何度も何度も言い聞かせるように繰り返して、ようやく普通に呼吸ができるようになって

きた。

村田くんがギルビット邸で会ったのがコンラッドじゃなかったからといって、何が変わった

というわけじゃない。

それならやっぱり眞魔国でわたし達を、有利が帰って来るのを待っているんだ。

……絶対に。






066.開かれた箱(1)






囚人達と一緒に小シマロンの兵士に追い立てられて、午後の時間をずっと歩き通した。

気温は低く、天候も悪い。こんな中で有利と村田くんとフリン・ギルビットは川に落ちて

びしょ濡れになっていた。風が吹くほどに体温が落ちていく。

「坊ちゃん方、その外套は脱いだ方がいいですよ。ほら預かりますって」

ヨザックさんが三人にコートを脱がせたものの、その下までしっかり水は染みていた。

隊長さん達がフリンを心配して真ん中を歩かせてくれたけれど、人の壁だけでは風を遮る

のには不十分だ。

「有利、これ着て。村田くんはこっち」

ヨザックさんは囚人服一枚だから、わたしのコートを有利にかけて上着を村田くんに押し

付けると、有利はコートをフリンにかけて、村田くんは上着をわたしの肩に返してきた。

「あったかくするなら、女の人の方が優先だって。冷えは女性の天敵だろ。ほら、これで

もおれは身体も鍛えてるしさ」

「僕は鍛えてないけどね、コートも上着もというのは脱ぎすぎ」

「でも、わたしは濡れてないからまだましだし……」

「だめ」

二人に同時に怒られた。

せめて着替えがあればいいのにといらいらしながら長い行進の果てに着いた先は、低い

柵に囲まれた円形の施設だった。

敷地は結構広く、有利なら野球場に例えそうなくらいはある。ただし、芝なんてものはなく

て砂埃の舞う地面だけだ。有利がつま先で軽く砂を蹴ると土の下からすぐに硬い岩盤が

見える。

「質悪いね。ほとんど岩だよ。こんな場所でスライディングの練習したら、恐らく腹まで擦り

むいちゃうよ」

やっぱり野球で例えるし。

柵の向こうには何かの見物でもするかのように人がたくさん並んでいる。

わたし達は集団でそのまま柵の中に追い立てられて、入り口が閉められた。

壁際には僧衣を着た人が等間隔で並んで立っている。フードを目深に引き下ろし、兵士

とは違って剣も槍も持っていない。

「なんだか品評会でもされてるみたいな気分……」

「なーに、たぶん彼等の目的は僕達じゃなくて、僕達がどうなるかじゃないかな」

「余計に性質悪いよ。なんでムラケンそんなに落ち着いてんの?」

「パニックになってほしいかい?」

「そういう意味じゃなくてさー……本当に高校生?」

「そりゃそうさ。君とは違う高校だけどね。知ってるだろ」

「知ってるけどさー……」

有利が僅かにつまづいて、慌てて支えて顔を見上げたら真っ青になっていた。

「有利、調子悪いの?やっぱり風邪引いちゃったんじゃない?」

「かもなー。さっきから悪寒がするし、頭が重くてたまんねー」

「やっぱり上着を」

「いいって」

上着を脱いで肩にかけようとすると、有利はそれを押し返してヨザックさんの後ろに逃げ

てしまった。心配してるのに。

「……君は平気なの?」

隣で腕を擦りながら村田くんが首を傾げる。

「だから、わたしは濡れてないでしょ。もう、有利は全然言うこと聞いてくれないし。村田

くんいる?」

「いいよ、妹ちゃんが着てなよ。三人揃って風邪を引く方が目も当てられない」

「村田くんも風邪の症状出てるの?頭痛い?」

村田くんは両手を擦り合わせて足踏みしながら苦笑した。

「風邪は引きそうだけどね……渋谷の言うような痛み方じゃないかな。僕はそういうの、

鈍く出来てるから」

「は?」

「……君が鈍いのはどうしてかな」

「それは一体どういう……」

「どうしたの大佐、ねえ……」

フリン・ギルビットの不安そうな声に振り返ると、有利が頭を抑えてヨザックさんに抱えら

れていた。

「有利!?」

「平気、大丈夫。……ちょっと耳鳴りと、頭痛がひどくなっただけ」

有利を覗き込んでもそんな風に弱々しく微笑んで心配ないと首を振る。無理して笑わ

なくていいから、つらいならつらいと言ってくれたらいいのに。

ヨザックさんが有利に肩を貸してもたれられるようにすると、自力で立つより少しだけ楽

になったみたいだった。

「ああ、早く暖かくして栄養を取らなくちゃいけないのに」

「術が始まったんだ」

小さな呟きが聞こえて村田くんを返り見る前に、わたし達が入ってきた柵とは違う、木製

のドアが開いて紋章つきの豪華な馬車と五、六人の騎兵が入ってくる。

「あっ」

国旗のようなものという髪型とヒゲはみんな同じだけど、最後尾の騎馬の人には見覚え

がある。

「マキシーン……」

フリン・ギルビットの声は不安と緊張に掠れていた。





「さて諸君。まずは喜ばしい事実を伝えよう」

ナイジェル・ワイズ・マキシーンが枯れた渋い声で、ゆっくりと威圧するように話し始める。

「諸君は先の戦で我等小シマロンと敵対した者達だ。もし魂が軍人のままならば、虜囚

と成り果てつつも生き延びる無惨な我が身を憂えぬ日はないに違いない」

「軍国賛美主義……。死んで花実が咲くものかって言葉を知らないのかしら」

「だって日本人じゃないだろ、彼」

どこの国だってきっと似たような諺とか慣用句はあるよ、きっと。

それにしても、さっき彼等が入ってきてから、妙に落ち着かない。顔を知られている相手

に見つかる心配をしているというよりは、懐かしいけど不愉快な感じというか、胸の奥が

ざわざわと気持ち悪い。

雰囲気を出して演説中の人じゃなくて、その後ろにある馬車がどうにも……。

「ところで諸君は労働に従事する日々とはいえ、現在この小シマロンを始め、シマロン

両国を宗主とする大陸全域が、魔族との聖戦に向けて一丸となっていることはお聞き

及びだろう。その一翼を担う諸君にも、非常に関わりのある朗報がある」

「陛下、力を抜いてください。オレにもたれて」

ヨザックさんがこっそりと有利の肩を抱き直して囁いた。覗いてみれば有利は真っ青に

なって唇を噛み締めている。

「ちょ……もう座った方が……」

「いいえ姫。今、下手に動くと目立ちます。今から何をするつもりかはわかりませんが、

目立つととにかく一番に実験台にされちゃいますからね」

「長年探索し続けていたあるものを、ついに小シマロン王サラレギー陛下がお手にされ

たのだ。これは神からの授かり物だ!我等人間に大いなる力をもたらし、虎視眈々と

大陸を……いや全世界を支配し暗黒時代の到来を目論む、邪悪なる魔族を打ち倒す

兵器である!」

唖然として陶酔した演説者を見上げていたら、ヨザックさんは肩を竦めて、有利は悔し

そうに歯軋りをして堪えていた。

だって、確かに今までも魔族と人間は本当に仲が悪いのだと思うようなことはいっぱい

あったけど、邪悪って。ヴァン・ダー・ヴィーアでリック少年の時も思ったけど、偏見と思い

込みって恐ろしい。

おまけに、小シマロンの捕虜になって不満そうだった人達まで頷いたりしていて、フリン・

ギルビットは困ったように眉を下げてわたしと目が合うとすぐに逸らしてしまった。それは

恐れとか嫌悪というよりは、困惑のように見えたけど……。

「残念だ」

ぽつりと、誰に向けてというわけでもない呟きが聞こえた。

「非常に残念だ。だが仕方がない」

目を閉じて緩く首を振った村田くんに、有利が顔を上げる。

「……これが現実だよ、渋谷。平和とか平等とかって難しいね」

「なんだよお前、いきなり……」

ゆっくりと目を開けて有利の顔を見た村田くんはいつの間にコンタクトを外していたのか、

黒い瞳に戻っている。諦めたような表情で、でも少し悲しそうに眉を下げた。

「君はこの先、何度も裏切られるだろう。この先、何度もね。その度に傷ついていくんだ。

そうして君の民も夥しい血を流し、痛みを受けていかなくてはならないだろう。それを避け

られるか避けられないかは、国を統べる者の力量にかかかってくる」

今までも、村田くんの言動はずっと怪しかった。

本当にこの世界のことが何もわかっていないのか、ずっと疑問だった。

その答えが今、出ようといるんじゃないだろうか。

だって彼は今、有利に向かって「君の民」と言ったのだ。

「渋谷、きっと何度も傷つくよ。死にたくなるほど辛いだろう。慎重に且つ大胆に立ち回ら

なくてならない。実際に命を落す危険もある。大切なものを幾つも失って、後悔でどうに

かなってしまうかも。それを知っても君はやるのかな。立ち止まらずにこのまま走り続け

るのか?」

大切なものを幾つも失って。

耳に残った言葉はとても痛く、厳しいものだった。服の下の小さな袋を握り締めて地面を

見つめた。何も失っていない。わたしはまだ失ってなんかいない。

「……ああ」

有利の小さな、だけどはっきりとした声にゆっくりと顔を上げる。

「……そう、やるよ。辛いだろうけれど」

その強い瞳に。

どうしてわたしは俯いているんだろう。本当にコンラッドの無事を信じているなら、顔を上げ

て前を見ればいい。何を俯く必要があるんだろう。

―――でも、もし俺に何かあってもどうか心を強く持っていて。

まるで今の事態を予測していたようなコンラッドの言葉が胸に甦った。

わからない。本当にこんなことになると思っていたのか、もしもと思ったことが現実になって

しまっただけなのか、それはコンラッドに聞かなければわからない。

だったら聞けばいい。血盟城で、きっと傷の療養でベッドに縛り付けられているコンラッドに

心配したのだと泣きついて、わたしのせいで負った怪我を謝って……そして聞けばいい。

心を、強く。

しっかり顔を上げて、前を向きなさい、

「やっぱりね」

村田くんは有利の強い意志を込めた言葉に、苦笑して土を蹴った。

「こうなると思った」

「いつからよ!?こうなると思ったって?大体、いきなり何を言い出すんだよ?」

有利の動揺に肩を竦めるだけで、村田くんは穏やかに笑って空を見上げる。

「前にも一緒に旅をしたよ。乾いた土地を転々として。今のように誰かに追われて。渋谷は

覚えてないだろうけど、ちょうどこんな曇った夕暮れだった。君を連れた保護者はサボテン

の脇の岩に寄りかかって、雲に隠れた太陽の位置を目で探した。いつまで経っても夕陽

が差さないので、彼は君を目より高く持ち上げて、西の空に掲げてこう言ったんだよ……。

『太陽となりますように』」

わたしも有利も唖然として村田くんを凝視する。

有利を掲げて……保護者って……。

「僕の方の保護者はそれを聞いて、それは大喜びでね。逆の方に僕を掲げて言った。

『月となりますように』って」

「ちょちょちょ、ちょっと待て、待て村田!お前……それは一体いつの話!?年中聞いて

るけど、お前って本当は何歳?」

「なに言ってんだか。十六歳だよ……村田健は」

「最後の一節が非常に気になるんですけど……」

有利を穏やかに見ていた村田くんの目が、厳しい光を宿してわたしに向けられる。心臓

が跳ねた。

「だけど君はそのときいなかった。……、君は一体……誰?」

「だ、誰って……」

「それこそ何言ってんだよ村田。だろ。渋谷。おれの可愛い妹」

「渋谷家の第二子はひとりしか生まれないはずだった。なぜなら君達の母親に宿った魂

は一つしかないはずだからだ。だけど、生まれてきたのは双子の子供だった。予定外の

ことだ。何らかの事故で魂が二つに別れたのか?いや、違う。渋谷の魂は完全だ」

「わ……わたし、は……」

役目を持っていると、言われた。

魂だけの存在になっている、眞王陛下に。

誰って?

そんなの、わたしが聞きたい。









真剣に村田に問い掛けられても、困惑する一方です。



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