マキシーンさんとノーマン氏のやりとりは、確かに傍で聞いていても威圧的で気分は良く ないものだったけど、シマロンの人が相手ならとにかく巻き込まれないようにすることが 第一だと思っていたのに、有利はあっさりと割り込んでいってしまった。 「……有利ぃ……」 「ほんっとにお人良しだよね、渋谷は」 わたしが両手で顔を覆って溜息をつくと、村田くんの軽く呆れたような、だけどほんの少し 楽しそうな声が聞こえた。 うん、その気持ちはわかるよ。 困っている人を、特に無理難題を要求されて困っている人を放って置ける有利じゃない ものね。 そう諦めていたら、マキシーンさんの怒鳴り声が響いた。 「これは一体どういうことだ!」 「え、何が……?」 隣で息を飲んだ村田くんを振り仰ぐと、こっそりと耳打ちしてくる。 「ノーマンさんは女性だったんだ。それより、今なら誰もこっち見てないからこっそり目を 開けて見てたら?」 ごもっとも。 060.それぞれの事情(2) ということで、村田くんの忠告に従って、そっと薄目で誰もこっちを見ていないことを確認 してから、ようやく目を開ける。やっぱり目で見ていないと有利にもしものことがあった時 にとっさに動けないしね。 そうして、確かにノーマン氏が座っていた椅子に、ノーマン氏の衣装で座っていたのは プラチナブロンドの美しい女性だった。 「これはどういうことだ、ノーマン・ギルビット!いいや、ノーマン・ギルビットですらなかっ たのだな。我々は誰とも知らぬ女に領地を任せていたということなのか!」 騙されていたと知ってマキシーンさんが激怒する中、壁際から危うい足取りで執事さん が戻ってきて、マスクを握り締める女性の拳に両手を重ねる。 「奥方様……」 執事さんが奥方様と呼ぶということは、彼女はギルビット夫人なんだろうか。 「私はノーマン・ギルビットに会いに来たのだ!」 マキシーンさんが更に激して次々とテーブルの上の食器を落として、部屋の隅にいた メイドさんが悲鳴を上げる。 わたしとしては、呆れるばかりだ。子供の癇癪じゃないんだから……。威圧にしたって、 もうちょっと何とかならないものか。 「私は小シマロン王サラレギー様の命を受けて、ギルビットを問い詰めるためにここまで 来たのだ!なのに当の本人は行方は判らず、どの馬の骨ともつかない女と対面させら れるとはな!」 「馬の骨とは失礼な!奥方様は旦那様がお元気だった頃よりずっと……っ」 「ベイカー、いいのです。マキシーン様のお怒りももっともです。こうなった以上は全てを お話しして、シマロン本国の許しを請うしかありません」 部屋中の注目を浴びて、そっと薄緑色の瞳が伏せられた。 今のうちに有利をこっちに連れ戻したいのに、有利はギルビット夫人とマキシーンさんの すぐ横にいて、腕を引きに行けば目立つことこの上ない。 「私……フリン・ギルビットが夫ノーマン・ギルビットと結婚したのは六年前の春でした。 夫は幼児期の病のために、仮面をつけたままの生活でした。けれどそれは構わなかった。 ノーマンはとても優しくて、領主としても人間としても尊敬できる人だったから……」 伏せられたまつ毛が僅かに震えるのが見えた。だけど次の言葉に、わたしもびくっと震え てしまう。 「けれど三年前、馬車の事故でノーマンは命を失ってしまった」 「死んだ!?」 誰と誰の声だったのかはわからない。 命を失った。 死んだ。 聞きたくない、聞くだけでも恐ろしい言葉。 違う、関係ない。 わたしは、身近な大切な人を失ったことなんてないもの。 ……絶対に、ないもの。 「なんだと!?ではカロリア自治区はもう三年も前から本人ではなく妻が治めていたと いうことか」 「ああ旦那様、お気の毒に。しかしこのベイカーが奥方様にしっかりお仕えします」 「こんな若い奥さんを残して亡くなるなんて、旦那さんも未練ありまくりだろうなあ」 「なんで奥さんが一人でここを護っているかっていうと、多分この国には江戸時代みたい な末期養子の禁があるんだね」 「……この中にどっかで聞いた声があるような気がするんだが……」 衝撃事件に怒り続行中のマキシーンさんと亡き主に誓いを立てている執事さんはともかく、 後の三人の独り言はなんなの? 有利の感想も微妙だけど、村田くんは冷静に事態を分析しているし、親切な人に至っては 全然違う事を気に掛けている。 どこかで聞いた声って、わたしのものじゃなくて? そんなはずはない。だってわたしは今、一言も口を利いていない。 ギルビット夫人は堪えきれないように、ぽろぽろと涙を零し始める。 大切な人を失った悲しみに零れる涙を、今は見る勇気がなくて顔を伏せてしまう。 「でも泣いてばかりはいられませんでした。私はノーマンとの間にまだ子供を授かっていま せんでした。だからこの家を継ぐ者がいなかったのです。ノーマンと血の繋がった親戚から 養子を迎えることも考えましたが、シマロンの法律では死後の養子縁組は禁止、無効です。 このままではこの領土は国家に寄進され、シマロンの財産の一部になってしまう」 「いくら自治区とはいえこの地は小シマロンの国法に従うのが当然だ」 「なんとも不憫な旦那様。ご自分の後継ぎを一目見てから逝きたかったでしょうに……」 「子供も居なくてずーっと新婚さんでラブラブだったんだろうなあ」 「ほらね、末期養子の禁が出てきた。これは藩のお取り潰しには役に立つけど……」 「どうもどこかで聞いた声なんだよなあ。しかし声だけで断定できるほど、自分の記憶に 自信はない。自慢じゃないが、かなりない」 やっぱり親切な人だけ違う事を気にしている。 それはともかく。 「村田くんうるさい」 とうとうと江戸時代の藩制度について語る村田くんの腕をつねる。服の上からだから痛く はないと思ったけど、驚いたようにわたしを見る。 「え、ぼ、僕だけ?」 「横に居るのは、あなただけだから」 「横に居たって渋……じゃない、クルーソー大佐ならつねらないくせに」 「当たり前でしょう」 「すっごい真顔だし……」 外野のやり取りなんて気にも留めずにギルビット夫人の告白が続く。 「もっと厄介なことに、シマロン法では女が家を継ぐことさえ許されません。どうすればいい のか……悩んだ私の目に映ったのはこの仮面でした。あの人は幼い頃から誰にも素顔 を曝したことがないのだから、声さえ隠してしまえばどうになると思ったのです」 そうして三年もの間、確かにどうにかなったというわけだ。 彼女の情熱に感心すべきなのか、周囲の鈍さに呆れるべきなのかはわからない。 そのままギルビット夫人は仮面生活の苦労話に突入しようとしたけれど、マキシーンさん も使者に選ばれるような人だけにそんな手には誤魔化されなかった。 「ノーマン・ギルビットの死に関しては議会にかけ、養子の問題も検討しよう。だがそれと これとは別の話だ。ではフリン・ギルビット、この三年の間の領地を治めていたあなたに お答えいただこう。シマロン本国の開戦論に異を唱え、独自に反戦運動を展開している というのは本当か?」 「いいえ、そんなことは一切していません」 二人の側で、有利が落胆に肩を落とした。 例え反戦運動していたとしても、ここで「はい」と答える人はいないと思う。 だけど、彼女はまっすぐにマキシーンさんを見据え、少しの動揺もない。内心くらい隠せる ということを期待したいけれど、たぶん本当に反戦の運動まではしてないに違いない。 マキシーンさんや親切な人が町で聞いて回っていたというように、開戦に対する不満くらい は持っていたかもしれないけれど、不満と積極的な反対はまったく別物だ。 「では我々の元に届いた、ギルビットに関する情報はどう説明する?」 「情報というのは?」 「ウィンコットの毒だ」 またウィンコット? 思わず村田くんと顔を見合わせる。それにしても毒というのは随分物騒な響きだね。 「ウィンコットの毒を使って、誰かを何かを操ろうとしているという情報が入った」 「誰をです?」 「それはこちらが知りたいものだ」 もはや今のギルビット夫人には、先ほどまでの悲しみや憤りのような感情は一切見えず、 ふてぶてしいまでに平然と顔色ひとつ変えずに答える。 「あのひどく厄介な毒は使いどころを弁えなねばならない。しかしウィンコット家が西に流れ 魔族となった今、現物が保存されているのはこの家だけだという。この毒について我々が 語るとき、常に話題の中心はこの館なのだよ。ここから持ち出されはしないか、誰かに売ら れはしないかとね」 それがどんなものかは知らないけれど、毒という響きだけでも十分に禍々しいイメージが ある。そんな恐ろしげなものを自由に動かす事が、この一見かよわげな女性にだけ可能 だったということになる。 ギルビット夫人は小首を傾げるようにして小さく笑う。 毒なんていう恐ろしそうなものが話題に上っているとは思えないくらい無造作に。 「もちろん、地下貯蔵庫にはウィンコットの毒が保管してあります。正当な取引きであれば、 いつでも譲る気はあるわ。ナイジェル・ワイズ・マキシーン。もちろんあなたにでも」 にっこりと美しく微笑んだギルビット夫人とは対照的に、マキシーンさんの口元が歪む。 「では、最近誰に譲ったのかを教えてもらおうか」 「残念ながら……教えられないわ」 話が長引いてきて、教育が行き届いているのか、メイドさんのひとりが決して話の邪魔を しないさりげなさでテーブルに人数分の紅茶を淹れて行く。 村田くん、呑気に紅茶を啜ってないで。 どうにかこの重い空気の中から有利を連れ出せないものかとさりげなく部屋の中を見渡し たものの、出入り口はわたしの後ろにある扉一ヶ所だけで、有利を目立たずこちらに連れ てくることは現時点では不可能だ。 かといって、有利の向こうにバルコニーが見えるとはいえ、ここは三階だから飛び降りる というわけにもいかない。 あとは有利本人が紅茶でも取る振りをしてさりげなくこちらに向かってくれる事を願うだけ だったけれど、残念ながら本人にその気がない。 村田くんに至っては、ややこしそうだねと呟いて紅茶を啜るだけ。だけど有利一緒でじっと ふたりの問答に集中しているようでもあった。 「教えられない、では済まされない。この土地はシマロン領だ。属国は宗主国であるシマ ロンに問われたら報告する義務がある」 「だからこそ教えられないのよ」 ギルビット夫人のきっぱりとした答えに、マキシーンさんは軽く溜息をついて紅茶を飲み 干したカップをティーポットを持ったメイドさんに差し出した。 彼女は当然のこととして、客人のカップに紅茶を注ごうと近付く。 次の瞬間に、陶器の砕ける激しい音が響き、回転させられてこちらを向いた彼女と目が 合ってしまう。床に膝をついた彼女の目が驚愕に見開かれたのは、わたしの黒い瞳を 見たからじゃない。 首を絞められているのだ。 マキシーンさんに。 「何し……っ」 「その娘を放しなさい!」 有利が驚いて怒鳴りつける前に、ギルビット夫人が鋭く言い放つ。だけどマキシーンさん は酷薄そうに笑って両手をゆっくりと横に引くだけだ。 ピアノ線か何かのようで、ここからでは彼女の首を絞めているものが何なのか、見えない。 ただ彼女が苦しそうに喉を掻きむしり、その両横にあるマキシーンさんの拳がゆっくりと動く。 それだけしか確認できない。 「聞こえなかったの!?その娘を放すのよ!」 「聞こえなかったのか?毒を譲った先を言え」 脅しで、そんなひどいことをしているの? 力を持ったものが、女性を暴力で脅す道具にしようとしているなんて! 「相変わらず趣味が悪ぃなあ……」 呆れた声が横から聞こえて、振り仰ぐと親切な人が……わたしには親切にしてくれた人が 肩を竦めていた。 それだけだった。 連れの行為を止めるでもなく、奨励するでもなく、ただちょっと呆れただけ。 首を絞められたメイドさんが小さく詰まった咳をして、唇の端から泡と一緒に赤い血が一筋 流れ落ちる。 「し、死んじゃうよ!早く放さないと!」 側にいた有利が彼女に飛びつくようにして首の周りを探っているけれど、上手くいかない ようだった。焦った横顔に、わたしも走り出す。 「彼女の首じゃない!相手の手首を掴んで!掌から指一本くらい下を思い切り押し上げる のっ!」 掌や指を操る血管や神経は、当然その入り口である手首を通っている。有利だって野球 のスウィングで握力はそれなりにあるんだから、力いっぱいそこを掴めばちょっとでも彼の 力を緩める事ができるはず。 「!」 後ろから村田くんの声が聞こえたけれど、言われなくてもわかってるよ。わたしにも我慢 が足りないことくらい! だけど目の前でひとりの女の子が殺されそうになってるのに、放ってなんておけない! 誰も……誰も目の前で死なせたくなんて、ない。 有利は一度振り返り、それからナイジェル・ワイズ・マキシーンの左腕に飛び掛った。 抵抗にあいながら、こちらを振り返る。だけど見ているのはわたしじゃなかった。 「アーダルベルト!頼むよ、彼女を助けてくれよっ!」 叫んだ時に、力強い腕に振り払われて床に転がる。 「有利っ!」 駆け寄ったわたしに、茶色の瞳が驚愕に開かれる。 「貴様……その目はっ」 目の色を見られたという焦りも、この瞬間にはなかった。飛び掛ろうとしたけれど、その前 にいつの間に来ていたのか村田くんが横からタックルを脇腹に決めたのだ。 「メイドさんをいじめるなーっ」 舌打ちと一緒に村田くんは肘で跳ね飛ばされ、わたしは飛んできた蹴りを腕でガードする。 自分から飛び掛っていたから、避けることまではできなかったのだ。 「つっ……!」 痺れるような痛みに顔をしかめながら、目の端には口を切ったのか血を一筋流した村田 くんが床から起き上がるのが見えた。 「貴様、その目は………!」 有利、わたし、村田くんと素人ばっかりでも三人から飛び掛られて、メイドさんを拘束して いた力が緩んだのか、彼女の身体が床に崩れ落ちる。 同時に、全身が総毛立つような昂揚感が駆け抜けた。 |
結局、目の前の非道を見過ごせず有利だけでなく、村田と一緒に飛び込んでしまいました。 |