ロンガルバル川の上空は灰色の厚い雲で覆われていて、風が吹くと昼間でも肌寒い。 日が照っていればまだマシなのに。でもシマロンに放り出されてからずっとこんな天気 だったような気がする。地元の子でもおかしいというほど天候。 「この流れの緩やかさでは、河口まであと三日はかかりそうね」 いつの間に部屋から出てきたのか、フリン・ギルビットが川の流れを見て溜息をついた。 064.綺麗な横顔 「あの人たちも気の毒よ。生まれた場所は様々だけど、国のために小シマロンとの争い に借り出されて、戦が終結すれば敗残兵として囚人扱い」 「そういうのってさ、捕虜の交換とか?終戦後に交渉して帰国できるんじゃないの?」 有利は隣に座ったフリン・ギルビットに首を傾げる。 「戦地の残された兵士を取り戻そうと、ノーマンも必死で交渉したわ。でも無駄だった。 結局こちらは敗戦国で、戦勝国に異を唱えることなどできはしない。カロリアの捕虜に なったシマロン兵は全員帰還させたけど、こちらに戻されたのはほんの少しの幸運な 者だけ……他国も同じような状況でしょうね」 フリン・ギルビットは寒そうに膝を抱えてその上に顎を乗せた。その視線はずっと緩や かな流れの川に向いているけれど、思いは過去に向いているようだった。 「……いやね、戦って。私は大嫌い」 「おれもだよ」 有利は胸の魔石をぎゅっと握り締める。 わたしもフリン・ギルビットのように膝を抱えて、それから船でたったひとつだけの部屋を 振り返った。本当の戦争がどんなものか、捕虜になった人がどんな扱いを受けるのか、 平原組で育ったという彼女は、平和に育ったわたしよりもずっと詳しく知っているだろう。 ……わたしの脳裏によぎるのは、燭台に灯されたオレンジ色の火と、人工的に作られた 燃え盛る炎、濃緑色のマントが教会のベンチを飛び越えながら左右に広がり、広い背中 がわたし達を庇って……そして赤い血が……。 ぎゅっと目を瞑って首を振る。 「だからあなた達を大シマロンに連れて行きたいのよ」 突然の話の転換に驚いてフリン・ギルビットを見た。 有利が魔王だとばれたのかと思ったのだ。国の指導者を行方不明にしてしまえば、眞魔 国は混乱して戦争が起こっても早々に負けると予測したのかと。 だけどそんなこととは関係なく、彼女は最初から有利とわたしをウィンコット家の血族だと 信じて連れて行こうとしていたんだっけ。 「大佐にはきちんと話すと約束したわね。全部隠さずに教えるわ。それを聞いたらあなた は冗談じゃないと怒るかもしれないし、逆に賛同してくれるかもしれない。どちらにしても、 理由も告げずにあなた達を連れ回したりしたら、サラレギー様と同じになってしまう」 最後の名前はどこかで聞いたことがあるような……と考えて、ギルビット邸に押しかけて きたナイジェル・ワイズ・マキシーンが言っていた、小シマロンの国王の名前だったと思い 出す。 「カロリアは自治区とはいえ小シマロン領だから、魔族との戦いが始まるのなら私達には 従うしか選択肢がない。物資も、財も、そして何よりも大切な若い命が数え切れないほど 奪われる。カロリアからも十二歳になった男の子が毎年召集されていく……私はそれを もう見たくなかった」 膝を抱えた彼女の白い手にぎゅっと力が込められる。有利もわたしも口を挟まずにじっと その美しい横顔を見ていた。 後ろで竿に何か掛かったのか、村田くんが大物ゲットー!と叫んでいる声が聞こえる。 「そんなときに、大シマロンから密使が来たのよ。ギルビットが所蔵しているウィンコットの 毒を渡せば、小シマロンと掛け合ってカロリアの兵士を取り戻してくれると。表向きの理由 はもちろん毒の取引なんてことではなく、ギルビット港の共有に際して、荷役不足の解消 のためということでね。事実、僅かながら子供が解放されたわ。もうすぐ第二陣が戻って くる。彼等はもう戦場に行かずに済むの」 フリン・ギルビットは心から嬉しそうに微笑みを浮かべた。そんな交換条件がついていた のなら、彼女が宗主国を裏切ってでも秘蔵の毒を渡したことも判る。領主として、そして カロリアを愛する者として。だけど、やっぱりそれは彼女の事情でしかない。 「ウィンコットの毒って?」 ただの毒薬なら大シマロンだってそんな取引を持ちかける必要はないだろう。 どんな特性があるかのと思ったら、答えは恐ろしいものだった。 「この世で唯一、どんな者でも意のままに操れるという薬よ。その毒に身体を冒された者 は、ウィンコットの末裔の傀儡となる。例え命があろうとなかろうともね」 「……し、死体でも操れるということ?」 「ええ、そう言われているわ」 フリン・ギルビットが重々しく頷く。 ふと、船が方向を変えていることに気がついた。 「あれ、なんか方向が変わったかな?」 有利も気付いたように周囲を見回した。どうやら船は西側の岸に向かっている。 ぐるりと甲板を見回すと、村田くんが長靴を釣り上げているのが見えた。 「またどこかで荷を積むんじゃないかしら、ああいう箱を幾つも幾つも」 甲板のあちこちに並ぶ立方体の箱を見ながら、フリン・ギルビットは僅かに身震いした。 「……大シマロンも『箱』を手に入れたのよ」 わたしもぎくりと肩が震える。それは……コンラッドが言っていた、あの? 「その箱を開ければ遠い昔に封じられた強大な力が甦る……この世界には決して触れて はならない箱が四つあるという……大シマロンはその一つを手に入れたのよ。正しい鍵で 解き放てば、その力は主と認めた者に従い、善の武器にも悪の凶器にもなる恐ろしい箱。 ……大シマロンが手に入れたのは、『風の終わり』」 コンラッドの話とは少し違う。魔族に伝わっている話では、ありとあらゆる災厄が詰め込ま れ、開ければこの世に裏切りと死と絶望をもたらすと。 そしてこうも言っていた。 「……そんな危険なものを、自分達なら操れると……それは過信だわ」 有利がぎょっとしたようにわたしを振り返る。 そう、これはコンラッドが言っていたことだから。 「いいえ、大シマロンはもう鍵を見つけているの。そして、つい先日その鍵なる人物に毒を 投入することに成功したそうよ」 「鍵って人なのか!?」 「人間だとは言わなかった。でも魔族だとも言ってなかったわ。とにかく、だからあなた達 が欲しかったの。鍵の人物を操るためにはウィンコットの末裔が必要だから、取引のため に。カロリアの若者の命をもっと多く救うために」 「鍵となる人物なら箱を操れるという保証がどこにあるの?ただの伝承なのに。カロリア だけが戦争を避けられたとしても、世界が滅びてしまえば意味がないと思わない?」 「おい、?」 有利もフリン・ギルビットも戸惑ったようにわたしを見る。 有利の黒い瞳と、フリンの薄い緑色の瞳を見返して……なぜか懐かしい気持ちを覚えた。 こんな風に『箱』について話し合った、あのときまっすぐに見返したのはあの子の闇のよう な黒い瞳と……あの人の湖底を思わせるような澄んだ青い瞳だったけれど。 ……あのとき……あの人って? すっと目の前に薄い半透明の膜がかかったようだった。有利も、彼女もその膜の向こうに。 「だけど、操れないというなら何のための鍵だというの?」 「鍵は所詮、鍵に過ぎない。封じるだけのもの、解放するだけのもの」 口が勝手に動いている。 頭に浮かんだ言葉を紡ぐために。 「まだ、開けてはならない」 「おーい、スーザン?」 ぽんと肩を叩かれて、薄い膜が消える。 「え、あ、村田くん……」 いつの間に来ていたのか、真後ろに村田くんが立っていた。釣竿とびしょ濡れの長靴を 手に。 「ロビンソンだってば。どうしたの、三人ともそんな深刻な顔しちゃってさ」 「ん?あー、いやあ別に。それよりお前、長靴釣るってネタじゃないんだからさ……」 「ホントだよ〜。大物ゲットだと思ったのに、せめて革靴なら食べられたのにね」 「いや、そんなもんまで食わなきゃなんないほど切羽つまってねえだろ」 「なに言ってんの。余裕があるうちに備蓄しておくのは常識だろ。それより次の停泊所が 見えてきた。でも眼鏡がないとやっぱり駄目だね。荷物っていうより武装兵力がいっぱい いるように見えるよ」 村田くんが指差した方向にいるのは、確かに兵士にしか見えなかった。 船が岸に近付いてくると、二百人はいる集団が一層よく見えるようになる。全員が淡い 水色の軍服で、胸と脛には革の防具をつけ、当然だけど帯剣している。 「すごいな、あれ。コスプレとか、ご当地の時代祭?中世文化保存会とか」 いまだにここが地球だと信じている村田くんだけはいつもの調子のままだ。 ……本当に? だってギルビット邸で有利の力が暴走したとき、彼はわたしよりずっと有利の状態を把握 してはいなかった? 「村……」 「渋谷、それなに?」 今こそ村田くんを問い質すべきかと声をかけようとしたら、絶妙のタイミングで有利の懐に 入っていたペーパーナイフを引き抜いた。 「え、ああこれか。カッパから買ったんだよ」 「カッパから?じゃあやっぱりキュウリで?」 「違うから。有利も略しすぎ。カッパーフィールド商店でしょ。さっきの商人の男の子」 「へえ、でもこれ人骨じゃないの?」 「なんだと!?」 「あなた達、悠長におしゃべりしてないで目立たないところに隠れるのよ!」 有利とわたしはフリン・ギルビットに腕を引かれて木箱の陰に隠れるようにしてしゃがみ 込む。 「じゃ、僕も僕も」 村田くんも同じ陰に無理やり入ってきた。 「せまっ!ムラケン狭いって!お前、隣に行けよ」 「えー自分だけ両手に花なんてずーるーいー」 「ずーるーいーじゃねえよ!こんなにギュウギュウだとあからさまに怪しいだろ!?」 「あなた達、静かにして!」 普通に甲板に立っているより目立っている気がしてならない。 そうこうしているうちに船の動きは更に緩やかになり、そしてゆっくりと桟橋につける位置 で止まった。 こっそりと縁に隠れるようにしながら岸を伺っていると、経理担当と思われる乗船時に もめた船員が身軽に桟橋に降りて、隊長格の兵士と何か言い合っている。 それにしても。 「みんな刈りポニってどういうこと?なんかの熱烈ファンクラブ?」 有利が首をかしげる。 そう、兵士の全員があのナイジェル・ワイズ・マキシーンと同じ髪型で、ヒゲももみあげと 繋がった同じ生やし方。 「小シマロン兵の姿は国旗みたいなものよ。どこを歩いてもすぐに判る」 「あ、なるほどねー」 髪型とヒゲまで決められているなんて、スカート丈まで決められている校則よりもずっと 厳しい。 「じゃあ髪が薄くなったら兵士を退役できるのかな」 「え、でも髪が薄くなるより引退が先だろ?」 「若ハゲの人だっているじゃないか。この国じゃ若ハゲは羨ましがられてるのかもしれ ない」 「そんなことで徴兵を逃れられるなら、カロリアの若者の頭皮をみんなつるつるにしてる わよ」 「……この二人に真面目に答えなくても」 村田くんの冗談はときどき冗談なのか本気なのかよくわからない。有利がまともに答える から、ますますわかりにくい。 そのうち話がまとまったのか、船員が船に戻ってくると一緒に八人ほどの兵士も乗り込ん できた。追われている身としては緊張の時間の到来だ。 「あいつ今、札束貰ってなかった?」 「え……?でもおかしいわね。戦争が始まると使えるか判らないから、小シマロンの紙幣 は受け取れないって言ってたのに」 「恐らく何かが売れたんだろうね……嫌な予感がする」 呟いた村田くんの顔からは、さっきまでの気楽な表情が消えて暗く深刻な様子が滲んで いた。 |
フリンの事情はわかりましたが、小シマロンの兵士が近付いてきました。 |