親切な人に港まで送り返されてしまって、また街外れに行くというのも気が引けた。 何より再び二人のうちどちらかとばったりなんていう事態になれば今度こそごまかせない のではと諦めて、港の端っこの大きな木箱に寄りかかりながら、膝を抱えてぼんやりと空 や海を見上げていた。 058.地図の無い世界(2) 何にもすることなくぼうっとしていることがこんなに苦痛だとは思わなかった。 今の状況でただ座っているだけだと、頭の中がコンラッドの事でいっぱいになってしまって 泣きたくなる。 ジャケットの下に提げていたイヤリングの入った小袋を握り締めた。 大丈夫、コンラッドはちゃんと今頃治療を受けているはずなんだから、今は有利を連れて 帰ることを考えないと。シマロンが開戦の準備を整えつつあるというのなら、どうにかして 戦争にならない方法を見つけるためにも、できるだけ早く帰らないといけないんだから。 戦うコンラッドの背中が目に焼きついている。あんなことを繰り返しちゃいけない。 泣くな、泣いている場合じゃないと頭の中で繰り返し、頑張って頭の中で眞魔国までの 帰国ルートを思い描こうとした。 途端に壁にぶち当たる。 眞魔国と小シマロンの位置は大体把握しているのだけど、残念ながら小シマロンの国内の 地名まで知らないから、ここが領土のどの辺りになるのか、頭の中の地図から導き出せな かったのだ。 「まず旅行ガイドというか……地図がいるなあ……」 そして、なによりこのカロリアのギルビット港から出ている船の行き先にどこの候補がある のかもわからない。乗り継ぎ乗り継ぎで帰るにしても、効率よく進むためには行く先の港の 位置がわからなければどうしようもない。 地図なら本屋さんかなあと木箱から顔を出して街のほうを見てみるけれど、さっきの親切 な人が今どの辺りにいるかわからない。 もうしばらくここで時間を潰してから本屋か地図屋かを探しに行こうと、膝を抱えて小さく 丸まっていると、そのままうとうとと居眠りをしてしまった。 肌寒さに目が覚めた。 立てた膝に埋めていた顔を上げて、ぼうっと空を見上げる。変な姿勢で寝ていたから腰と お尻と背中と首と……要するに全身が痛い。 変な姿勢で……。 「………寝てた!?」 慌てて立ち上がるものの、周囲はすでに日も暮れかけて夕陽が海に沈みかけていた。 有利と村田くんが一生懸命に労働している時間を、すっかり無為に過ごしてしまった。 ご、ごめんなさい、ふたりとも……。 「ー!ーどーこーだー?」 「違うってば渋谷。スーザンだろ。スーザーン!」 がっくりとうな垂れていると有利と村田くんの声が聞こえて、慌てて木箱の陰から這い 出して声のする方に駆け出した。 「こ、ここ!ここです、ごめんっ」 駆けつけたわたしに、有利と村田くんはそれぞれ海と街の方向に向けていた声を揃える。 「あー、いたいた」 「ご、ごめん、ちょっと……かなり寝てた」 小さくなる思いで正直に申告すると、村田くんは顎に手を当てて頷いた。 「ああ、いいことだね。体力は少しでも回復しておかないと。ほらね渋谷、君は心配しすぎ なの」 自分たちは働いていたのに、と怒るかと思ったら村田くんはさらっと流してくれた。しかも いいことだって。 今まで結構な態度しか取ってこなかったわたしに対してなんて寛大な。 村田くんの度量に申し訳なく思っていると、有利は安心したように胸を撫で下ろす。 「いくら呼んでも返事がないから異人さんに連れてかれたかと思ったよ」 「心配しなくても妹ちゃんは赤い靴なんて履いてないって言ったのに」 それは童謡の話では。 「そろそろ店が閉まる時間だろうし、とにかく服を買おうぜ」 「う、うん」 歩き出した二人に、慌ててついていきながらそういえばと麻袋を取り出す。 「あのね、親切な人に施しをもらっちゃったんだけど」 「へえ施しって……おい!今日おれらが稼いだ額より多くねえ!?どこの親切な人!?」 「さ、さあ……口ぶりからは、その…小シマロン本国の人っぽかったけど……」 「お前、今日なにやってたの!?」 シマロンの名前なんて出せば有利が心配するだろうとは思ったけど、伝えなくてはなら ないこともあるから正直に言うと、やっぱり血相を変える。 「そっかー、妹ちゃんに街頭に立ってもらえば早かったか」 「な、何か誤解がない?」 街頭に立っていればって。 「えー?いや、君が男嫌いなのは有名だからそれは無いってわかってるよ。でもさ、お金 くださいって僕や渋谷が言うよりは、立ち止まってくれる人が多そうだなって。美少女は お得だよね、ヒッチハイクとかでもさ」 美少女は言いすぎ。でもヒッチハイクで女の子が得なのは確かでしょうね。 とはいえ、この世界でヒッチハイクは難しいんじゃないかな。馬車は基本が乗合だし。 「それでその……ここは小シマロンの領土だって……」 「それは僕らも聞いたよ。ここはカロリアだって。聞いたこと無い土地だよ。さすがに日本 の領事館はないかもね」 村田くんだけは事の深刻さがわかっていないから、呑気にまだ領事館を当てにしている。 だから無理なのよと、どう説明したものか。 「それと……シマロンが眞魔国と戦争準備に入ってるって……」 小さくそう付け足して有利をちらりと見ると、真剣な表情で頷いた。これも聞いていたんだ。 「そうなんだ、戦争が始まるかもしれないらしいね。また不安定な国に流れ着いちゃったよ。 大変な事になる前に早く日本に戻らないとね」 大変な事になる前に、戦争を止めなくちゃいけないんです。 心の中だけで訂正しておいて、今日のわたしの行動に有利が心配そうな顔をしているの で嘘話を説明する。手の傷を治してもらったことも含めて……だめだ、村田くんになんて 説明できるの。 傷を癒してもらったことだけ省いて、人とぶつかってから港までの話を説明すると、有利は 呆れ顔で、村田くんは感心したようにそれぞれ感想を漏らす。 「お前、よく咄嗟にそこまで嘘をつけたな」 「海賊か。そうだよね、日本人には馴染みがないけど、外国ではまだそういう職業がある っていうしね。海賊なんてよく思いつたよね。よし、その設定で領事館にも説明しよう」 そうね、海賊に襲われたことがなければ、日本人にはまず出てこないでしょうね……。 その経験を持つわたしと有利は複雑な気分で顔を見合わせる。 「黒は不吉だって話だし、妹ちゃんの話を流用して、渋谷と妹ちゃんは目を傷めてるから サングラス着用ってことにしよう。どっかでもう一個サングラス買わないと。幸いその単純 な人のお陰で資金はあるし」 言っちゃった。単純じゃなくて親切な人だということにしておいて。じゃないとわたしがもの すごい悪人みたいじゃない……嘘ついたんだけどさ……。 日が暮れて閉まりかけだったお店にどうにか間に合って、三人分の服を一式買い揃えた。 こうなると、当然。 「……、そのジャケットは捨てた方がいい。おれにも村田にも大きいから、誰が着ても 目立つし」 「……わかってる」 「もったいないよね。結構いいジャケットだから泥だらけでさえなければいい値で売れそう なのに」 わたしが手放し難いのはそういう意味じゃなくて……。 だけど村田くんにそれを言っても仕方が無い。それに、コンラッドの物にこだわらなくても 大丈夫。眞魔国に帰れば本人に会えるんだから。 だから大丈夫……。 新しく買った服の下にある小袋を握り締めて、ジャケットを手放す。 有利はそっと肩を抱き寄せてくれた。 結局、買い物は服でタイムアップだった。 サングラスは服屋さんにはなかったので、わたしは俯いて歩くことでごまかすことにする。 地図もまた明日だ。 村田くんにはどう説明するかという困惑にちょっと道が見えた気がする。明日、世界地図 が手に入れば一目瞭然なのではないだろかと思ったのだ。 だってこの世界の地図には、日本はおろかユーラシア大陸だって載っていない。 この世界には存在しないからだ。 子供のおもちゃの地図だと騒ぎ出すことだけが心配だったけど、今ここで困ったのは手 の傷の方だ。コンラッドのジャケットを着ている間は袖が長すぎて手が隠れていた。 けれど自分に合わせた服で手が表に出て、治っていることを村田くんに悟られないよう に手袋も購入した。 でも有利にだけは教えて安心してもらおうと、村田くんが日本の領事館の場所を住人に 質問している間にこっそりと耳打ちする。 「あのね、有利。さっきの親切な人の話の続きなんだけど、実は法術が使えたらしくって 手の傷、治してもらったの」 「え!?マ、マジで?」 「うん。ほら」 村田くんがこちらを見ていないことを確かめてから手袋を取って、その下に巻いていた 布を外す。 「……ホントだ。ちょっと傷跡が残ってるくらいだ……」 有利がほっと息をついて確認したことがわかったので、村田くんが戻ってくる前に布を 巻き直して手袋をはめる。 「本当にお世話になったんだよね……それなのに嘘ばっかり」 溜息をつくと、有利が軽く肩を叩いてくる。 「しょうがないよ。本当のことは何も言えないし、第一眞魔国からここまで飛んで来ました って話、こっちの人間でも信じないって」 信じられても困るけど。 「おーい、ふたりともこっちだってさ!」 まさか領事館があったはずもないのに、何人目かに質問していた村田くんが手を振って わたしたちを呼ぶ。 「どうもやっぱり日本の領事館はないみたいなんだよ。ま、仕方ないね。カロリアなんて 地図でも見たこともない小国だし。この際アメリカでもイギリスでもドイツでもいいから、 保護してもらえれば御の字だよ」 村田くんが先に立って歩き出して、わたしはようやく違和感に気付いてその背中に声を かける。 そうだ、村田くんはさっきからおかしい。 ここがシマロンの領土だと「聞いた」と言っていた。さっき服を買ったお店でも、店員さん と普通に話していた。そして今も、住人に有利やわたしの通訳なしに質問をしていて。 「どうして言葉がわかるの?」 今まで疑問に思わなかった方がおかしい。どれだけぼんやりしていたんだろう。 「え?ああ、だって僕、ドイツ語を勉強していてさ。同じじゃないけど、ここの言葉は…」 もうだいぶ日が落ちて、暗がりの中で振り返った村田くんは笑っている。 「似てるよね。わたしもドイツ語は勉強しているからそれは知ってる。でも、半分くらい しか言葉はわからなかったよ」 その笑顔が一瞬、固まったように見えたのは気のせいだろうか。横で有利が怪訝そう にわたしと村田くんを交互に伺っているのがわかったけれど、わたしの視線は村田くん から外さない。 「……でも、妹ちゃんも普通に話している。スラスラと作り話ができるくらいに」 「それは……」 「だったらわかるんじゃない?」 勉強したから、と言うと今度はいつの間にということになると戸惑ったら、村田くんは またにっこりと笑う。 「妹ちゃんも低地ドイツ語を勉強してるんだ?」 「て、低地ドイツ語?」 「そうだよ。知ってるんじゃなかったの?ドイツ語って言っても日本語と一緒で方言が あるんだよ。普通日本でドイツ語だって学ぶのは南部方言。その中でも中央ドイツ語。 僕が勉強しているのは低地ドイツ語。北部方言の方だよ。僕の贔屓のサッカーチーム がそっちの方面にあってね。妹ちゃんはなんでまたわざわざ北部方言を習ってるの?」 方言だったの!? 地球のドイツ語はまだまだ勉強中の身なので、当然方言までチェックしていない。という か方言なんて日本語でだってわからないものがたくさんある。そうか、こっちの言葉が 似ているのは、ドイツ語の方言となら酷似しているからなんだ。 そうなると、今度は自分の方をごまかさなくてはいけなかった。 「えーと……居合い道場の師範の知り合いの方が、そっちの人で、その人に教わってる からかしら。そっか、あれは方言なんだ」 「へえー渋谷もその人に習ってるの?」 「え!?そ、そう!ついでだからって一緒に!」 有利は慌てて頷いて、それから意気揚揚と再び歩き出した村田くんの背中に困惑した 声を掛ける。 「あのさあ村田、お前が仕入れた情報の領事館……みたいなところで、全然話が通じ なくて、なんの解決にならなくても……あんまり落ち込むなよ」 解決されるはずがない。そこはアメリカやイギリスやドイツの領事館なんかじゃないから。 むしろ、変な話をする子供三人組だとつまみ出されるのがオチだろうと思う。 「悲観的だなー、いつもの渋谷らしくないぞ。ひょっとして鎖国国家だったとしても、電話 だけでも借りられればどうにかなるって」 「鎖国してたら国際電話できないんじゃないの?」 「電報くらいはどうにかなるって、たぶん。手紙って方法だってあるしさ」 村田くんのその明るさは単に気楽なのか、それとも不安にならないように少しでも明るく 振舞おうとしているのか、どっちなんだろうとその背中を見ていたら、遠くに月ではない、 火の光りが見えた。 |
村田の怪しさがちょこちょこと……。 |