有利が目の前にいて、怪我がないのだとわかると今度はコンラッドの事が心配でたまらなく なった。 わたしのせいで、コンラッドの左腕が。 掌に深く刻み込まれた傷と渇いた赤い血をぼんやりと眺めていてばっかりで、村田くんが いるなんてちっとも気がつかなかった。 今は塩水が掌に沁みて脈打つように痛い。 たったこれだけの怪我でこんなにも痛い。 コンラッドは左腕を無くしてしまったというのに。 057.今日を生きてく強さ(2) とにかく傷に沁みて痛い塩水を拭いてしまおうと、手近にあった自分で脱いだ泥だらけの シャツをひっくり返して手を擦りつけた。固まっていた血が濡れたせいで泥と一緒にシャツ にこびり付く。 赤いそれを見ているだけで泣きそうになる。コンラッドの腕……切り口が鮮やかだったの かまだ血は出ていなかったけど、確かに一瞬前までコンラッドの意志で動いていたのだと わかる、自然な形に指が曲がっていた。 「村田もその格好じゃ風邪引くよな。ちょっと湿ってるけど防水仕様だからマシだろ。この マント着とけよ。んで代わりにおれにはエプロンよこせ」 「まあ妥当な線だね」 ふたりの会話が聞こえてきて顔を上げると、わたしが脱ぎ捨てた外套を村田くんが羽織り、 有利は村田くんから受け取ったエプロンを後ろ向きにつけて、前後ろのエプロン二枚着に なった。 「……ふたりとも変」 だって村田くん、迷彩ビキニに外套をコートみたいに着てると……。 「しょうがないだろ!着替えがないんだからさ!……でも村田、お前その格好だと変質者 だって通報されそうだよな」 「失礼な兄妹だな!それこそしょうがないだろう?でも妹ちゃんのコートだから膝くらいま でしか隠れないよ。街中でこの格好なら電信柱があったら確かに隠れたくなるかもね」 「それで人が通りかかったらコートを広げながら踊り出る、と」 「……君は友人をどんな目で見てるんだい?」 大体その場合なら露出するのが上下逆だろうと村田くんが心外そうに呟いたけど、その ツッコミも間違っている気がするのはわたしだけなんでしょうか。 「まったくもう!そんなこと言うなら僕だって徹底するよ!」 村田くんは頭に引っ掛けていたブルーのサングラスを降ろして、フードまで目深に被って しまう。 「うわ、なんか本当にシャレになんないよ、フードはやめとけって」 ふたりのくだらない冗談は放っておいて、無事だった左手を砂浜について立ち上がると、 足がよろけてふらついてしまった。隣に立っていた有利が腕を掴んで支えてくれる。 「それで……ここ、どこなの?」 「うわー、やっぱり僕の話聞いてなかったんだね。無人島だよ。ロビンソンとクルーソー とスーザンだって」 「……無人島?」 「と勝手に村田が断定しただけ。でも確かに今のとこ人は見ないな」 ぐるりと周囲を見回した有利につられてわたしも三六〇度見たけれど、海と砂浜しか見当 たらない。 「……帰って……きたのかな?」 少なくとも眞魔国のあの教会下の崖で九死に一生という状況じゃない。それに、村田くん がいる。 「たぶん……」 「まーたわからないこと言ってぇ。だから無人島なんだって。こんなとこ埼玉にはないよ?」 だれもそこまで帰ったとは言っていない。とはいえ、地球に帰ってきたなんて言えばます ます不審がられるだけなので口を噤むしかない。 「……海からまた帰れないかな?」 眞魔国に。 コンラッドがどうなったか、眞魔国に戻らないとわからない。きっと助かっている。有利が 言ったように、無事だと信じているから、だからその姿を見たい。無事で……生きて…… いるよね、コンラッド。 思わず海の方に踏み出したら、有利に腕を引かれて砂浜に戻される。 「よせ、村田の前だ。それに自分ではどうにもできないだろ。待つしかないよ」 有利が耳元でこそこそと注意してきて、わたしはうな垂れながら不平を漏らす。 「でもわたし、自分で移動できるって言われた」 「誰に!?」 「……ウルリーケさん」 正しくは、眞王の言葉を伝えてきたウルリーケさんだ。 「海に還るって、船乗りだか人魚姫だかみたいなこと言って」 村田くんが横から有利が掴んでいるのとは逆の右腕の肘を掴んで、砂丘に向かって歩き 出した。 「無人島生活が不安なのはわかるけど、第一歩に挑戦する前から投げ出しちゃ駄目だよ。 ほらほら、まずは食料探ししなきゃ!」 「ちょ、ちょっと……」 抗議しようとしたら、後ろから有利に口を塞がれた。 「いいから。ここは村田の言う通りだよ。自分で移動できるっていっても成功したことない んだろ?まずは現状把握が第一だ」 すぐ前の村田くんに聞こえないように耳元で後ろから囁いてくる。 「いつもなら呼ばれた最初の地点に戻るのに、今回おれもも違うところに戻された。 様子が変だ。その原因がわかんないのに無茶してもきっと上手くいかない」 悔しくて悲しくてじれったくて、俯いて唇を噛み締める。今すぐにだって眞魔国に戻りたい。 コンラッドの姿を見て、声を聞きたい。 「……村田くん離して。ちゃんと一緒に行くから」 無人島生活の計画を元気に話していた村田くんはちらりとわたしを顧みて、ようやく腕を 離してくれた。 コンラッドにも最後に右腕を引かれた。日本になんて帰らないと駄々をこねたわたしの腕 を掴んで引き寄せて、キスで興奮したわたしを宥めようと……。 あのキスが最後だなんて、絶対信じない。 「さーて、そろそろ砂丘を越えられそうだ。海辺の向こうはどんな風景なのか……あら?」 村田くんの言葉が途切れて、わたしと有利は足を速めて隣に並んだ。 丘を越えると、その先に集落らしい家々があった。 「……どこか無人島なんだよ」 「ロビンソンとクルーソーの企画が早くも頓挫だ。ざんねーん」 残念じゃなくて、よかったの間違いじゃ。 「お、島人発見」 有利の言葉に視線の先を追うと、洗濯物を入れた籠を抱えた若い女性がひとり歩いていた。 金髪の、顔立ちもどう見ても外国人。 村田くんも目の上に手を当てて目を細めて女性を見ている。 「渋谷って視力2.0だよな。そのいい数字で確認してくれる?あの人、どう見ても金髪茶眼 の外国人なんだけど、間違いない?」 「間違いない」 「妹ちゃんは?」 「そう見える」 「なんてこった!僕等、ヨーロッパのリゾート地まで流されちゃったんだ!」 そんな馬鹿な。そんなに人間の体力が持つはずない。日本在住の外国人の方、もしくは それっぽい外見の人だと思う方がよっぽど現実的でしょうに。 だけどそれを信じたのか、被っていた野球帽をとって有利がぎこちなく右手を上げて女性 の注意を引いて言った言葉は。 「ハ、ハローぉぅ」 ぎこちない英語の挨拶。 声をかけられ有利に気付いた女の人が見開いた目に浮かんだのは、突如現れた三人組 に対する不審ではなくて、恐怖。 「く、黒……!」 持っていた籠を取り落とし、洗濯物の束が零れ落ちる。 もつれる足で逃げ出した女の人の背中を見送って、有利と顔を見合わせた。わたしは泥で カピカピの茶髪のウィッグをつけたままだけど、有利は野球帽を外している。帽子のお陰で そこまで泥に汚れていない、まごうことなき真っ黒な髪。 黒い色にそこまで反応する人たちがいる国がある世界を、わたしたちは知っている。 「すごいなあ、渋谷のハローは信じられない威力を持ってるよ」 「そうじゃないだろ!?」 有利は苛立ったように乱暴に頭を掻いて、それからすぐに外した帽子を被り直した。 「いいか、村田。落ち着いて聞いてくれ!ここはアメリカでもヨーロッパでもないんだ。英語 もフランス語も通じない。地球じゃないんだ。黒い色は不吉とされる国なんだよ」 いきなりそんなことを言われても信じられるはずもない。村田くんは案の定、軽く眉を上げ 首を傾げた。 「太陽系で他に酸素のある惑星は……」 「そうじゃなくて!」 「有利、それより早くここから離れないと」 ここは、眞魔国のある世界だ。そして黒い色の髪や瞳を恐れるのは、人間の土地に住む 人々。わたしや有利は石で追われるか、妙薬になるのだと言いがかりをつけられて売り 買いされてしまうかもしれない土地なんだ。見つかったのなら、まず逃げないと。 「そ、そうだった。詳しい話は後でするから、とにかく走るぞ!」 集落からできるだけ離れようと、事情の飲み込めない村田くんを急かして海岸線を彼女 とは逆の方向に走り出す。 砂地は足を取られて走りにくいから、すぐに体力が奪われてしまう。一番体力がなさそう な村田くんが脱落しないように後ろについて走りながら、怪我のない左手を握り締めた。 なんてことだろう。よりによって、人間の国に飛ばされるなんて。 こちらの世界には不案内なわたしと有利と、ここが異世界なんだってことすら知らない 村田くんという組み合わせで、この窮地を乗り切らないといけないんだ。 有利は、有利だけは守らなくちゃ。 眞魔国の人々のために、わたし自身のために。 そして、今きっと眞魔国で治療を受けているはずのコンラッドのためにも。 「それにしても、黒い色が不吉な国なんてあるんだねー。渋谷も僕や妹ちゃんみたいに イメチェンしてればよかったね」 「わたしのはイメチェンじゃなくて、ただのウィッグ。たまたまつけてただけ」 「へえ、かつらなんだ。じゃあずれないように気をつけなくちゃね」 砂地を歩いて息を切らせている村田くんにどう説明したものかと困りながら、他愛もない 話で場を濁す。 幸い村田くんはさっき有利がした地球うんぬんの話を冗談だと思ったのか流していて、 ここを変わった習慣のある国だと考えたようだった。 わたしも有利も頭の中がぐちゃぐちゃで、上手く説明できる自信がないので助かった。 もっとも、どう説明したって異世界だなんて話を村田くんが信じられるかは謎だけど。 喋る内容がつきたのか、へばってきたのか、村田くんの口数が減ると自然と沈黙のまま で歩き続けて、半日ほどすると次の街に辿り付いた。 さっきの集落は漁村という感じだったけど、ここは港街という風情で人出もずっと多い。 ここなら髪と目にさえ気をつければ上手く紛れる事ができそうだ。 ……格好さえまともなら。 ぶかぶかの革ジャケットを、着ているというより着られているわたしと、両面エプロンの 有利とビキニマントの村田くんという三人組が目立たないというのなら、ね。 「まず服だな、服」 有利も当然そこから考える。 「そうだねー。大使館か領事館に助けを求めるにしても、この格好だとちょっとばかり 恥ずかしいよね」 恥ずかしいという程度で済む格好じゃないけれど、この場合の問題はそこじゃなくて、 この街の、それどころかこの国のどこを探しても、日本の大使館も領事館も存在しない ことだ。 「服を揃えるにしてもお金がいるよね。でもこの国の通貨なんて渋谷持ってる?」 「この国どころか日本円も一円も持ってね―よ」 「妹ちゃんは」 「残念ながら」 「じゃあしょうがないから、渋谷それ売ってお金作ってよ」 村田くんが指先で突いたのは、有利がコンラッドからもらったという青い魔石だった。 「冗談じゃ……」 有利が拒否するより先に、わたしがその指を叩き落す。 「他人の持ち物を勝手に算段に入れないように!」 「いたたっ、もうちょい手加減してくれたっていいじゃないか。半分冗談なのに」 「半分本気なのかよ!」 村田くんの聞き捨てならない提案を却下した有利が選んだ手段は、正当な方法だった。 すなわち働いて稼ぐ。 港街なら何かの仕事があるだろうと探してみると、割と簡単に日雇いで積み荷運びの 仕事が見つかった。 「はどこか人目につかないところで休んでろよ」 「え、でも」 「渋谷の言うとおりだよ。妹ちゃんは右手の傷が深いから、力仕事は無理だって」 そう言われると、確かに力を入れた途端に血が渇いているだけの傷口は開いてしまい そうだった。 「じゃあ、あんまり目立つところにはいるなよ」 ひとり取り残されてしまった。有利を守るどころか、足手まといになってるし。 深い溜息が漏れた。 |
流された場所はよりによって人間の土地。 無事に帰還するためにもまずは労働から……。 |