世界にぼんやりと膜が張っているようだった。有利の胸に顔を埋めて強く目を瞑って、

何も見なくていいように、何も聞かなくていいように、何も感じなくていいように、身体

の中を荒れ狂う激情に流されるままにただ泣き続けた。

コンラッドがいない。

側にいて欲しいのに。

コンラッドが、いない。






061.泣きたくなる時(2)






「渋谷!ここまでだっ」

何も聞こえなくなっていたはずの耳に、誰かの声が飛び込んできた。

その途端、音という音が周囲に戻ってくる。

「これ以上は負担が大きすぎる、もうやめるんだっ」

悲鳴と、水が濁流となってすべてを流して行く轟音と。

……悲鳴!?

「ゆーちゃんっ!?」

悲鳴は、すぐ上から上がっていた。

有利の様子を窺おうにも、がっちりと抱き締められていて顔を上げることもできない。

目の端に僅かに見える光景は、まるで嵐のあとの激流の川のように荒れ狂った水が壁

や家具を、そして幾人かの兵士を流していった。

!渋谷を止めて、きっと君ならできる、君の声なら届くからっ」

ひどく焦った村田くんの声がすぐ近くに聞こえた。止めるって、どうしたらいいんだろう。

だけどゆーちゃんが叫んでる。痛いの?苦しいの?

「ゆーちゃん、もうやめてっ」

抱き締めてくれている身体を、わたしも強く抱き返す。

「だめ!こんなところで力を使いすぎたらだめだよっ!お願い……ゆーちゃんまでいなく

ならないでっ」

人間の土地で強い魔術を使うことは、命に関わると……コンラッドが言っていた。

さっきも魔術を使った。今度のものはあれよりもずっと強い力を感じる。

「お願いゆーちゃん……これ以上は力を使わないで……」

水が勢いを弱め、有利の悲鳴が止まり、ゆっくりと身体が崩れ落ちる。

慌てて抱きとめようとしたのに、勢いに負けたのかわたしまで一緒に崩れ落ちてしまう。

……違う。力が入らないんだ。

ばしゃんと水音を立てて有利が尻もちをつくと、辛うじて残っていたバルコニーの鉄柵に

背中を預けた。

「ゆーちゃん」

抱き締められていた力はもうなくて、有利の両手はだらりと下にさがっているものの、

わたし自身の力も入らない。

「どうして……」

わたしは魔術なんて使っていないのに。

苦労して有利から起き上がると、有利の虚ろな目はぼんやりと宙を映していた。

「ゆーちゃん!?」

「大丈夫、力を使い果たしただけだ。魂まで傷つけたわけじゃない。君のお陰だ」

肩を叩かれて、ゆっくりと振り返る。

片目だけコンタクトが外れて黒い色に戻っている村田くんは、見たこともない表情をして

いた。まるで、何もかも見透かしているような深い瞳。

「……あなた、一体……」

「僕こそ聞きたい。君は何者なんだ?」

ゆっくりと床に残った水を掻き分けて誰かが近付いてくる。

「これがウィンコットの一族の力なの?」

振り仰げば、それはギルビット夫人だった。

「何故、服が濡れていないの?」

「僕等を避けて通るからさ」

濡れていない点は彼女も同じだった。流されていった兵士たちとは違い、彼女も激流に

見舞われなかったのだろう。同じ部屋にいたのに。

彼女の後ろに何人もの兵士が駆けつけた。さっきの黄色と白の軍服とは違う。部隊が

違うのか、それとも所属が違うのか。

「一、二階はほとんど無傷です。深刻なのは水漏れだけで、兵士にも使用人にも被害

は出ておりません」

「これが、双黒の魔族の力?」

有利を見るとまた帽子もサングラスも足元に転がっていた。もっとも、今更隠しても一緒

だけど。

「恐ろしい……」

「恐ろしいのは、平気で人を踏みにじって、利用できるあなたよ」

力の入らない手で、ぴくりとも動かない有利を抱き締めてフリン・ギルビットを睨みつける。

「領主の座が欲しかったんだろ?」

村田くんが、わたしとは反対側から有利を守るようにその肩を抱いた。

「悪事には利用させない」

「悪事になど使わないわ」

「……多くの人間は、力を得れば傲慢になる」

「彼の力を使うのは、私ではないもの」

フリン・ギルビットは後ろを振り返り、駆けつけた兵士達に命令を下す。

「彼等を別々に閉じ込めて。抵抗されても怪我をさせないように注意しなさい」

「で、ですがノーマン様……」

躊躇するような様子を見せた部下に、彼女は首を傾げてそれから自分の顔を触った。

「ああ……そうね、仮面がないんだったわ……とにかく言うとおりになさい」

戸惑いながら、それでも伸びてきた幾本もの屈強な手に、わたしはどうにかして抗おうと

有利を力の入らない腕で抱き締める。

「触らないでっ」

、今は無理だ。君も渋谷も動けない。機を待つんだ」

日本語で話し掛けられて、振り返ると村田くんはわたしを見ないまま、フリン・ギルビット

を見上げていた。

「大佐の身柄の安全を保証するなら抵抗はしない」

「嬉しい申し出ね。もちろんよ、クルーソー大佐の力が私には必要なんですもの」

「それから、彼女は近しい者以外の男が怖くてね。見張りは女性にしてほしい」

「いいわ、それくらいの配慮はするつもりよ」

「村田くんっ」

「ロビンソンだよ、妹ちゃん。いいね、決して短気を起こしちゃいけないよ」

有利から引き離すように大きな手に腕を掴まれて、いつもの反射で振り払ってしまう。

「女性兵士を呼んでちょうだい」

わたしの腕を掴んだ兵士は、そのまま有利の腕を掴んで二人がかりで引きずり上げた。

「ゆーちゃん!」

「大人しくしてちょうだい。乱暴な真似はしないわ」

「その通り、大人しくしてて。君が怪我させられたらクルーソー大佐が怒り狂っちゃって

大変なことになるからさ」

村田くんが両腕を拘束された状態で部屋を見回した。

もしもこの惨状を繰り返すような魔術を発動すれば、有利の身に今度こそ危険が迫る

かもしれない。

両脇の兵士に促されて歩き出した村田くんと、引き摺られるように連行される有利を

見送って、その姿が見えなくなると最後の力が抜けて水浸しの床の上にへたりこんで

しまった。

本当に、どうしてだろう。まるでヒルドヤードで魔力を使いすぎたときのような脱力感が

襲ってくる。わたしは魔術を使っていないのに。

「……クルーソー大佐の妹ということは、あなたもウィンコットの血族なのね?」

ゆっくりと顔を上げると、表情を無くした薄い緑色の瞳がわたしを見下ろしていた。

フォンウィンコット家とは何の関わりも無いのに。

口の端が自然に吊りあがって自分が笑っていることはわかったけれど、どうして笑いが

込み上げたのか、その意味はよくわからなかった。

嘘を信じて、真実を知った時に彼女が落胆することを期待しているのだろうか。

だけど彼女が嘘を信じている間に逃げ出さなくてはいけない。

フォンウィンコットの血族だと信じているから、彼女は有利を傷つけないのだから。

どうしてフォンウィンコットの者が必要なのか、それがわかったら交渉の余地があるかも

しれない。

「黒い瞳……」

「……恐ろしい?」

「そうね……魔族の土地を遠く離れて、これほどの魔術が使えるだなんて……あなたの

その瞳も本当のものかしら?それとも、あのロビンソンという子のように偽の瞳?」

虚を突かれて、目を瞬いてしまった。

ああそうか、村田くんのコンタクトレンズの外れた瞳を偽物だと思ったんだ。

青い色こそが、偽物なのに。

「偽物よ」

わたしがにっこりと笑ってそう言うと、フリン・ギルビットは安心したような表情と不可解

そうな表情を混ぜた複雑な顔した。

黒を宿す魔族が二人もいるのは恐ろしいだろう。

そうして、なぜわたしが笑ったのか判らなかったんだと思う。

わたしは微笑みながら、疲れてひどく重い腕でウィッグを引っ張った。

「この髪が、ね」

双黒と知った時の彼女の表情は、ほんの少しだけわたしの溜飲を下げてくれた。





連れて行かれた先は、想像していたような牢屋なんかじゃなくて普通の部屋だった。

それどころか、むしろ日本のわたしの部屋より上等な調度品がある部屋だ。

双黒の魔族が恐ろしいのか、わたしがふらつきながらも自分の足で立つと、命令に従って

駆けつけた女性兵士たちは進んで触ろうとはせず、更に大人しく後ろについて歩き出した

のでほっとしたように息をついていた。

本当は満足に自分の魔力も操れないのにね。

周囲のチェックだけはしておこうと疲れた身体で部屋を見て回る。

上質な布で包まれたベッドがひとつ、テーブルがひとつ、はめ殺しでもなく開閉できる普通

の大きな窓。だけど窓の外にはバルコニーも手摺りも無い。そしてここは五階。

どう考えても脱出できる要素なんてなかったけれど、奇跡的に何かを思いついたとしても

今夜はもう無理だ。わたしも有利も満足に動けないのだから。

重い身体を引き摺ってベッドに腰掛けると、途端にどっと疲れが押し寄せた。

握っていたウィッグをベッドの端に放り出し、整えられたシーツに横たわったところで重厚

そうな扉の鍵が開く音が聞こえた。

起き上がるのも億劫でそのまま首をめぐらせるとフリン・ギルビットが美しい銀の髪を月の

光に輝かせて部屋に入ってくる。

「クルーソー大佐はもう意識を取り戻したわよ」

それは、今のわたしにとっては何よりも朗報だった。魔術を使った後、有利はいつも深い

眠りについていたけれど、あんな風に放心したような状態になったことはなかったから、

それが心配だったのだ。

ベッドに手をついてどうにか起き上がると、彼女はひとりですぐ目の前まで歩いて来て、

赤い液体の入ったグラスを差し出した。

「さあ、あなたもこれを飲んでちょうだい」

「……人を使わずに、自分で持ってくるのね。……怖くはないの?」

「恐ろしいわ。だけど、同時にその闇夜のような瞳をとても美しいとも思うの。あなたの

その強い意志を込めた瞳を」

突然、酸欠にでもなったかのような息苦しさが襲ってきた。

わたしの目が、強い意志を込めた目が好きなのだと。

それはあの人の言葉だったから。

こんな人の前で泣くものかと強く目を瞑って、胸の痛みをやり過ごそうと息を吸う。

服の上から首に提げた小袋を握り締めて、ゆっくりと呼吸を。

「毒なんか入っていないわ。私にはウィンコットの血筋が必要なの。大佐がいるけれど、

二人もいるならその方がいいはずだもの。さあ飲んで」

ずいっとグラスを押し付けれて、苦笑が漏れる。

「この状況で、無理やり勧められるものを飲む人がいると思う?」

「……ただ眠るだけよ」

睡眠薬入りの飲み物ね。

身体はくたくたで、横になれば今すぐにでも眠ってしまいそうなのに、たぶんこのままで

は眠れない事もわかっている。

だってあの人がいない。

側にいないの。

毒殺なんてしなくても、今のこのろくに動けないわたしなら簡単に殺す事ができるだろう。

今はただ、何も考えずに眠りたい。

白く細い指からグラスを受け取って、その赤い液体を一気に飲み干す。

冷たい水は甘い味がした。

空になったグラスを受け取って、フリン・ギルビットは満足げに美しく微笑む。

「どうぞ眠っていてちょうだい。深く、深く、ね……」

彼女が部屋から出て行って、扉の鍵が閉まる音が聞こえた。

ベッドに倒れ込みながら、紐を引いて服の下から小袋を取り出す。

きつく縛った袋の口を震える指先で開けると、中から琥珀色の宝石が二つ転がり落ちて

きた。

わずかに差し込む月の光を頼りにその宝石を覗き込むと、中の気泡が銀色に見えたような

気がした。

「………コンラッド……」

二つの石を握り締めて、重い瞼を降ろすと闇の中に引き摺られるように意識が沈んでいく。

ここは寒いよ。

だって、ここにはあなたがいない。

あなたが、いない。









失意の底できっとマ編が終了です。
この先もつらい旅が続きます……。



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