誰、なんて聞かれても答えは渋谷ですとしか言いようがない。 「ひとりしか生まれないはずって、なんて言い草だよ。おれとはお袋の腹ん中でも一年 近く一緒にいたんだからな!失礼にもほどが……あいてっ」 抗議しようとしていた有利がまた急に頭を抑えたから、びっくりして覗き込んだ。 「有利?」 痛みを堪えるように、こめかみを押さえて顔をしかめている。 「渋谷、興奮したらダメだよ。恐らくだけどね、あの壁際の辻坊主みたいな連中が電波と 言うか念波と言うかまあ、そういう感じのを出してるんだ。リラックス、リラックス」 この状況でリラックスって。 大物なアドバイスに呆れて振り返ると、村田くんは困ったように眉を下げて頭を掻いた。 「ごめんね、妹ちゃん。今はそれどころじゃなかったよね。ずっと気になってから、つい」 「気になってるのはお互いさま」 村田くんはまったくだと苦笑した。やっぱり何か隠してるわけね。 066.開かれた箱(2) 今は、と言ったように村田くんは後でまた追及してくるだろうけど、やっぱり答えられること なんて何もない。だって、知っている人は教えてくれないし、そのうち思い出すとか言われ たけど、まだ全然だし。 こっちだって聞きたいことは山程ある。というよりまた増えた。とはいえ。 「永遠の覇権を約束する大いなる力、『地の果て』が国家の財産となった、この素晴らしき 日に、我等が慈悲深きサラレギー陛下は、諸君等に恩赦をお与えになる!」 わたしの疑問も村田くんの疑問も、絶好調の演説が続けられているこの場から抜け出さ ないことにはゆっくり話し合うどころじゃない。有利の様子も悪くなっていく一方だし。 「恩赦……恩赦ねえ……」 村田くんが難しい顔で、恩赦と聞いて活気づいた囚人達を見回した。 「なに?」 「恩赦で釈放なり、減刑なりするなら、どうして身元不明の人間まで連れて来るんだろう。 だって僕等は取り調べのために捕まったんじゃなかったっけ?」 「言われてみれば、確かに」 「さて、そこで諸君等には小シマロンの為、サラレギー陛下の恩為に働けるよう名誉ある 要職を用意した。大いに力を発揮し、役に立って欲しい」 ヨザックさんの向こうでフリン・ギルビットが息を飲んだ。 「どうして箱が……なぜ、小シマロンに……」 絶好調演説中のナイジェル・ワイズ・マキシーンの後ろにあった馬車が開き、中から両手 で抱えるほどの円形の筒と大きな木箱が運び出されてきた。八方十二辺は錆びた鉄で 縁取られ、施された彫刻も見えないほどに湿気でボロボロに劣化している。 だけど、わたしはあの箱を知っている……? 「じゃああれがフリンの言っていた『風の終わり』?」 有利が痛みに顔をしかめながら呟くと、村田くんが首を振った。 「違う、あれは……」 「『地の果て』」 そう、頭の中で声が聞こえた。 まっすぐに箱を見たまま言い切ったわたしに、横から有利と村田くんの視線が集まったの がわかったけれど、箱から目が離せない。 箱と……筒から。 ドクドクと嫌な鼓動が心臓を叩いて、胸がざわつく。あれは一緒にあってはならないもの だ。何故かはわからない。だけど、そう感じた。 そしてこんなにも嫌な感じがするのに、どうして古ぼけた恐ろしいはずの箱が懐かしいん だろう。 「…………君は……そうか…………あなたか」 村田くんはぽつりと呟いて、それから有利の肩を叩いた。 「の言う通り。あれは『風の終わり』じゃない。『地の果て』だ。まさかもう二つも人間 の手に落ちていたなんて」 「ちょっと待て。なんで村田が……いや、ある意味が箱のことを知ってる方がショック な気もするけど……ええっと、違う。でも箱は大きい方のシマロンが手に入れたってこと じゃなかったっけ?それともそんなに簡単に手に入るもんなの?」 「簡単じゃないわ。いくつもの国が競い合って、何十年も探し続けていたのよ。でもこんな に立て続けに人の手に落ちるなんて……箱と鍵を持つのは大シマロンだけだと思って いたのに」 だけどそんなフリン・ギルビットの考えはすぐに覆された。演説者が筒の方を捧げて蓋を 開ける。 「幸いなことにこうして鍵も手に入った。あとは箱の効果を憎き魔族共に見せつけ、奴ら の無力さを思い知らせるだけだ。諸君等には勇敢な戦士としての誇りを持って大いなる 力に抵抗し、いかな方法で挑もうとも、太刀打ちできるものではないということを、その身 を以って証明してもらう。サラレギー様もお喜びになられることだろう!」 「実験台にしようというの!?私達を、お父様の育てた兵士達を!」 フリン・ギルビットの怒りに満ちた悲鳴が、囚人達にようやく事態を悟らせた。怒号と動揺 が一斉に広がる。 だけどナイジェル・ワイズ・マキシーンは、騒然とする囚人達など気にも留めずに重々しく 言い放った。 「小シマロンのために、命を捧げよ」 「ちょっと待てーっ!」 例によって例の如く、さっきまでぐったりしていたはずの有利が理不尽な言いように耐え 切れずに飛び出してしまった。 わたしと村田くんとヨザックさんは同時に額を押さえる。 「黙って聞いてりゃ勝手なことばっかり言いやがって!それが本当に本物の最悪な『箱』 なら、絶対に触れちゃならないって聞いてるはずだろ!?」 「……まあ、でも、今回は黙ってたってどうしようもないしね」 村田くんが肩を竦めて、わたしとヨザックさんとフリン・ギルビットが有利を追って人をかき 分けて進む。 ……村田くんはその出来た道を後からついてきていた。 「どこかでお会いしたと思えば、ギルビット家の客人だな。その節は非常に世話になった。 まだ傷も痛んでいる」 「そりゃ悪かったね!」 「しかもギルビットの奥方までおられる。……いやそんなはずはないな。フリン・ギルビット は女だてらに夫に成り代わり、領地を治めていた勝気な貴婦人だ。目の前にいる薄汚い 娘が、カロリアの奥方のはずはなかろうな」 冷酷な瞳でジロリとわたしと村田くんも一瞥して、またフリン・ギルビットに視線を戻した。 確かにフリン・ギルビットは今、安物の男物の服を着て、更に緑色の川の水でずぶ濡れ にはなっているけれど、誇りと信念までは失っていない。今から禁忌の物に触れて大勢 を虐殺すると宣言した男に、薄汚いとまで言われる筋合いはない。 「私がどう見えようとも構わない!でも戦場でもないのに箱を開けるのはやめて!」 「そうだ!いくら敵国の兵士だからって、終戦後にこんな目に遭わせるのか!あんた達 普通じゃないよ!人権とか人道的扱いとか全部無視かよ!?」 有利が続いて異議を申し立てると、マキシーンは軽く眉を上げて唇を歪めて笑う。 「黒い髪と黒い瞳、稀有な存在といわれる双黒の魔族が、何故ここにいるのかは知らん がな」 魔族と聞いて、周囲にいた囚人達が一斉に後ろに下がった。わたし達五人と一匹だけ が残される。 「そこまで言うなら、先日の恐ろしい魔術を使ってこの私を止めてみるがいい。あの恐ろ しい力を以ってすれば、この腕を引きちぎるくらい、容易いことだろう」 腕……を。 嫌な予感で足が震える。心臓がうるさいくらいに早く高くなり、気分が悪くて吐きそうに なる。 腕を。 あのとき地面に転がった、あの腕を。 わたしは。 ナイジェル・ワイズ・マキシーンが持っていた筒を傾け、そしてそれを掲げ上げた。 半分近くが焼け焦げて黒くなった、それを。 足が勝手に地面を蹴る。 ただ奪い返そうとがむしゃらになって走っていた。 「返せっ!!」 伸ばした手は、だけど横から振り上げられた槍の柄で地面に叩きつけられて、転がった 地面の土を掴むだけだった。 「返せっ!返してっ!」 頭を地面に押さえつけられて、背中に捻り上げられた腕が痛い。 頬を土と岩盤に擦りながら、首の筋を痛めるくらいに力を込めて、どうにか顔を上げよう ともがく。 焦げていても判る。あの服も、何かを掴もうとしていたように曲がったままのあの指も、 間違いない。 コンラッドの腕だった。 何度もわたしを助けてくれた腕。 ずっとわたしを抱き締めてくれていた腕。 「返してっ!それはコンラッドの腕よ!」 「殿下っ!」 わたしを上から押さえつけていた力が消えて、すぐに起き上がって走り出そうとしたら 後ろから羽交い絞めにされて引き摺り戻される。 「離してっ!取り返すの!コンラッドの腕なのっ」 「落ち着いてください、殿下!隊長の腕ってどういうことですか!?」 「返してっ!返してよぉ……」 どんどん後ろに引き摺り戻されて、暴れても外れないその腕にうな垂れてしまう。 怒りと、悲しみと、悔しくて、それから怖くて、何もかもがぐちゃぐちゃに混ざってわけが わからない。ただ涙が滲む。 だけど泣いちゃだめだ。泣く前に、することがある。 コンラッドの腕を取り戻すの。 あのとき、確かに、わたしは魔術を使えた。 あなたの腕を引きちぎってみせろと言ったわね?ナイジェル・ワイズ・マキシーン! 「風に属する全ての粒子よ!」 「駄目だ、!今の君は魔族だ!この場所で魔術は使えないっ」 村田くんの声が聞こえた。 でも関係ない。 「渋谷ですら術を使えない!やめるんだっ!」 風が動いて、羽交い絞めにされたまま掌に集中して。 「グリエ・ヨザックまで巻き込むつもりか!?」 びくりと震えて、息が詰まる。 「そんな密着した状態で、無理してかき集めた要素で風の魔術を使ったら、下手をすれば 発動前に彼も巻き込む。こんな法術に満ちた場所で魔力コントロールするなんてできない だろう!?」 風が止んだ。 わたしがうな垂れて大人しくなったのを確認してから、ゆっくりと地面に降ろされた。 魔術を発動しようとしたあの爆発するような混乱した感情が、無力感と怒りに集約されて くると、ひどい吐き気と頭痛が襲ってきた。 眩暈がして立つことも出来ずに座り込んだまま上体を折って地面に爪を立てる。 まるで上から鈍器で後頭部を殴られているような、重く激しい痛みが何度も波のように 襲ってきた。 「渋谷、。ここでは魔術は使えない。ただでさえ魔族に従う者がいないのに、あそこ の法術士たちがこの場所をシールドしているんだ」 地面に這いつくばるわたしの背中を、そして頭をそっと撫でる手がある。 ヨザックさんの大きな手でも、バットを握るタコが出来ている有利の手でもない。 村田くんの声は、もっと上から聞こえた。 「魔力は使えない、戦闘要員はグリエ・ヨザック一人。この戦力差で力尽くでは奪い返せ ない。とにかく使用を思いとどまらせるしかない」 ではこの手は、フリン・ギルビットの手だろう。 濡れて体温が下がっている手は冷たいのに、なぜか少しだけ暖かい気がする。 頭痛はまるでよくなる気配がないけれど、吐き気だけはどうにか緩やかになってきて、 土を掻きながら身体を起こした。まだ眩暈は治まらない。 「……くそ、痛ぇ……あれは……コンラッドの左腕だ……」 霞む視界で有利の声にゆっくりと振り返ると、有利も苦痛に頭を抑えながら前の壇上を 睨みつけていた。 「殿下も同じ事を……お二人の見間違いじゃ……一体、本国で何が起こったんです!?」 「間違いないよ……おれが見間違えるはずがない。おれじゃ信じられないってなら、が 見間違えるはずがない。だってそうだろ?婚約者の腕だ」 痛みではなくて、涙が滲む。 婚約者の、コンラッドの、腕。 こんなに近くにいて、取り戻すことすら出来ずに。 「待って。コンラッドって……その人はウィンコットの毒で操れるように、大シマロンの弓兵 が射たはずよ!?」 ぎょっとしてフリン・ギルビットを振り返ると、急に頭を振ったせいで痛みが激しくなった。 わたしの視線を受けて、フリンはきゅっと唇を噛み締めて目を逸らす。 「……腕を切り落としてしまったら意味がないわ……」 「撃たれたのはコンラッドじゃなくてギュンターだぞ……じゃああれはコンラッドを狙った 矢だったのか!」 聞きたくない言葉ばかりがずっと続いて耳を塞いでしまいたくなった。 ウィンコットの毒……鍵……弓……狙って……矢、が……。 「やめて!その箱の鍵じゃないわっ!」 フリンの声に壇上に目を向けると、既に箱の蓋は開いていた。だけど何かが溢れ出す という気配はまだない。 ……コンラッドの腕……を、箱に入れようとしていた手が止まる。 「なんだと?」 「ある男の左腕は『風の終わり』の鍵よ!『地の果て』の鍵はある血族の左眼と聞いて いるわ!異なる鍵で箱を開ければ、誰にも暴走は止められない」 「サラレギー様がお試しにならなかったと思うか。該当する者の左眼球はすでにスヴェ レラで試みた。だが男の顔が焼けただけで、何の変化も起こらなかった。ならば大シマ ロンが試そうというこちらの鍵を先に試させてもらうまでだ」 「やめろ!」 村田くんまでが、大きく腕を振って叫んだ。 「迂闊に奴を解放したら取り返しがつかなくなるぞ!この場の人間が死ぬだけじゃ済ま ない!下手をしたら大陸中が箱の脅威でズタズタにされるぞ!あれは誰かの手でコン トロールできるものじゃない、鍵を身体に持つ者だけが、封じた創主を再び治められる。 そういう風に作られたものだ!」 マキシーンは、村田くんとフリンの言葉を鼻で笑うと箱の蓋を閉めた。 「私はサラレギー様の命を行うだけだ。結果は誰にも判らんよ」 掛け金の落ちる金属音が、響き渡った。 |
コンラッドの腕が箱の鍵……蓋は閉じられてしまいました。 |