「あの鍵は……違うのよ……」 フリン・ギルビットがわたしの横に膝をついて崩れ落ちると、その腕とわたしの腕を上に 引っ張り上げる手がある。 「座り込んでる暇はないぞ!少しでも地盤の固いところへ逃げるんだ!」 村田くんがわたし達ふたりの腕を掴んで、箱を睨みながらどこかへ引っ張っていこうと する。 「待って!コンラッドの腕が……っ」 村田くんの向かう方向では箱から遠ざかる。逆らって箱の方に行こうとすると更に強く 引かれた。 「今は命を優先するんだ!」 柵の向こうにいた見物人の方から、年老いた女性の悲鳴が聞こえた。 066.開かれた箱(3) 真っ直ぐ南から北に向かって、地割れと隆起が不規則に起こった。法術士の作った壁 など、まるで意味をなさず、柵の内側へもすぐに地割れが広がる。 「!村田、フリン!」 有利とヨザックさんが立つ場所との間に亀裂が走り、慌ててそちらに飛び移る。隆起の 少ない場所は、比較的揺れも少しマシだった。この下の岩盤が少しは固いのかもしれ ない。 兵士も囚人も見物人も関係なく、みんなが逃げ惑い、幾人もの人が地割れに飲み込ま れていく。 「村田!なんとかしてこの地震を止める方法はないのか?一人でも多く助けないと!」 ようやくどうにかまともに立てる場所に辿りつくと、更に安全な場所に逃げようとするより も、有利は地割れの場内を振り返って村田くんを掴んで揺さぶった。 「……残念ながら僕にも判らない」 「そんな……」 「単なる法術士の起こした地震なら、そいつを倒せば止まるよ。でもこれは箱を開けた 報いだ。『地の果て』に封じられた地の創主の一部が、勝手に暴れ回ってるんだ」 「なにか方法は……」 「正しい鍵を身体に宿す者が、正しい手順を踏んで開けたなら……あるいは箱の中身 を制御できたかもしれない……あくまで、かもしれないって話だけど」 「じゃあこのまま見てろってのか!?」 有利が激昂すると、村田くんは困ったように有利を呼びながら、ちらりとわたしを見た。 「……あの箱の製作者、もしくは封じた本人なら、治め方が判るかも……でも、無理だ。 どちらもとっくの昔に死んでいて、一人は眞魔国から遠く離れたここまでやってこないし、 一人はまだ思い出せないみたいだ」 「このまま全員が地割れに飲み込まれるしかないのかよ!?」 「待つしかない。とにかく地面の固いところで、地割れに飲み込まれないようにするんだ。 運が良ければこの場所に飽きて、別の土地に向かうだろう。もっと良ければ暴れ回る事 にも飽きて、休火山みたいに鎮静化するかもしれない……でも恐らくは半永久的に破壊 を続ける。そうなったらこの大陸はもう駄目だ」 そう言っている側から足下に細かいひびが走った。できるだけ安全な場所を求めて移動 しながら、有利は拳を握り締めて繰り返す。 「……何か、何かできることがあるはずだ。完全に止められなくてもいい、少しでも被害を 少なくできれば……」 フリン・ギルビットが突然危険な場所へと踵を返して走り出した。 「フリン!?」 有利と一緒に振り返れば、今にも崩れそうに揺れている場所に子供が五人、取り残され ていた。 「!」 有利の声を背中に聞きながら、わたしもフリン・ギルビットの後を追う。なにかを考える 余裕もない。ただ身体が勝手に動いた。 「陛下はここに!殿下、戻ってっ」 ヨザックさんの声が後から追ってくる。フリンと一緒に子供の所までたどり着いて、泣いて いる子供の手を握る。 「泣いてないで、走るのっ!こっちよ!」 小さい二人の手を引こうとしたら、横からひょいと軽く抱え上げる大きな手が。 「もう、陛下も殿下も無茶ばっかりされるから、オレの寿命は縮みっ放しですよ。子供は オレに任せて、ご自身のことだけに集中してください」 二人を両脇に抱え、一人に背中を向けてよじ登らせると、ヨザックさんはひょいとひびを 飛び越えた。 フリンとわたしは大きい子の手を一人ずつ握って、ヨザックさんの後に続こうとしたその 瞬間に一段と大きな揺れが来た。 「きゃっ……!」 地面に転がらないように体勢を低くしてバランスを取ろうとしたら、後ろから小さく鋭い 悲鳴が聞こえた。 振り返るとフリンと子供が転がった地面が崩れかけている。 「あなたはあっちに!頑張って一人で行って!行けるわね!?」 わたしが手を握っていた子にそう言うと、その子は震えながらも頷いて有利達の方に 転ばないように少しずつにじり寄って行く。 先にフリンと一緒にいた子供の方に手を貸してわたしの側に引き寄せると、その子に も同じように一人で行ってもらう。 「さあ、フリン。あなたも……っ」 大きくはない、だけどもう一度来た揺れで、崩れかけていた地面が完全に崩れる。 伸ばした手が辛うじて間に合って、フリンの腕を掴むことが出来た。 「……痛っ……」 割れた岩盤に腕を擦ってじわりと熱くなる。皮膚が裂けて血が滲み出した。 「どうして……」 「い……から……上がってっ……」 「無理よ!どうして私を助けるの!?私はあなた達を利用しようとしたのよ!?」 「そんなの知らないわよ!」 服が血を吸ってじわじわと広がっていく。切り傷は痛いし、肩も肘も悲鳴を上げている。 少しは鍛えてるとはいえ、人ひとりの身体を支えるだけの力はないから。 「どうして助けるって!?そんなのわかんないよ!でも手が届いたんだもの!この手で 掴めたんだもの!今度こそ離したくない!」 今度こそ。 ああ、そうか。 わたしが掴みたかったのはこの腕じゃない。 でも、そうだね、それでも離したくない。 ……この手が届いたのに。 「いい……から……どこか足……かけて……登る努力、しなさいよっ」 「だから無理なのよ……!もう離して……」 「ぜーったいにイヤッ!意地でも離さない!」 意地でも離したくないのに、痛みと重みで手がぶるぶると震える。おまけにそのお陰で 血が腕を伝わって、掌の方へと流れていって握り締めた手が滑る。 ずるずると少しずつ彼女の腕がわたしの手から滑り落ち始めて、最後の指が外れそう になったとき、地割れの底から急激に水が湧き上がった。 「うわっぷ!」 湧き上がった水はわたしが腹這いになっていた地面まで覆い尽くして、お陰で完全に 水に飲み込まれてしまった。ばしゃばしゃと激しい水音に、慌てて流されていくフリンの 方へ泳ぐ。彼女は泳げないって言ってたっけ。 「落ち……ついて!今、掴むから……暴れないで!」 水難救助では溺れた人にしがみつかれて一緒に溺れないように、後ろから引き寄せる のがベストだったはず。 ちょうど彼女が後ろ向きになっていたので、襟首を掴んで引き寄せた。 水には流れがあったので、力を抜いて身を任せたら落ちたのとはまったく別の岸に流れ 着いた。よかった、服を着て二人分泳げと言われても不可能だったよ。 先に彼女を岸に押し上げて、腕の痛みをおしてわたしもどうにか這い上がった。 「この水は……」 「有利だよ……」 地割れに飲み込まれてかけていた多くの人が同じく水に受け止められて、水上を漂って いた。流れは緩やかなので、落ちついてさえいえればフリンのように泳げなくてもどこか に辿りつけるはず。 「青い澄んだ水。水の要素を感じる。魔術だよ。こんなことできる人、有利しかいない」 「大佐が……」 でもこんな法術士がたくさんいる場所で、魔術なんて使えないと村田くんが言っていた のに。どんな無理をしたんだと有利を探して首を巡らせる。水に流されたせいで、自分 の位置を見失っていたから、有利達がどこにいるのかもわからない。 揺れは治まる気配がなく、新たな地割れが出来ている。だけどさすがに新しい地割れ までは水が浸透していくことはない。 「あそこ!」 フリンの悲鳴に振り返ると、有利が崖にぶら下がっていた。 「有利っ!!」 今はまだどうにか両手で地面の端を掴んでいるけれど、このまま揺れが続いたらどう なるかわからない。 慌てて水に飛び込んで、流れに逆らって少しでも有利に近づこうと懸命に泳いだ。 だけど、ここからではあまりにも遠すぎる。濡れて水を吸った服は重くわたしの動きを 阻んで思うように泳げない。 確かにフリンの腕を離したくなかった。それを後悔したいとは思わない。 だけど、大事な有利があんなことになっているのに、わたしはこんな遠くで一体何を やっているの!? どうにか向こう岸まで泳ぎ着くと、よじ登るようにして岸に這い上がる。 「!」 村田くんが腕を引っ張って岸に上がる手助けをしてくれた。 「村田くん、有利が!」 「わかってる!だけどここからどうやれば……」 岸について愕然とした。有利のいる崖まで二十メートルくらいの幅があったのだ。 ヨザックさんがどうにかして向こうへ渡る術を探しているけれど、どうすることもできない でいる。 「有利がしたことを……!」 同じことをすれば、有利を助けることができるはずだった。だけどわたしが集中する前 に村田くんが悲鳴を上げた。 「だめだ、間に合わないっ!」 有利の身体ががくんと下がって。 落ちる前に、誰の手が有利の腕を掴んだ。 空を覆う分厚い雲の隙間から差した夕陽が、その金の髪を照らして反射する。 「ヴォルフラム!」 遠目でその姿を見ただけなのに、どっと胸に熱い何かが押し寄せてきた。 ヴォルフラムは上体を乗り出すようにして有利を支え続け、わたし達がハラハラと見守る 中、二人はどうにか崖を上がった。 わたし達三人は揃って、深い息を吐いて地面に座り込む。 「よかった……」 村田くんの呟きで、今頃になって有利を失ったかもしれない状況だったのだと実感した ように本当の震えがやってきた。 「ああ……有利っ……」 よかった……ヴォルフラムが間に合って、本当によかった! だけど揺れはまだ治まったわけではない。どうにかして有利達のところに行きたいのに、 いつまた新しい地割れが起こるかと思うと、落ち着いてその方法を探す余裕もない。 「『地の果て』を止めないと」 同じことを思ったのか、村田くんが振り返った先にあの木箱があった。 「でも、方法がないってさっき……」 「僕は、正しい封じ方を知らされていない。だけど君ならわかるかもしれない」 「わ、わたしが!?」 「猊下、それは一体どういう意味で……」 こっちの世界のことだってまだ勉強中のわたしが、一体どうやってそんな箱の仕組み がわかるというのと悲鳴を上げると、ヨザックさんも戸惑ったようにわたしと村田くんを 見比べる。 「だって君は、あの箱を作った者の魂を持っているんだから」 |
兄妹揃って危機一髪。とはいえまだ危機的状況は続いていますが……。 |