「どうして乗船前にトイレに行っておかなかったの!?」

移動時間の長い乗り物に乗るなら、その前にトイレに行くのは基本でしょう!

……とはいえ、船を降りるのは三、四時間程度ではなく、二、三日は後のことで、いつかは

船のトイレにも行かなくてはいけないんだけど。

「我慢できそうにねえの?」

有利が無茶な事を言う。

「今は耐えてもすぐにまた限界がくるわ……ちょっと、女になんてこと言わせるのっ」

「旅は人間を親しくさせるねえ。生理現象のことまで語り合えるようになるなんて」

「村田くん……それ違う……」

わたしが溜息をつくと、有利は船の端に目をやって指を差す。

「いっそ川で用を足しちゃうってのは?一人で恥ずかしいならおれたちも付き合うし」

「ああ、それいいねー、きっと気持ちいいよ」

「いやよ、絶対いやーっ」

「二人ともいやらしい!一緒に付き合うってなによ!?」

そんなの余計にできないよっ!






063.生きてる証(2)






「洗面所を使えないなんて冗談じゃないわ!あなただってそうでしょう!?ね、ほら、大佐

の大事な妹も頷いているわ!あなた達でなんとかして!あのトーキョーコミックショーとか

いう奇術で!」

いやあの、つい勢いで頷いちゃったけど、有利に危ない事をさせるくらいなら、人目のない

ところで我慢しますけど……。

「お、おれ達がぁ!?無理!むりむり!」

「東京マジックロビンソンはネタ切れ!」

有利と珍しく村田くんまで青くなって首を振る。それはそうだ、これだけの数の犯罪者相手

に何をどう交渉しろと。

「なーにこそこそ話してるんだ、子羊ちゃーん」

後ろから囚人のひとりが声をかけてくると、それに合わせるように全員が声を上げて笑い

出す。

「便所を使いてぇなら、とっとと使えばいいじゃねーかー」

「俺等が邪魔で通れねえってんなら乗り越えていきゃーいいぜー?」

「……ンモふーっ」

大勢の笑い声に反応したのか、ついてきた羊が鼻息を荒く唸り始めた。大きな音に反応

するくらい羊って繊細な動物なのかな。

「ど、どうしたTぞ……」

有利が伸ばした手は空を切った。羊は、毛を膨らませて威嚇したと思うと、次の瞬間には

もう室内に駆け込んでいた。どういう原理なのか毛を膨らませると大人の人間よりも大き

いくらいの幅になり、蹄で囚人達を蹴散らし始める。

「わー!Tぞうっ、無茶はだめ、無茶は!」

「驚いたなー、こいつ羊の皮を被った狼だったんだね」

それ、使い方が違うと思うよ村田くん。

囚人達は羊の蹄から室内を騒がしく逃げ惑っているものの、鎖で繋がれ鉄球までついて

いるから素早く動くことなどできない。羊に踏みつけられたり蹴りとばされたり、あるいは

仲間同士でぶつかり合っていた。

この騒ぎで船は大きく揺れて、船員が慌てて確認にきたくらいだった。

どさくさ紛れにフリン・ギルビットが部屋を突っ切って行って、少し考えてわたしも続いた。

特にトイレに行きたいわけじゃなかったけど、今のうちに便乗しておこう。

彼女と入れ替わりに入ったトイレから出てくると、ちょうど気が済むまで暴れたのか羊の

Tぞうが悠々と部屋の中央を歩いていたので後ろについて行く。

「あ、あれ……まで……いつのまに」

「え、せっかくだったから」

「さすが妹ちゃん……ちゃっかりしてる」

村田くんの微妙な評価に顔をしかめながら、もう用はないのでさっさと部屋から出て行こう

とすると、後ろから呼び止められた。

「待てい」

まるで時代劇みたいな呼び止め方に、四人揃って足を止めた。羊の飼い主として責任を

取れと言われても困るんですけど。

そろりと四人で振り返ると、いつの間に並びを整えたのか、奥まった場所の牢名主みたい

な立派な体格の人に向かって人の花道が出来ていた。牢名主の人はゆうに二メートルは

ありそう。有利は横で人間山脈だ、と呟いている。

「隊長殿からお話があーる!近う寄れ」

寄れと言われても。

人間(魔族を含む)同士が視線を交し合って困惑していると、Tぞうが左右を威嚇しながら

花道を歩いて行ってしまった。

「メスなのに男前なやつ……」

仕方がないので後からついてく。隊長殿という人は太い足を組んで胡座をかき、青刈りの

頭部をひと撫ですると、今度は膝の上の飴色の球体を撫でた。……って。

「じ、人骨?」

思わず有利の袖を引いてそれ以上前に行かないように引き止める。

「これはテリーヌさんじゃ」

隊長さんの隣に控えるように座っていた老人が本人に代わって答える。テリーヌさん?

「隊長殿が殺った者達の亡骸から、一人だけ連れてきたそうじゃ。だが正直言うと……

その時すでに白骨化してたちゅーことは、もっと前に殺られた可能性が高いんだがの」

最後の方は、聞こえないように小声で付け足し。いやそれ、可能性が高いんじゃなくて

確実にそうでしょう。テリーヌさんって名前も勝手につけたものなのね。

大事そうに磨き上げられているけれど、果たして無縁仏として放置されているのとどっち

がテリーヌさんにはマシなんだろう。

ふと、後ろに視線を感じて振り返った。けれど誰もいない。正しくは、囚人の人達以外は

誰もいない。

おかしいな、今向けられている好奇という様なのとは違う視線だったと思うんだけど。

囚人を見回そうとしたら、どすの利いた声の幼児語が聞こえてきた。

「こいつらに訊きたいことがあるんでしゅよねー、テリーヌしゃん」

ぞわりと背中を駆け抜けた悪寒に大慌てで隊長殿を振り返ると、膝の上のテリーヌさん

に話し掛けている。

「特にこの女の人、どっかで会った気がするんでしゅよねー、テリーヌしゃん?」

「私?私には頭蓋骨と会話する知り合いはいないわ」

ついフリン・ギルビットから一歩距離を取ってしまったけれど、返った答えは至極真っ当

だった。あらら、じゃあ言いがかりをつけられてさぞ気分が悪いでしょう。ナンパだった

のかしら。美人は大変だねー。

「隊長をバカにすんなー!」

「俺等にとっちゃ隊長もテリぼんも大切なんだぞー!」

「哀れみの目で見るなー!」

「キモイとか言うなぁぁ!」

言ってない。というかそんな言葉をどさくさに紛れて言うなんて、本当に大切なの?

左右からの猛抗議にもどこ吹く風で、フリン・ギルビットは僅かに顎を逸らして突き放す。

「ひとに名前を尋ねるときは、まず自分から名乗るも……」

とても常識的な答えは、村田くんの悪ふざけで中断される。

「やあ、こんばんみ。僕は東京マジックロビンソン。そしてこちらはクルーソー大佐とその

いも……おっと、弟のスーザンの助」

「こんばんみー」

「ちょっと、私が訊かれたのよ!」

一緒に乗った有利も有利だけど、名前を言いたくなかったのならそのまま流したらいい

のに。それより村田くん、きちんと男に見えるか微妙ながらも男装だから弟にしたのは

いいとして、スーザンの助ってなに。

「私の名前はフリンよ」

隊長さんの凄みのある顔に、子供のような無邪気な笑みが浮かぶ。

「やっぱりお嬢さんだよ、テリーヌしゃん!あの白金の髪と気の強い性格……平原組の

フリンお嬢さんだったよ!」

だけど話し掛けるのはやっぱり膝の上のテリーヌさんなのね……。

「うおー、お嬢さーん!」

一斉に雄叫びが上がって次々に熱い思いの丈が語られ始めた。

「幼いお嬢さんの笑顔でどれだけ癒されたことか」

「お嬢さんがいなかったら、自分卒業することもできなかったですよ」

「訓練が厳しくて疲れきった俺等にお嬢さんが飲ましてくれた泥スープ。翌日のこの世の

物とも思えねえ下痢……忘れようたって忘れられねーです!」

「好いているのか恨んでいるのか、はっきりしてちょうだい」

微妙な思いの丈だった。





「じゃあ、ここの人たちのほとんどが平原組出身なんだ」

熱狂振りに弾き出されて三人で固まっていると、聞こえていたのか隣の老人が頷いた。

「そうだよ、もちろんワシも含めてな」

「じゃあ全員、元兵士なんだ。どうしてまた殺人なんかやっちゃったんだ」

「何を言うかね。ワシらは戦場と酒場以外では、誰一人傷つけたことはないぞ」

淡々と述べたその言葉に、村田くんと顔を見合わせてしまった。村田くんを見たのは反射

だったけど、彼もすぐにわかったらしい。もしかしたら、村田くんは彼等が平原組の出身と

聞いた瞬間にわかったのかもしれないけれど。

「俺達は敗残兵だ」

いつの間にか隊長さんだけ熱狂から冷めたようにぽつりと呟いた。だけどすぐにテリーヌ

さんと会話を始める。お嬢さんと再会できて嬉しいでしゅねー、懐かしいでしゅねーと言う

声を聞きながら、有利が俯いた。

彼等は囚人ではなくて、捕虜なんだ。

「ワシらは皆、シマロンに負けたんじゃよ。あらん限りの力で闘ったんだが、結局数には

勝てなかった。それから八年収容所で痛めつけられ、今回やっと大陸北側のケイプに

移される。ケイプは北端の割には寒さも緩やかで、年寄りにはいいところだと聞いたよ」

「……みんな合わせると二千人って、戦場でってことなのか……」

有利がぽつりと呟いた。

心配になって下から有利を覗き込むと、がっくりと肩を落として重い溜息をつく。フリン・

ギルビットからシマロンの徴兵制度の話や平原組の話を聞いていたけれど、こうやって

その渦中の人達に会ってしまうとそれがまた生々しく感じられてしまったのだろう。

「有利、外に行こう。冷たい空気を吸った方がすっきりするよ」

「ああ……うん、ちょっと熱気でぼうっとしたかも」

青白い顔色で、熱気も何もない。だけどそれがわたしに心配をかけないための有利の

精一杯の言葉だとわかっていたから、黙って頷いた。

「あ、でもフリンさん!なあフリンさんも行こう。積もる話もあるかもしれないけど、もう

日も暮れたしそろそろメシも食わないと。携帯食だけど」

有利がそう言って振り返ると、彼女も同じ事を考えていたらしく短く適当な暇を告げて

一緒に歩き出す。

だけど平原組の卒業生たちは、それに難色を示した。

「そんな、お嬢さんを寒いとこで過ごさせるわけにゃいかねえよ!」

「そうだそうだ、お嬢さんも是非とも部屋ん中にいてくだせえ」

「え?」

意外な申し出に、フリン・ギルビットは迷うように室内とわたし達とを見比べた。暖かい

室内に未練があるなら好きにすればいいのに、と思いながら同じく室内を見回したら、

囚人の一人と目が合った。

赤茶色の髪と青い瞳。

その青い目が眇められて、まるでどこかで会ったことがあるような気が……。

「あんたらなっ!」

有利の大声にびっくりして振り返ると、フリン・ギルビットの細い腕を強引に引っ張って

戸口にまで連れて行っていた。慌ててその後を追いかける。

「お嬢さんと昔の学生って文学作品みたいでちょっと憧れるけど!でも現在は人妻と

囚人だろ!妙齢のご婦人をこんな野郎ばっかの溜まり場に残していけるかよ!」

「なんだそらぁ、俺等がお嬢さんに手を出すとでも言いたいのかよぉ!」

室内は一気に険悪な雰囲気に。根も葉もないことを疑われたら、それは不満でしょう。

でも有利の危惧もわかるなあ。

結局は本人の判断だろうなと彼女を見ると、迷いはなくなったのか毅然として戸口に

手をかけた。

「私はこの三人と外で休みます」

彼女が真っ先に部屋から出て行ってしまったので、三人と一頭で追いかける。

部屋から出ると、途端に夜の冷たい風が吹いてきた。

そんなーという残念そうな声を聞きながら、扉を閉める。

「いいのか?こっちに来ちゃって」

今更ながら、彼等の理性と良心を信用したのか有利がそんなことを訊ねると、フリン・

ギルビットは軽く首を振って溜息をついた。

「あのね大佐。私はあなた達を失うわけにはいかないのよ。大シマロンとの取引を全う

するためにもね。ここで三人だけ自由にさせて翌朝に影も形もなかったら……ああっ!

死んでも死にきれない!」

考えただけで不愉快になったように、彼女はさっさと風を遮る木箱の陰に荷物を引き

摺って移動した。

別に見張られていたって、彼女一人しかいない今なら充分逃げ出せるので、彼女の

その努力は無駄なんだけど。

とはいえ、彼女を振り切って逃げ出すにはもちろん村田くんと有利にもその気がないと

駄目。今のところ村田くんだけどころか、有利もちょっと怪しい気がする。

どうもあの人を気にかけているというか、女性ひとりで異国の地に放り出すなんて、とか

言い出しかねない。

相手にどんな事情があろうと、こちらだってゆっくりしている暇なんてないってことを……

判っていても、目の前の困っている人を見捨てる事が出来ないのが有利なんだけどね。









戦いに赴くということと、その結果と事後の悲しさを目の当たりにして。



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