今年の夏は泊り込みのバイトに勤しんでいた。友人の村田の親戚が経営する海辺のペン ション『Mの一族』だ。もうちょっと他に店名はなかったのかとツッコミたくなる。 バイトの途中で宿泊客のお姉さんに頼まれて、従業員としては断ることもできずに、遊泳 禁止区域に浮かんでいるレモンイエローのビキニを取りに行ったら、スタツアが起こって 眞魔国に流された。 心配性の教育係と頼りになる保護者に拾われて、ますます可愛くなった娘とも再会して、 先に来ていたらしい大事な妹も一緒で……だけどその後のことは、まるで信じられない 悪夢を見ているようだった。 057.今日を生きてく強さ(1) 「……重い……」 目が覚めると、身体中がヒリヒリと痛かった。皮が突っ張って動きにくい。そして妙に重い。 下腹部が。 投げ出された左腕に寄せては返す波が絡んでいた。 波……海か。 僅かに霞むぼんやりとした視界で、左腕に波以外の違和感があって首を横に倒すとおれ の腕をしっかりと掴んでいる手が。 その手を辿って上へと視線を動かすと、泥に塗れてぴくりとも動かない蒼白な顔色の が波間に倒れていた。 「……!?」 飛び起きると下腹部の重みがずれたようになくなった。ついでに肌にこびり付いていた泥 が乾いてひび割れて零れ落ちる。泥パックになっていたから動きにくかったのか。 それよりも今はだ。辛うじて水は飲んでいないようだけど、波が寄せている間はずっと 海に浸かっていたことになる。ところが、助け起こそうにもがおれの左腕をガッチリと 掴んでいるので、右手一本じゃ転がして仰向けにするので精一杯だ。 「、しっかりしろよ、目を開けろ!」 誰か助けになる人物はいないかと周囲を見渡すが、誰もいない。 「コンラッド!ギュンター!」 あの頼りになるおれの味方どころか、人っ子ひとり見当たらない。そう思ったら。 「うーん……」 足元から聞こえた唸り声に思わず飛びのく。 「なんだ、海辺の幽霊か!?うひゃ、金髪!外人さんの幽霊……って村田!?」 金髪の幽霊は足もしっかりついていて、それどころかうつ伏せで背中が丸出しのエプロン ビキニ姿だ。正面から見ればほとんど裸エプロン。生まれて初めて見た裸エプロンもどき が村田だということに、おれは失望に目を痛めながら涙を堪えたんだった。 がこんな格好したら可愛いだろうけど、それはコンラッドを喜ばせるだけだ。絶対に させないぞと決意したのも覚えてる。一緒にバイトに行きたいと言っていたけど、弓道の 大会があってよかったよ。村田のおじさんは女の子が来てくれたなら大歓迎だったのに! とセクハラすれすれじゃなくてまさしくセクハラ発言をかましてくれていた。 ……じゃなくて。 「奇跡的にスタツアして地球に帰ってきたのか?」 村田がいるならそういうことだろう。 でもここは同じ浜辺でもあのMの一族の縄張りの砂浜じゃない。自動販売機も夏の海辺 のパラソルも見当たらない。それどころか肌寒いくらいの気候だった。 「ど、どこ……?」 「生きてる!」 砂浜に手をついて起き上がった村田の第一声がこれだった。 「生きてるって、そりゃ生きてるよ」 「助かったんだ。でも漂流期間のことはなにも覚えてないなあ」 「助かったもなにも、お前は危険な目に遭ってないだろ」 遊泳禁止区域で引っ張られて海に沈んだのはおれで、剣を持った敵に追いかけられた のもおれだ。 ……大丈夫だ。コンラッドはきっと大丈夫。だっておれは、腕を切り落とされたところまで しか見ていない。きっとコンラッドは生きている。ギュンターだってグウェンダルかヴォル フラムか、それともとにかく血盟城の誰かが見つけて仮死状態から蘇生してくれている。 痛みに耐えるようにぎゅっと眉間に力を入れて、今は自分のことを考えなくてはと目を 開けた。地球に帰って来たにしても、居場所がわからない。 「何言ってるんだよー。君が溺れてどんどん沈んで行くから助けに行ったんじゃないか。 一緒に溺れちゃったけど。一体どこまで流され……!?」 村田はおれの横で倒れているに気がついて、今までのさして深刻さの見えなかった 表情が一変して強張った。 「な、なんで彼女がここに?」 「うえ!?あ、いや……ど、どうしてだろ」 まさか異世界から一緒に帰ってきたなんて言えずにしどろもどろに視線を彷徨わせる。 「……渋谷を追って来たのかな?」 その深刻そうな顔のままで、村田はを覗き込む。本物だ、とよくわからないことを 呟いていたが、そりゃの偽物って!と突っ込むよりもまず誤魔化さなくては。 「え?そう!きっとそう!弓道の大会が終わって、おれのところに来たんだろ!そんで 到着早々おれが溺れるところでも発見したのかも!」 めちゃ苦しい言い訳だ。現に村田は矛盾に顔をしかめる。 「だけど、夏の海辺にくる格好じゃないよねー」 今のは長袖に長ズボン、雨避けのためのフード付きのマントまで羽織っている。 眞魔国は冬だったから当然だ。 「泥のせいだけじゃなくて、顔色が悪いね。身体を温めてあげた方がいいんじゃないの かな。僕らより厚着とはいえ、ずっと海に浸かっていたんならより状態は悪いと言えるし」 「そ、そうだな……、おい起きろよ。なあ……」 蒼白の顔色のを揺さぶりながら、できることなら少しでも長く気を失っていた方がいい かもしれないという考えが消えない。 だって、コンラッドがあんなことになったのをだってしっかり見ていた。眠っている間 はあんなことを思い出さずに済む。 とはいえ、そんなのは一時凌ぎでしかなく、気を失ったままのをこのまま保護できる 状況でもない。 「ん……」 瞼が震えて、がゆっくりと目を開けた。 「ゆ……り……?」 掠れた声で覗き込んでいるおれを見つけて小さく呼ぶと、次の瞬間には砂の上から飛び 起きた。 「怪我は!?」 「だ、大丈夫だよ。おれは大丈夫。こそ怪我なんてしてないか?」 「平気……いたっ」 平気と言ったそばからぎゅっと目を瞑って小さな悲鳴を上げたので、驚いて上から下まで 怪我があるのかと必死に探す。だが、どこにも血はついていない。 「手だ、渋谷。妹ちゃんの右手」 村田に促されて視線を落すと、ずっとおれの腕を掴んでいたの右手の掌がざっくりと 切れていた。 よく見れば乾いて目立たなくなっているけど革ジャンの袖にも血がついている。 「血は止まってるみたいだけど、深いね。それに泥だらけだ。早く消毒しないと破傷風とか 怖いよ」 「そうだな、どこか水道ないかな?」 村田と二人で辺りを見回すけど、やっぱり水道どころか人影すらない。それどころか自然 のままといった風景に村田が唸り声を上げた。 「困ったな、無人島だよ」 「結論早いな、おい」 よっこらしょ、と年代を疑いたくなる掛け声で砂浜に立ち上がった村田は、寒いのか両腕 を軽く擦って足踏みをする。 「真夏の日本からずいぶん涼しい島まで流されちゃったな」 「裸エプロンなら寒いはずだよ」 「よく言うよ、自分だけ良さそうな革ジャン着ちゃてさ。一体どこから拾ってきたのさ。泥だ らけだけど。いい漂着場を先に見つけてるなら案内してよ。僕もだけど、彼女も着替えが いるだろ?」 村田に促されてを見下ろすと、自分の掌の傷を見たままぼんやりと座り込んでいる。 「おい、。大丈夫か?立てる?」 肩を揺すると、はどこかぼんやりとした目でゆっくりと顔を上げた。その目が虚ろで、 おれの心臓が心配に跳ね上がる。本当に大丈夫なんだろうか。 「コンラッドは……?」 咄嗟に声が出なかった。 だって、なんて言えばいいんだろう。コンラッドがどうなったのか、そんなのおれが聞き たい。 言葉に詰まったおれの横から村田がひょっこりと顔を出す。 「大丈夫かい?意識ははっきりしてる?混乱してるみたいだな。でもほらここは無人島 で、今は僕と渋谷と妹ちゃんの三人しかいないんだから、頑張ってしゃっきりしないと。 サバイバルで大事なことは正気をしっかり保つ事と、弱気は禁物ってことだよ。渋谷が いるんだから、そこんとこは君は大丈夫だろうけどね」 は村田の声が聞こえているのかも怪しい様子でじっとおれを見上げている。 村田は村田でそんなことにもおかまいなしにこれから始まる無人島生活に必要な項目 を挙げていく。 「とりあえず、無人島なら僕がロビンソンで渋谷がクルーソーね。妹ちゃんはそうだな… …フライデーだと原住民だし男だからスーザンにでもしておこうか。まず雨風を凌ぐ住居 を捜さなくちゃね。洞窟とか洞窟とか洞窟とか。なければ竪穴式とまではいかなくても それっぽいものを作らなくちゃ。服も必要だし、食糧確保も重要だよね」 その前向きさには頭が下がる。ロビンソンとクルーソーは同一人物だろ、とかそのスー ザンはどっから出てきたんだとか色々ツッコミどころはまあ置いておくとして。 「村田の言う通りだ。、コンラッドに会うためにも、今この場を切り抜けなくちゃどう しようもないだろ。ほら、しっかりしろよ。濡れた服は脱いでさ。体温が下がるから」 がのろのろとマントに手をかけて、脱いだそれは雨かっぱ代わりのためか意外と水 を吸ってはいなかった。その下がずぶ濡れなのだ。 「う、マズイな……」 おれだけならともかく、村田がいるのに脱がせるわけにもいかないと困惑していると、 はそんなことお構いなしに上着も脱いで更にその下のシャツにも手をつける。 「え、ちょ、!?」 シャツの下にさらにもう一枚Tシャツを着ていたけど、ズボンの紐も解き始めて慌てて その手を止める。 「待った!ちょっと待った!」 「……脱ぐんでしょ?」 「それはそうなんだけど、ここではマズイだろ!?」 「僕は全然構わないよ?」 「なんだよその期待に満ちた目は!」 だが服を脱いだ方がいいのは確かだ。 「……村田は後ろ向いてろ!」 おれが睨みつけると、ケチと呟いて背中を見せた。ケチじゃないだろ、ケチじゃ! 「待て、ズボンはそのまま。替えがないから仕方ない。上だけ脱いで」 泥だらけでも乾いてるし、この方がずっといいだろうと、上だけ下着姿になったに コンラッドの革ジャンを着せて前のベルトを留める。今までおれが着ていたから温かい はずだしね。 「……これ……」 「ん?」 ベルトを留めているおれにしか聞こえないくらいの細い声でが呟いた。 「コンラッドの匂いがする……」 ぶかぶかの革ジャンに埋もれながら呟かれたそれに、返す言葉もない。最後のベルト を留めてしまうと、ボロボロと涙を零すを一度ぎゅっと抱き締めた。 「大丈夫、コンラッドは絶対大丈夫だ」 背中を軽く叩いて、気休めしか言えないのが悔しい。 「大丈夫だって、信じろよ。良い事も悪い事も、信じた方を引き寄せるって言うじゃない か。コンラッドはきっと無事だよ」 「うん……」 が泥だらけの手で涙を拭おうとしたので慌てて止める。本当は真水の方がいいん だろうけど、仕方がない。 「ほら、海で手を洗っちまえ」 「うん……」 「え、渋谷それはちょっと……」 村田が振り返って止めようとしたときには、は両手を打ち寄せた波にさらしていた。 「いっ……!」 息を詰めるように悲鳴を飲み込んで手を引っ込めたに、村田はあーあと額を押さ えて溜息をつく。 「怪我に塩水なんて、めちゃくちゃ沁みるに決まってるじゃないか」 そ、そうだった。 痛みに涙目になりながら、は驚いたように振り返って村田を見上げる。 「む、村田くん!?なんでいるの!」 あれだけ口を挟んできてたのに、今までその存在にすら気付いていなかったのか。 村田は引き攣った笑いでそれギャグなの?と呟いた。気持ちはわかるよ。 |
目が覚めると同行者がひとり増えていました。 |