ると、ギーゼラさんはぽんぽんと軽く重ねた手でわたし

の腕を叩いた。

「咀嚼しなくていいように、スープを持ってきます。軍の携帯用の固形スープですから、

味なんて無いに等しいのですけれど、どうか一時のことですからご容赦ください」

わたしは、ただ首を振る。食べたくない。何も口にしたくない。何も、いらない。

……何も、考えたくない。

もう何も、何一つ、知りたくない。

「いけませんよ、殿下。丸一日以上なにも食べても飲んでもいないのですから、せめて

水分は取っておかないと。暖かいスープで身体を温めましょう。ね?」

わたしが首を振っても、ギーゼラさんはそのまま眠っているフリン・ギルビットを踏まない

ように気をつけながら乗り越えて馬車から降りていった。

まるで現実感がなかった。起きているはずなのに、夢の中にいるみたいにぐるぐると目

が回る。

寒い馬車の中で、薄暗い馬車の中で。

こんなのは、全部悪い夢だ。

だってその証拠に、あれだけ泣かないでおこうと何度決めても勝手に零れ落ちた涙が、

今は全然出ないじゃない。心のどこかが夢だとわかっているから泣かないんだ。

こんな酷い夢を見るなんて、きっと今日本にいるんだろう。眞魔国だったらいいのに。

そうしたら、目が覚めてすぐコンラッドが迎えにきてくれる。まだ朝も早い時間だったら

わたしからコンラッドの部屋に押しかけて、起こしてごめんなさいと謝りながら抱きついて、

コンラッドの暖かさを感じて安心できるのに。

夢の話をしたらコンラッドはきっと苦笑して、「ひどいな、は俺のことが嫌いなの?」

と冗談のように聞いてくる。だからわたしは慌てて違うよと否定するんだ。

違うよ、大好きだよ。だから側にいなくて不安だったの。寂しかったの。

そう言って、夢の内容を思い出して泣き出してしまったならコンラッドは優しく涙を拭って

くれるだろう。抱き締めて、ここにいるよとキスをくれるだろう。

……すべてが夢だったなら。

「はーい、スープのお届けだよー」

ドアを開けて入ってきたのは、ギーゼラさんじゃなくて村田くんだった。

「ここは選手交代、ムラケンズの村田くんの出番かなーと思ってね」

村田くんもフリン・ギルビットを踏まないように跨いで、さっきまでギーゼラさんが座って

いたところに腰を降ろした。

「はい、スープ」

暖かそうな湯気の立つカップを差し出されて、受け取る気になれないそれを、ぼんやり

と眺める。

「……まるでまだ夢の中って顔だねえ」

そんなことはない。夢だったらと思っているだけで……すべてが夢だったなら。

「全部受け入れて、泣いちゃったら?」

受け入れて。

全部って、何を?

泣く?

どうして。

だって、泣いたりしたら、それはまるで。

「今、目の前の現実が現実でないのなら、どうしてそんな筒を後生大事に抱えているん

だい?スープを飲むのに邪魔だろうから、ほら僕が持っててあげるよ」

村田くんの手がわたしの抱える筒を掴んで、一瞬頭が真っ白になった。

触らないでっ!

声が出なくて、代わりにそれ以上に激しくその手を拒むと、身体で隠すように抱え込ん

でシートに身体を倒す。

触らないで。誰も触らないで。

これは……これは………。

「……僕はね、君とウェラー卿がどういう関係だったのか、言葉でしか聞いていない。

だから、きっとこの中で唯一君に優しくないことができるんだと思う」

ぎゅっと目を閉じて、ただ筒を抱えているわたしの反応があろうとなかろうと、村田くん

は淡々と、抑揚もなく続ける。

「みんな君が可哀想できついことなんて言えないよね。甘えるなとか、今はそれどころ

じゃないんだとか。だから敢えて僕が言う。君がそうやって甘えていられるのは、君が

お姫様だからだ。そうじゃなかったらこんな切迫した状況で、そんな自分で自分のこと

すらできないような足手まといは、捨てて行かれたって仕方がない。渋谷だってフォン

ビーレフェルト卿だって他のみんなだって、ウェラー卿と親しい仲だ。だけど耐えている」

わかってる。そんなの全部わかってる。

だけど、じゃあどうやったら受け入れられるの?

こんな……。

「声を上げて泣くといい。大声を上げて、泣き喚くんだ。恥ずかしいことなんかじゃない。

それは当然のことだ。誰も笑わないし、怒らない。もし、それをしたくないなら……でき

ないというのなら……彼の死を受け入れられないのなら」

勝手に手が動いて、馬車の中に乾いた小さな音が響いた。

「コンラッドは、生きてるっ!」

ひび割れたような掠れた声で、シートから身体を起こした片手にしっかりと筒を抱えた

まま、片手は掌がじんじんと痛んだ。

痛んで、熱を持ったように熱かった。

村田くんは、叩かれた頬を擦りもせずに、にこりと笑って殴られた衝撃でも中身を零さ

なかったカップを差し出す。

「もし泣けないのなら、そうやって信じているといい。みっともなくてもいい。見苦しくて

もいい。しがみ付いて、希望を追い続ければいい。だから、夢だとか、嘘だとか、目を

逸らすことだけはしちゃいけない」

彼を叩いて、熱を持った手に、カップを握らされた。

村田くんは嘆くようにそっと溜息をつく。

「君を心配するあまり、渋谷も昨日は何も食べられなかったんだ」

「ゆー……り、が……?」

薄く濁ったようなスープの温かさがじんわりと伝わってくる。

「泣いて受け入れるか、希望を持って前を向くか。どちらでもいい。両方を選択したって

構わない。今のつらい状況を盛大に泣いて、それから希望を探したっていいんだから。

だからどうか『今』を否定しなでくれ。君がそうやって目を逸らせば逸らすほど、渋谷も

苦しむ。……そうして、君の傷も広がるんだよ、

カップを握らせた手を、上からさらに力を込めてわたしの方へ押しやってきた。

「飲んで。泣くにも、立ち上がるにも、力が必要だから。………渋谷にも、必要だから」

押し付けられたカップを握り締め、少し傾ける。

口の中に流れてきたスープは、まるでお湯を沸かしただけのような口当たりで、味は

塩を混ぜたようなものだった。

でも温かかった。

喉を通って、胃に流れて行くのがはっきりとわかる。

「……泣く必要は、ないの」

声が出なかったのも、絞り出した声がひび割れていたのも、どうやら乾いていたせい

だったみたいで、一口スープを飲んだだけで詰まらずに喋ることができた。

村田くんは微笑んで、それから頷いた。

「そう。じゃあ立ち上がろうか。希望を探しにね」

「うん。だからその前に、有利にも何か食べてもらわないと」

頷いて、スープをもうひと口飲み込んだ。

力が……必要だから。

わたしにも、有利にも。





「こういうときは炊き出しかな」

「いいねえ、気分が落ち込んでいるときは温かいものが一番だ。冬が近くて冷えてるしね。

心も身体も寒さ対策をしなくちゃ」

街の惨状を眺めてわたしが呟くと、隣を歩いていた村田くんは顎を撫でて頷く。

「取りあえず簡単に出来るスープか何かがいいかな。具にジャガイモとかあれば胃にも

溜まっていいんだけど。大鍋も必要だな」

「うん、具があれば確かに一番いいけど、最初は塩味だけのスープでもどうにかなるよ」

フリンに声を掛けようとしていた村田くんが驚いたように振り返って、わたしはゆっくりと

笑った。きっとまだ無理をしたように引き攣っているだろうけれど、それでも笑うようにと

思うことが出来た。

「叩いてごめんね」

そっと頬に手を当てると、村田くんは苦笑して首を振る。

「謝られるようなことは、何も」

「じゃあ、ありがとう村田くん」

「立ち上がったのは、君自身の強さだよ」

村田くんは、そっと微笑んで頬を撫でたわたしの手を取って握った。

「いや、君のウェラー卿を信じる絆の強さかな」

「それなら、有利にだって負けないつもり」

泣きそうになる。

でも、まだ泣かない。

筒を抱き締める手にぎゅっと力を入れる。

あなたと会える日まで、まだ泣かない。







絶望の中でどうにか立ち上がれるとしたら、それは側に大切な人がいるからかもしれませんし、
絶望したくないからかもしれません。その両方も場合もあるかと。




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