身体中を駆け上るような昂揚感が頭の先まで達したと同時に眩暈がした。

頭が痛い、吐き気がする。

しまった、また有利に引き摺られかけている。

頭を抑えながら横に振って、引き摺られかけた意識を強引に取り戻した。自分でこんな

ことができるなんて、やっぱりちょっとは魔力をコントロールできるようになっているんだ。

いつの間にか倒れかけていたらしく、床に両膝をついていた。

目の前で倒れているメイドさんに手を伸ばしたら、大きな手が彼女をすくい上げるように

して抱き上げる。

まだ痛みが僅かに残る頭で見上げると、金髪のわたしに親切にしてくれた人……有利が

確かアーダルベルトと呼んでいた、彼がメイドさんを抱き上げている。

「こっちへ」

軽く肩を叩いてわたしを壁際に引っ張ったのは、村田くんだった。

「びっくりしたよ、急に倒れそうになるからさ。渋谷もすごい手品を始めるし!」

「……手品?」

部屋の中央に立つ有利の側には、ポットが割れて床に広がったものや、それぞれの

カップに残っていた紅茶が集まって何かを象ろうとしていた。

……これが手品?

村田くんって、頭が柔らかいのか固いのか、よくわからない。






060.それぞれの事情(3)






「命を奪う毒を弄び、その行方を知らんがためと、善なる者を傷つけるに咎めなく、悪なる

者にへつらうに後れなし。その性根救う手立てなし、やぬをえぬ、おぬしらを斬る!」

有利の口上はもうほとんど終わっていたようだった。集まった紅茶が段々と人の形になっ

てくる。

「お前があいつの妹というのはデタラメか」

村田くんとは反対側から声を掛けられて、振り仰げばぐったりしているメイドさんを片手で

支えた親切だった人……アーダルベルトさんが立っている。

一旦は彼女を放っていたけど、今度は助けたんだよね?

……よく判らない人。

「答える必要があるの?」

「……黒か!」

瞳の色は彼の同行者、ナイジェル・ワイズ・マキシーンに既に見られている。今更隠しても

一緒だとまっすぐに見上げたら、驚いたように目を見開いた。

「では、本当に血縁なのか?」

「……有利とどういう知り合いなの?」

質問に質問で返すと彼は軽く苦笑して、それから有利を見やった。

「さてな……なんと言えばいいのか」

「こ、紅茶鬼人……?」

今度は村田くんの引き攣った呟きにつられて有利の方を見ると、紅茶は天井にまで届く

くらいの人型になっていた。両手と思われる四本の指がギルビット夫人とマキシーンを

狙うように指し示し、指先から紅い弾丸のように大粒な滴がふたりの標的に連打で浴び

せられる。

「小規模成敗っ!」

マキシーンに叩きつけられた粒は高圧でも掛けたように刃となって皮一枚くらいの浅い

傷を刻んでいくというのに、ギルビット夫人への粒は水滴のまま、多分痣にはなるだろう

攻撃だった。

「あの状態でも有利は有利ね……」

「すごいぞ渋谷!これが流行のキモ可愛いってやつかな?」

村田くんは手品というより戦隊ものの番組を見ている子供のように喜んではしゃいでいる。

あなたも大物だよね……。

「あの石は……あいつ、どこで手に入れたんだ。あれはジュリアのものだっ」

上から驚愕に震える声が降ってきて、振り仰いで視線を追うと有利を凝視している。あの

青い魔石が、僅かに鈍い光を放っていた。有利の魔術に反応しているのかもしれない。

「ジュリアって……」

この短時間で三回も聞いた名前だ。有利の呟きから察するに、フォンウィンコット家の人

のようだった。それから村田くんが有利のお母さんだと言って、そして今ー……。

待って。フォンウィンコット家の人なら、有利が知っていてもおかしくない。だけどどうして

村田くんがその名前を知ってるの?だから有利は驚いたんだ。知っているはずのない

名前を村田くんが口にしたから。

「村……」

「教えてくれ!お前は本当にあいつの妹か!?フォンウィンコットの者なのか?」

肩を掴まれ揺さぶられて、目が回りそうになる。

「ちょ、ちょっと……」

「ああお兄さん、うちの可愛い子に何するの。そんな乱暴なお触りは厳禁だよ」

村田くん、肩を掴んだ手を振り払ってくれたことには感謝するけど、何だかその言い方に

は色々思うところがあるんですけれど。

「あいつは本当にジュリアの息子なのか?」

しつこいくらいに訊ねられ、その真剣な表情に困り果てる。ここで違うと言っちゃっていい

のかなあ。

でも、傷を治してもらった恩はあるわけで。

「……確かに、わたしは有利の妹だけど……」

「お上にも情けはある!追って沙汰を申し渡すゆえ、己の罪を噛み締め待つがよい」

「あ、小芝居が終わった」

村田くんが拍手をする。成敗が終わると有利はいつも。

「あー!有利っ!」

倒れるんだよね。

派手に紅茶の水しぶきが上がった。





「有利っ」

紅茶を跳ね上げながら有利の側に駆け寄ると、倒れていた身体を抱き起こす。いつもの

ように眠っているだけだとわかってほっと息をついた。

部屋は惨憺たる有様だった。床も壁も天井も紅茶で水浸しだし、テーブルの上にあった

食器や燭台なども床に散らばり紅茶に塗れている。

床に倒れ伏したギルビット夫人を執事さんが抱き起こしていて、いくつもの浅い切り傷を

作ったもう一人の標的も床に伸びていた。

とにかく有利を紅茶の水溜りから連れ出そうと、水浸しになりながら肩に担ごうとしたら

急に重みが消えた。

「貸してみろ」

貸してみろって、もう抱き上げて連れて行ってるよ。

「ま、待って有利を返してっ!」

有利を抱き上げた背中を慌てて追いかける。紅茶に濡れていないところまで戻ってから

わたしを振り返った青い目は、真剣な光を宿していた。

「質問に答えたなら返してやる。お前は魔王の妹なんだな?それで、フォンウィンコット

の……ジュリアの娘なのか?」

「確かに、有利の双子の妹です。でも、フォンウィンコットの血は引いてない。わたしは

ジュリアという女性がどんな人かも知らないもの」

アーダルベルトさんは青い目を一度閉じて、痛みに耐えるように眉間にしわを寄せる。

「……そうか……そうだ、な………そうだろうな……」

よほど大事な人なんだろうか。でもそれなら、こんな大きな子供がいるかどうかくらいは

知っていそうなものだけど。

色々と事情があるには違いないけれど、彼はやがて目を開けると有利を床に降ろした。

わたしはその横に座って、有利の頭を膝の上に乗せる。部屋の中はまだ雑然としていて、

それぞれみんな自分のことだけで周りに気を配る余裕なんてない。

ひとりだけ例外の村田くんは、紅茶塗れになった壁の絵を見てはうわーと嘆いて回って

いるけれど。

「それなら、この石はどこで手に入れたんだ。これはジュリアの……フォンウィンコット家

のものだ」

わたしの横に本格的に腰を降ろしたアーダルベルトさんが有利の胸元の石を手に取って

まじまじと眺める。

「それは……」

コンラッドから。

その名前を口にするのに、一呼吸が必要だった。紅茶に濡れた有利の髪を撫でながら、

服の下に掛けている袋を服の上から握り締める。

「お守りだって……コンラッドからもらったものだと、聞いているわ」

「……なるほど、ウェラー卿か」

やっぱり、この人は魔族なんだ。コンラッドのことを知っている。

それにしても……ジュリアって誰?

コンラッドにこの石を渡した人なのはわかった。

フォンウィンコット家の人だということもわかった。

下を向くと、膝の上で有利は何があったかも知らないように眠っている。

有利は友人だと言ったけど、だったらどうしてわたしが訊ねたときに動揺したんだろう。

家紋が刻まれているような品を、ただの友人に渡したりする?

答えなんて出ているようなもので、今はそれどころじゃないと判っているにズキンと胸が

痛む。

コンラッドはもう百年も生きているんだから、恋人のひとりやふたり、それどころかツェリ様

みたいに結婚暦があったっておかしくはないよね。

それも判っている。

今の話じゃない。

でも、有利に渡すまでずっとこの石を身に付けて持っていたんだ。そして、今はとても大切

にしている有利にお守りとして渡していて。

……だから今はそれどころじゃない。

「……あなたは、魔族の人だよね?」

今、この場のことを考えなくてはと頭を振って、アーダルベルトさんを見上げた。

「有利があなたを知っていた。アーダルベルトと呼んでいたけど」

「オレは魔族を捨てた。護衛に使おうなんて思わないことだな」

「捨てた……?あ、ううん。護衛なんて考えてない。だってあなたは、小シマロンの人と

一緒にいるもの」

「ふん、確かにな……」

口の端を歪めて笑うと、有利の魔石を弄んでいた手が今度はわたしの顎を掴んだ。

「魔王とその妹、それに従者にしちゃひ弱そうなガキがひとり。人間の、それもシマロン

の土地を旅するには随分な組み合わせじゃねえか。そのウェラー卿はどうした。魔王に

ご執心らしい三男坊は?」

息が詰まった。

コンラッドがどうしたって?

そんなの……今頃、眞魔国で治療を受けているに決まっている。片腕をなくしてしまうよう

な重傷を負っているのだから、さすがに有利やわたしを探しに出ることはできないだろう。

きっと今頃心配している。

服の上から小袋を握る手に指先が白くなるくらい強く力を込めて、人に断りなく触ってきた

手を払った。

「小シマロンの人に、答えることじゃないわ」

今は涙を見せちゃいけない。弱気になるな。声が震えないように堪えたら、睨みつける目

にも力が篭ってしまった。

睨みつけた男は、叩かれて少し赤くなった手を振ってにやりと笑う。

「ふうん、なるほど……魔王の血族か……」

何がおかしいんだとますます睨みつけていたら、下から小さな呻き声が聞こえた。

「ううーん……魅惑のベサメムーチョ……」

一体何の夢を見ているのよ!?









本当になんの夢を見てるんでしょう、有利(笑)
魔石の元持ち主については……中途半端な情報のせいで、中途半端な
想像になってしまってます。



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