薬に頼った睡眠からの目覚めは最悪だった。

爽やかな朝日が差し込む部屋のベッドにぐったりと伸びたまま呻き声を漏らす。

頭は重いし吐き気がする。

眠っていた間も固く握っていたようで、右手は拳の形で硬直していた。

左手でほぐすようにしながら指を一本ずつ伸ばしていって、シーツの上に零れ落ちた茶色の

宝石をぼうっと眺めていたら、扉が開いて朝食が運ばれてきた。






062.似合わない言葉(1)






あまりにもひどい体調で一日目はとてもじゃないけど食欲なんてわかなかった。

温かそうな湯気の立つスープを見ているだけで吐き気が込み上げて、コンラッドからもらった

イヤリングを握り締めて枕に顔を埋めて過ごした。

ひょっとして昨日飲まされたのはただの睡眠薬じゃなかったのかもしれないと今更ながらに

考えていたけれど、わたしの不調が演技ではなくて本物だと知ったフリン・ギルビットは薬が

身体に合わなかったのだろうと眉をひそめていた。

弱気に逃げた罰があたったのかもしれない。

二日目。ようやく頭痛と吐き気が治まって、部屋中を細かく見て回ったり窓を開けて何か脱出

の助けになるものはないかと探してみた。

当然だけど、素人が思いつくような脱出イリュージョンなんて存在しない。

有利と村田くんはどこに連れて行かれたのだろう。

脱出方法が見つかっても、二人がどこにいるかわからなければ逃げられないし、でも二人が

どこにいるのかなんて、この部屋から出て行かなくてはわかるはずもない。

「頭が混乱してきた……」

染み一つない天井を見上げて、天井裏に上がるような繋ぎ目はないだろうかと、苦労して

テーブルをベッドの上に上げてその上に立ってみたりもした。

それも当然無駄足で、だけど何もしないでいることの方がこの上ない苦痛だった。

ぼんやりしていると、どうしてもコンラッドのことを考えてしまうから。

今は泣いている場合じゃないと、何度も決心しているのにどうしても泣いてしまうから。

「木刀のひとつでもあれば素振りをやってるのに」

きっと、何百回でも、何千回でも。

何も考えず、腕が上がらなくなっても、ただ振り上げて振り下ろすことに集中しようとしている

だろう。

「……なくてよかったかな」

そうしたら、逃げ出すチャンスが来たときに腕が上がらなくなっているかもしれない。

「魔術が使えればな……」

有利のように強大な魔術を操る事ができたら、何か大きな騒動を起こして、その隙に……

逃げ出すにしても、やっぱり有利たちの居場所がわからないことには話にならない。そして、

その前に結局魔術を使えないからこの計画には意味が無い。

「手詰まりだぁ……」

嘆くだけで二日目が終わった。

一晩寝て気を取り直した三日目。美味しそうな朝食に背中を向けて、進展の無い脱出計画

を考える。

「ただでさえなにも思いつかないのに、ブドウ糖が足りないからますます頭が働かない…」

初日の睡眠薬入りワインで懲りてあれからなにも口にしていないので、空腹と喉の渇きで

目が回りそう。

「ああ……何にもしないうちにどんどん衰弱しているような気がする……」

有利を守る!と気合を入れていたくせに、ちっとも役に立たないし。嫌になるなあと溜息を

つきながらせめて部屋の空気を入れ替えようと窓を開けた。

そうしたら、聞き覚えのある歌が耳に入ってきた。

「……曲調、凱旋マーチだし」

地球の曲じゃないの!

思わず窓から身を乗り出すと、六、七部屋くらい離れた窓辺に腰掛けて村田くんがときどき

鼻歌を混ぜながら、緊張のない様子でオペラを歌っていた。

「村田くんっ」

「村田っ」

こっちに気付いてもらおうと大声を上げると、同時に有利の声が聞こえた。

よく探すまでもなく、村田くんのところから更に離れた部屋の窓からちらちらと白い布が上下

に動いている様子が見えた。

「有利っ!」

「あーっ、よかったー!も無事かー!?」

「二人ともー、大佐にスーザンでしょー。僕、ロビンソンー」

真ん中にいる村田くんだけ、妙に呑気。

全員同じ階にいたんだ。というか、二人がどこの部屋にいるのか探したかったら、村田くん

みたいに窓から声を出してればよかったのね……。そしたら部屋替えされたかもしれない

けどさ。

「待ってろよ!今からおれがそっちに行くからなっ」

「え?」

思わず上から下まで邸の壁面を見るけれど、どこにも手や足を掛けられそうなところはない。

「有利!だめっ、無理っ!」

「そうだよ大佐、スパイダーマンじゃないんだからさ。失敗ダーマンになったら大変だよ」

「寒い駄洒落言ってる場合かよ!なんとかして気付かれないように脱出しないと、どうしよう

もないだろ!?」

「だけどさー大佐、その大声だと邸中に聞こえてるんじゃない?」

確かにね。

そう思ったら、突然有利が窓辺から消えた。

それも自分で降りたという感じじゃなくて、引っ張り込まれた感じで。

「有利!?有利っ、大丈夫、有利!」

「わーっ、落ち着いて!下に落ちたんじゃないから大丈夫だよ!あっちは大佐と君がほしい

んだから、無体なマネはしないって。そんなに身を乗り出したら危ないよっ」

「大佐は無事よっ!だから無茶しないでちょうだい!」

有利が消えた窓からフリン・ギルビットが顔を出してそう言った。

その焦りようを見ていると、彼女がわたしたちを必要としていることは本当らしい。

だとしたら、それが今の状況でたったひとつの光明だ。





それからすぐに迎えが部屋にやってきた。移動するということで、ウィッグを忘れないように

頭に被せて部屋を出る。上手く逃げ出せたとき、黒髪だと目立つから。

まったく嬉しくないことに、向かう先は大シマロンということだった。それでもこれは手詰まり

だった膠着状態に訪れた変化で、移動するなら部屋の中に閉じ込めているより隙のできる

可能性だって、ほんのちょっぴりは上がったといえる。

大事なのはそのわずかな隙を見逃さないことだと、胸に下げた袋を服の上から握り締めた。

邸の外に出ると馬車が四台並んでいて、二台目に有利が、三台目に村田くんが、そして

四台目にわたしが押し込まれた。

ちらりとしか見えなかったけれど、有利も村田くんも元気そうだったのでほっとする。

それにしても。

「これじゃ、逃げ出すどころか環境ますます悪くなっているような……」

両隣をボディービルダーみたいな体格のいいお姉さんに陣取られ、両腕は肘から組んで

拘束される。部屋に監禁されているときは、それでも牢屋じゃなかったから人の目はなか

ったけれど、馬車に移ったらろくに身動きひとつとれないときた。

「まあ……当然と言えば当然だよね……」

移動するんだから監視の目が厳しくなるのは予想していたことだ。めげるなと自分で自分

を励ましながら、ろくなチャンスも見つけられないまま馬車の旅も四日目に入った。

ほとんどが車中泊で馬車から降りるときは必ず両腕を固定されているので、どうしようも

ないここは大人しく従順にしておいて、相手の気が緩んだときに一気に振り切るしかない

だろうと思いつつ、果たして気が緩む時がくるほどの長旅になるのだろうかと思うと気が

遠くなりそうだった。一ヶ月や二ヶ月も旅をするというならともかく。

することもないので窓の外を眺めていると、収穫を終えた寂しい農地の間を過ぎて広い

草原に出た。

ずっと両脇を固定されているから、肩と言わず身体のあちこちが凝っている。きっと両隣

のお姉さんたちも肩や腰が凝っているに違いないとくだらないことを考えていたら馬車の

走る車輪の音に混じってリズムの違う蹄の音が聞こえてきた。

「……馬車の馬じゃないね……」

きっとここは天下の公道だろうから、別の一団が通ってもおかしくはない。何か事件でも

起きないかなあと期待していたら、横に並んだ騎馬の乗り手が窓から中を覗いてきた。

「え、の、覗き?」

更衣室ならともかく、草原を走っている馬車を覗いてなんになるんだろう。まさか追い剥ぎ

強盗の類で獲物を物色しているとか?

いくら問題発生を期待しているとはいえ、強盗に拉致されるならまだ今の方がいい。

どうしようかと考えてもどうしようもない。現時点ではなるようになるとしか言いようがない。

隣でわたしを拘束しているマッチョなお姉さんが息を飲んだ。

「平原組……っ」

「平原組?」

何の名称でしょうと思っていると、騎馬はそのまま馬車を追い越して、今度はその前を行く

村田くんの乗る馬車を覗きこんでいた。

それにしても、騎馬に乗ることが多い職業ならアフロは風の抵抗にあうから向かない髪形

だと思いますよ、おじさんがた。

両隣のお姉さんたちは顔色を悪くして、固唾を飲んで騎馬の行動を見守っている。有名な

盗賊団とか、それとも敵対勢力とかの斥候とか?

だとしたら甚だまずい。逃げるどころかこの馬車は既に追い抜かされているから、簡単に

捕まってしまうだろう。

「ピンチがチャンスに変わったりしてくれないかなあ……」

あの一団とギルビット家の戦力がもめている間にわたしたちは逃走……。

夢みたいなプランだわ。

それより戦いが始まったら巻き込まれる可能性の方が高い。

ひょっとしてますますピンチになっているのでは、と思っていると段々馬車の速度が落ちて

きて、完全に止まってしまった。窓から見ると、前の三台も止まっている。

ただし、あの騎馬に止められたというわけではないようだった。

だって、前二台の馬車は羊の群れのど真ん中で立ち往生していたから。

つまり、天下の公道を羊で塞がれてしまっていたらしい。

横の二人を伺うと、顔色は蒼白になっていた。

……本格的にマズイかもしれない。

もしも襲われたとき、身を守るための武器すら持ってないんだよね。

何にしても馬車から降りない事には有利の側にも行けやしない。

どうやったら馬車から降りられるだろうかと外の様子を伺っていると、有利の乗る馬車から

フリン・ギルビットが降りてきた。護衛も連れずに一人ということは、いきなり襲われるという

関係でもないようだけど。

確かに、いきなり襲われるわけではなかったようだけど、なにか揉めている。

言い争っている様子の主人に両隣のお姉さんたちはハラハラとしたように見守りながら、

わたしの腕をがっちりとホールドしている手は離さない。

うーん、一体今はどういう状況なんでしょう?

首を捻っていると、一際高いフリンの声が聞こえてきた。

「ですがお父様!」

「………お父様、ということは……」

あのアフロのおじさんとは親子なの?

じゃあ敵戦力が増えただけじゃない。

思わずがっくりとうな垂れてしまった。

「ですから、私一人で大シマロンに向かおうとしたわけではなく、ノーマン様もご一緒だと

申し上げているではありませんか!」

「婿殿は三年も前から、ご病気を口実に本国参りさえ欠かしておられるであろー」

「そのために、シマロン本国の腕の良いと評判の医師を訪ねるのです!」

三年前というと、本物のノーマン・ギルビットが亡くなった年だ。つまり、彼女はどうやら父親

に夫の死を隠していたことになる。そして、今も必死に隠している。

これは敵の戦力増強というよりは、やっぱり敵対勢力が現れたということでいいんではない

でしょうか。

だとしても、どちらを応援したものか。単純に、敵の敵は味方というわけでもないし。

「ノーマン殿がご病気で国を治めることに苦難されているというのであれば、いつでも身内

として我々が手をお貸しすると申しているであろー」

あの独特の語尾は方言なんでしょうか。

「せっかくのご提案ではありますけれど、カロリアにはカロリアのやり方がございます。事故

が重なったとはいえ、ノーマン様にはカロリアを統治するだけの力は十分に残されています」

「では何故、婿殿は我らとお会いにならぬのであろーか?」

「それは……」

答えられるわけがない。だってノーマン・ギルビットは亡くなっているのだから。

「フリン、お前はカロリアの者であると同時に、平原組の娘でもあろー。お前が何のために

ギルビットに嫁いだのか、忘れるでない」

「渡しません!」

フリン・ギルビットは、きっと父親を睨み上げた。細い手を強く握り締めて。

強い意志を込めたあの薄い緑色の瞳で。

「お父様とお兄様のお考えはお聞きしました。意味もよく……深く理解しております。ですが

カロリアはお渡しできません。絶対にっ」

………彼女は、亡き夫の領地を自分の身内に踏み荒らされたくないらしい。

守りたいのは、領地なのか権力なのか。

「………領地かな」

夫の死を告げるときに伏せられた顔、震えたまつ毛。

わたしの目には彼女の夫への愛情は今でも消えていないように見えたから。

でも、だから何?

有利もわたしも村田くんも、彼女の事情のために捕まって監禁されている。

彼女の誠意は亡き夫へと向けられていて、わたしたちにはそれが少しも優しい事態では

ないのだ。

だけど、このまま彼女が父親に負けた場合、わたしたちはどうなるのか。

「話は聞かせてもらったぜ!」

有利の声が聞こえてぎょっと窓に張り付くと、銀色のマスクを被った人物が馬車の入り口

に立っていた。

わたしが考えても仕方がないことを思い巡らせているうちに、どうやら有利はノーマン・

ギルビットを演じるという結論を出してしまったらしい。

いつもながら思い切りはいいんだから……。

「管理能力を疑われているようですが、わたくしことノーマン・ギルビットはこれこのとおり、

すっかり元気に……うわっ」

馬車の段差を忘れていたのか、第一歩目から空を切って羊の群れの上に転がり落ちていた。









有利の選択は吉と出るのか凶と出るのか。



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