事の間、おれの中では咽ぶアルトサックスでムード満点のベサメムーチョが流れていた。

周囲の光景も、自分が口走っている言葉も、前回からはわりと覚えてはいるものの、なんと

いうかテレビでも見ているみたいに自分ではどうもできない。

「……吐きそう……」

「もう目が覚めたの?」

優しい声が聞こえて、ゆっくりと目を開けるとすぐ上にの顔が逆さに映った。

もう何度目かの感触なので、確認するまでもなく膝枕だということはわかった。

「いつもならもっと眠るのに、無理しちゃ駄目だよ」

「あー……今回は小規模成敗だったからな……マシなんじゃないかなぁ……あー耳痛ぇ」

「耳に紅茶が入ったんだろう」

村田のものじゃない男の声がすぐ横から聞こえて、首を倒すと金髪のアメフトマッチョが

どっかりと座っていた。

「よう」

「ぎょえっ!」

海老のように跳ね起きると、の手を引いて後ろ向きに這いずって離れた。






061.泣きたくなる時(1)






「なんだその反応は。せっかく濡れてねえところまで運んでやったのに」

「じ、自分がやったこと忘れたんじゃないだろうな!?どうやったら友好的に挨拶できるん

だよ!」

「今オレがしたじゃねえか、友好的な挨拶」

「屁理屈こねるなよ!」

おれが癇癪を起こしながら髪を掻きむしると、横でがおれを庇うように片手を上げて

後ろに下がらせようとする。

「お、おい……」

「下がって有利。友好的な付き合いができる関係じゃないんでしょう?」

困惑してを伺うと、警戒した目でアーダルベルを睨み上げている。片膝をついた姿勢で、

いつでも弾丸スタートを切れそうな状態だ。

「まあな、友好的じゃないといえばそうかな。ちょっとそいつの記憶を弄って言葉がわかる

ようにしてやったくらいだぜ。なあ、後ろの兄貴よ」

「そ、それに関しては助かったけど……」

何しろ、方法は強引だったらしいがアーダルベルトに法術で魂から蓄積言語を引き出して

もらえなかったら、おれはコンラッドとすら満足な意思の疎通が図れなかったのだ。

「けどあんた、コッヒーのことをバラバラにしたし、おれのことだって」

殺そうとしたじゃないか。

言いかけた言葉は慌てて飲み込んだ。にそんなことを聞かせたら、どんなことになるか

わかったもんじゃない。アーダルベルトよりを刺激しないように気をつけないと。

「なになに、なにかもめてるの?」

村田がのんびりと紅い染みのついた白い布を引き摺って歩いてきた。

「村田……」

そうだ、村田に魔術を見られたんだ。ここまで大胆にやっちゃったものを、今更どうやって

誤魔化すか。まあ無理だよな。

ここが異世界だと説明するチャンスと思うべきか。

「あのさ、ムラケン」

「いやーすごい手品だったよ渋……じゃないクルーソー大佐」

「手品!?」

絶句するおれの横で、が溜息をついて額を押さえた。

「本当にかっこよかったよー。マジックで女の子を助けちゃうなんてさ、生涯一捕手とか

野球がすべてとか言っておきながら、実はマジシャン志望なんじゃないの?」

「え?あ、い、いやその……マジックはー……趣味、かな」

「えー、あれだけできれば食べていけるよー。こっちを本業にして野球を趣味にしたほう

がいいって」

自分の意志であの紅茶巨人を作れるならな。それよりお前、木製バットを使っているプロ

志望の人間に対してそれは失礼なんじゃないか!?

「……お前も魔族か?」

「はい?僕はどっちかっていうと魔族よりマザコンかなー」

「……村田……お前って奴はとんだ駄洒落好きだよな」

だけどお陰でアーダルベルトの不思議な質問に村田は疑問も持たない。

「ふうん、村田くんマザコンなんだ。人のことブラコンとかシスコンとか言っといて」

「冗談の揚げ足取らないでよ、妹ちゃん!」

後先考えないギャグも危険。いわれのない疑いを掛けられる元だ。

「ああそうだ、はい大佐。完成品」

村田に手渡された白いテーブルクロスには、「正義」の文字が薄茶色で刻まれていた。

「お前には聞きたいことがあるんだよ」

横からテーブルクロスを取り上げられて、見上げるとアーダルベルトはさっきみたいな気楽

な表情を引っ込めて真剣な顔をしていた。

「お前の妹は違うと言ったが、本当にお前はジュリアの息子じゃないんだな?」

「そんなのロビンソンのデタラメだよ。婚約者だったんだから、あんたの方がそこんとこよく

知ってるだろ」

「え!?こ、婚約者?」

が驚いたように上擦った声を上げて、おれとアーダルベルトの視線が同時に動くと、もの

すごく狼狽していた。

「こ、こちらがジュリアさんって人の婚約者?」

「っておれは聞いてるけど」

「なんだ、国を捨てた奴と死んだ者の婚約を誰が話したんだ。口の軽い連中だな」

「誰ってヴォルフだけど……」

「……じゃあ……わたしの…勘違い……?」

ぐるぐるしていると、呆れたように肩を竦めたアーダルベルトと、確かにヴォルフラムは

口が軽いよなあと納得しているおれの横で、ムラケンが首をかしげている。

「なんだクルーソー大佐、知り合いかい?こんな異国の地で知り合いに再会できるなんて、

よっぽど強い縁があるんじゃないの?」

「む、村田……」

むしろそんな縁は切ってしまいたい。





「くっ……」

村田の向こうから呻き声が聞こえて、ひょいと肩越しに見るとボロ布の塊があった。

塊がのそりと動いて、驚いて声を上げかけたがそれがナイジェル・ワイズ・マキシーンだと

気付いてすんでのところで飲み込んだ。

ついでに部屋中を見回すと、壁も天井も窓枠も全部紅茶で濡れていた。

大惨事なのにちょっといい香り。

フリン・ギルビットは部屋の壁際からおれを信じられないものでも見るような視線を送って

きているし、隣の執事の胸ではさっき人質にされていた女の子が泣いていた。泣いている

けど、無事なようでよかった。

「……致命傷も骨折もない……見事なまでに細かい切り傷だけだ……」

マキシーンは壁に寄りかかりながらふらつく足で立ち上がり、ギラギラとした目でおれを睨み

つける。

「いったいお前は何者だ?アーダルベルトとは知り合いのようだが」

「髪と目ぇ見りゃあ判んだろう」

アーダルベルトが呆れたように肩を竦める。後ろからにいつの間にか脱げていたらしい

帽子を被せられて前からは村田にサングラスをかけられた。いや二人とも、もう遅いから。

「黒髪、黒瞳……か」

マキシーンはそれだけ呟くと天井を見上げる。色々と嫌になったらしい。

「せっかく護衛が誰もいないが、どうやら今日はもう時間がないみたいだな。残念だ」

アーダルベルトが入り口を振り返って、それからおれを押しのけて、ぐったりしているマキ

シーンの方へ歩いて行くと、肩を貸すようにして立ち上がらせる。

おれも入り口の方を振り返ってみると、遠くに慌しい足音が聞こえた。

アーダルベルトは連れをバルコニーに押し出して、自分も窓枠に足をかける。

「気がかりも消えたし、次に会ったときは遠慮なくいかせてもらうぜ。おいマキシーン、早く

降りろって……おっと」

恐ろしい最後の言葉を残してバルコニーから逃走しようとしたアーダルベルトは、怪我で

動きの鈍い相棒を乱暴に抱え上げた。お陰でナイジェル・ワイズ・マキシーンは尾を引く

悲鳴を残して落ちていく。

「急ぎすぎだぜナイジェル」

「あんたのせいじゃん……って、あいつ大丈夫なのかよ」

ここ三階だぞ?頭から落ちなかったか、今。

「いや、あいつ絶対に死なないから」

どこにそんな保証があるんだ。

アーダルベルトのろくでもない保証に呆れていると、後ろで乱暴に扉が開かれる。アーダル

ベルトはおっと、なんて軽く言って鉄柵を乗り越えてバルコニーから姿を消した。

「渋谷っ!あいつら銃を持ってるっ」

村田の焦った声と、の小さな悲鳴が重なった。

「銃!?この世界にそんなもの……」

振り返って、絶句した。隣ではが両手で口を押さえて震えている。

恐ろしくて、ではない。

いや、恐ろしいのかもしれない。

あの、恐怖の一夜をまざまざと思い出させる兵器が目の前に現れたから。

部屋に駆け込んできた十数人のうちの何人かの小脇には、通販番組で見るような小型の

掃除機みたいなものがある。

服装は濃緑色のマントなんかじゃなくてどこかの国の軍服らしい黄色と白の服だ。

顔も仮面でなんて隠していない。

だけど……だけどあの武器は嫌というほど目に焼きついている。

長いヘッドが一回震えると、燃え盛る炎の弾を吐き出す。バスケットボールよりも大きい

それが間近に迫ったのは、昨日のことだ。

そしてあの時、おれとを庇うように立っていたコンラッドは。

「……お前等か?」

が隣で泣き崩れる。

握り拳で震えるおれと、真っ青になって声を上げて泣き始めたに、村田が驚いておれと

を見比べているのが視界の端に映ってる。

だけど駄目だ。

おれにはもう、冷静に何も知らない友人を守るなんて考えるだけの余裕はなかった。

煮え立つような怒りだけが、胸に湧き上がる。

「渋谷っ」

武器の銃口からおれを庇おうとしたのか、村田がおれの腰にタックルを喰らわせた。

ゆーちゃん、とが泣きながら、それでもおれを庇うように前に出る。

大丈夫だ、避けなくても、盾になんてならなくても、標的はおれじゃない。

おれは怒りのまま、前に出たを抱き寄せて、何も見なくていいように泣き濡れた顔を

おれの胸に押し当てた。

憎い、許せない武器も。

それがどんな奴だろうと、これ以上誰かが傷つくところも。

が見なくて済むように。









小シマロンの人間は去ったものの、次に現れたのは、あの夜の武器でした。



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