コンラッドが示した建物は教会で、オレンジ色に見えていた灯りは、両開きの扉の両脇で 燃えていた松明だった。 走っているうちに追いついていたコンラッドが扉をそっと開けると、四人で内側に滑り込ん ですぐに閉める。 内部は誰もいないのに暖かく、燭台の蝋燭にもすべて火が灯されていた。 石床に木製のベンチが並び祭壇があるところはキリスト教会に近い。 ただ正面に十字架もキリストの像も掛けられておらず、水の入った底の浅い鉢と等身大 サイズの室内風景の絵画が飾られているだけだった。 056.涙降る夜(3) 雨に濡れて随分重くなったフードを後ろに払いながら入り口で閂をかけているコンラッド を伺っていたら、グレタが溜息をつく。 「綺麗な人だね。ヴォルフに似てる」 驚いて振り返るけど、グレタは他のどこかを見ていたというわけではなくて、正面の室内 画を見上げていた。 「え、だって誰も描かれてないけど?」 有利も驚いたようにグレタと絵画を見比べた。 どういうことだろうと浮かんだ疑問はすぐに忘れてしまった。閂をしっかりと下ろしてコン ラッドが奥に入ってきて、ギュンターさんが一緒にいないことを改めて思い知ったからだ。 「ごめん、コンラッド!おれが避けたばっかりにギュンターが!」 「落ち着いて、大丈夫ユーリ。ほら息をゆっくり吸って」 コンラッドが縋り付いて震える有利の背中を撫でて宥める。 「大丈夫、ギュンターは死んでいません。それにあなたのせいじゃない。俺もギュンターも 国内にまで敵が侵入しているとは思っていなかった。武器や馬は容易に国内に持ち込め ない。内通者がいる可能性を考えなかった。ミスをしたのは俺たちです」 「でもっ……」 「ギュンターが射られたのもあなたが避けたからではなく、あの暗闇の中で唯一の明確 な的になる灯りを宿していたからです」 「わたしっ……!」 コンラッドと有利のやり取りを聞いていて、自分の迂闊さにようやく気付いた。 「わたしなら、ギュンターさんの傷を癒せたかもしれないのに……っ」 コンラッドの邪魔になると、有利の安全をと、そればっかりでギュンターさんを見捨てて しまった。完全に癒しの術を使いこなせているとは言い難いけれど、要素の薄い人間 の土地でもわたしは癒しの魔術を使ったことがある。それなのに。 思わず戻るべきだと入り口に駆け出そうとしたら、コンラッドに腕を掴まれた。 「ふたりとも落ち着いて!心配しなくてギュンターは死んでいない」 「だったら余計に傷を塞がなくちゃ!」 「仮死状態になっているんだ」 何を言っているのだろうとコンラッドを振り返ると、強く腕を引かれて有利の隣にまで引き 戻された。コンラッドは右手で有利の、左手でわたしの肩を掴んで、交互にわたしたちの 目を見て説明する。 「ギュンターは自分で仮死状態になっているんだ。だからあそこに置き去りにしても心配 はない。標的が逃げているのに、わざわざ『死んでいる』相手にとどめを刺しはしない。 むしろはあの場での最善の行動を取ったんだ。どうか自分を責めないで。ユーリも も、自分とお互いの安全を第一に考えて行動してくれ」 「嘘…を……」 引きつって乱れた呼吸をどうにか整えながら有利が搾り出すように口にする。 「嘘を、言ってないだろうだな」 コンラッドの右眉の上に残る古い傷が微かに震えた。探るように見ていた有利がそれ を見逃すはずもない。 「言っていない」 即座に答えたコンラッドに、有利は痛みを堪えるように一度目を閉じて、それから強い 意志を込めて睨みつけた。 「さっきからあんたは、何かを隠してる。おれに知られたくない大事なことがあるんじゃ ないのか!?」 「どうしてそんなことを」 「ホームベースの後ろにしゃがんだら、心を読むのはおれの仕事だからね。敵も味方も、 その心を読んで最善の作戦を立ててサインを出すのが捕手の仕事だからだよ!おれは まだ半人前だけど、一番近い人の気持ちくらい感じるよっ!」 有利に胸倉を掴まれて引き摺り下ろされながら、コンラッドはゆっくりと口元を歪めた。 それは自嘲めいた笑みであって、いつもわたしや有利に見せるような表情じゃない。 「かなわないな……」 「コ……」 「誰か来た!」 コンラッドに縋りつこうとした手は、グレタの悲鳴に止まった。コンラッドはわたしと有利を 後ろに押しやりながら、強い衝撃でしなった閂に舌打ちをする。 「人間の力じゃないな。何か道具を使っている」 破られるのはどう見ても時間の問題で、子供は狙わないだろうからとグレタに椅子の下 に隠れるように指示しながら、わたしと有利には更に下がるように言って剣を抜き放った 鞘を祭壇の絵画の下に立てかけた。 「我が剣の帰するところ眞王の許のみ」 その祈りのような呟きに、わたしは息が詰まる。反対に有利は顔色を変えてコンラッドの 腕を引く。 「止せよ!縁起でもないっ」 「違いますよ。これは鞘を眞王陛下にお預けして、許しあるまで戦い続けるという気合い です。変な意味じゃない。それよりもユーリ、後ろの絵に眞王が見えますか?」 有利が振り返り、眉を寄せて首を振る。 「グレタもコンラッドも、こんなときにからかってんの?」 「良かった、見えないのなら、そこの鉢の水を思い切りかけて」 「え、そ、それは絵にはまずくない?」 有利が戸惑っているので、わたしが代わって鉢の取っ手を両手で握る。 ギュンターさんは、ここから帰れると言っていた。コンラッドとグレタには眞王の絵が見え ていて、わたしと有利には見えない。そして、有利はいつも水から移動する。 つまり。 「わー!っ!」 有利の悲鳴を聞きながら、鉢をぶつける勢いで絵全体に水が掛かるようにぶちまけた。 日本でも水撒きで、こっちでも水撒きで移動することになるなんてね。 等身大はある額縁全体が青白く光り、教会全体を照らすと有利は息を飲んだ。 「すげ……科学反応……?べ、弁償とかになったらどんだけ高いんだ……?」 「馬鹿なこと言ってないで、有利は行って!」 絵画に向かって有利を突き飛ばすと、何か武器になる物はないかと辺りを見回す。 「だって絵だぞ!?光ってるからって、水かけたらからって、キャンパスの向こうは硬い 壁が……」 「何をしているんだ、も行くんだ!」 「いやっ!」 教会に武器になるものなんてあるはずもなく、目に付いた祭壇の燭台から蝋燭を払い 落としてそれを握ろうとしたら、剣を持っていない手でコンラッドに引き戻された。 「お願いだ、ユーリと一緒にニッポンに戻ってくれ!」 「いやだよっ!コンラッドを置いてなんていけないっ」 約束したのは、これから何か作戦を立てるという状況だったからだ。こんな、敵がすぐ そこまで迫っている時じゃなかった。 今、このときにコンラッドだけ置いて行くなんてできない。 「も、戻るってこっから行けるの?本当に?でも絵だよ、これ」 「ユーリ、をどうか!」 無理やりわたしを押し付けられた有利は、困惑しながらも両手でわたしの肩を掴む。 「、コンラッドが困ってるよ」 「だってわたしは剣を取るって決めたの!守りたいから決めたのに!」 大声で喚いて有利の手を振り払うと同時に、コンラッドに腕を掴まれ引き寄せられた。 それはぶつかったという勢いだったけど、唇を重ねて。 「……行くんだ。約束しただろう?心を強く持っていてくれと」 堪え切れなかった涙が溢れるのと、扉が破られるのは同時だった。 コンラッドに突き飛ばされて、再び有利に肩を掴まれた。入ってきた追っ手の数は十人 以上もいる。全員が同じ格好で、仮面と濃緑色のマントで顔は見えない。 「陛下、早く!を連れて行って!」 「けどこんな大勢、あんた一人でどう……」 「俺ひとりなら何とでもなるから!」 コンラッドを置いていくなんて、できない。絶対にできない。だけど有利は守らなくちゃ いけない。有利だけでも、せめて有利だけでも! 後でコンラッドにも有利にも怒られる。いくら怒られて構わない。 だから、有利だけを。 わたしには、魔術がある。 有利の腕を掴んで、絵画に向かって引っ張って突き飛ばそうとした。だけど一瞬後ろを 見た有利がわたしを抱きこむようにして横に飛ぶ。 背中を床に強打して息が詰まった。 布の焦げる匂いがして、有利の下から絵画を見上げると青い光は中央から円形状に 渇いて消えてしまった。 「なに……?」 呆然とする暇もない。絵にかけた水分を一瞬で蒸発させてしまったものの正体はすぐ にわかった。狙いを外した真っ赤に燃える火球が、壁にぶち当たったところが見えた からだ。侵入者たちの方を見ると、そのうちの二人がなにか小型掃除機のような筒を 構えていた。こちらの世界の火炎放射器のようなものかもしれない。 残りの人数で扇状に広がりながら、じりじりとコンラッドに警戒しながらも飛び掛るタイ ミングを計っている。 「お願いだからふたりとも言うとおりに!」 「けど、もう絵が渇いて……」 「では水を探して!」 言いながら、同時に斬りかかってきたふたつの剣をコンラッドが捌く。一瞬で一撃目を 振り払い、次の一撃を返す剣で受け止めた。 有利は祭壇横にあったドアのノブを必死に回しているけれど、鍵が掛かっているのか 開かないらしい。 「どいて!」 わたしは祭壇から燭台を掴んで木製のドアに思い切り叩きつけた。木製のドアがひび 割れて、燭台がめり込んだ。もう一撃。 その間にも背後では絶え間ない金属音が聞こえてくる。有利はわたしの横でわたしと コンラッドを見比べて、わたしから燭台を取り上げた。 「おれがやる!は横に避けてろ!」 有利が燭台を振り上げる横で、唾を飲み込んだ。恐ろしくて胸に下げた小袋を服の上 から強く握り締める。 怖い。 コンラッドが懸命に剣戟を防ぎながらも反撃を試みて、何人かは既に床に倒れて動か ない。 だけどコンラッドの腕や耳や足にもいくつも傷ができている。どう見たって不利な状況 なんだから当たり前だ。 剣はないけど、わたしには。 怖くないわけはない。前回のことがある。今度だってどうなるかわからない。だけど今 ここに振るう武器はなくて、コンラッド一人では二人を守って戦い続けるなんて無茶に 決まっている。 だから、わたしは。 「炎に属する全ての粒子よ!」 集中するんだ。恐怖に囚われるな。コンラッドを守るの! 教会中には火の灯った蝋燭があって、火の気を帯びた敵の武器があって、だから炎の 魔術を使う要素は揃っている。 「!?」 有利の声が聞こえた。同時に、扉が破れる音も。冷気と水気が一気に室内に侵入して ドアが直接外に繋がっていたことがわかった。有利はそこから外に出てくれたらいい。 「我が意志をよみ、そしてー……」 せめて、あの飛び道具を構えているふたりはわたしが倒さなくては! そう決意を固めて掌の上に浮かんだ火球を構えると同時に、目の前が真っ暗になった。 細く白く、そして冷たいあの手がわたしの目を上から覆って。 「―――コンラッド!」 有利の悲鳴にはっと正気に戻る。 中断された魔術は完全に掻き消えていてどうして邪魔したんだと自分の中にいる別の 存在に腹を立てながらコンラッドの姿を確認して、立ち尽くしてしまった。 だって。 「外に」 短いコンラッドの声は、苦痛のためか低く掠れている。 「ふたりとも、早く」 コンラッドの左腕が、なかった。 「ど……」 どうして!? 後ろに一歩下がってしまった足に何かがぶつかる。 恐る恐ると視線を下げると、足の横に腕が転がっていた。指は何かを掴もうとしたのか 僅かに曲がり、切り口が鮮やかだったのか血が出ていない。まるで義手のような…… だけど確かに人の腕が……。 「………っ」 涙が溢れて、息が詰まって声も出ない。 「ユーリ!!早く外へ!もう祭壇からは移動できないっ」 「コンラッド、腕が……」 有利の声も、コンラッドの声も、どこか遠くに聞こえた。 わたしが意識を暗転させたあの一瞬。 あの一瞬で、コンラッドの腕が失われた。 「言ったはずだ。あなたたちになら」 震えるわたしと有利を僅かにだけ横目で見て、コンラッドが血の気の引いた頬で、でも 不敵に笑う。 「……手でも胸でも命でも、差し上げると」 胸を激しく突いた痛みが、苦しみだったのか怒りだったのかわからない。 誰に対して込み上げた怒りかもわからない。 敵か、邪魔をしたわたしの中の誰かにか、それともわたし自身にか。 「……!早くっ」 「どうして邪魔するの!?」 有利に強く腕を引かれ、思わずそれを振り払う。有利の手を振り払いたかったわけでは なくて、わたしの目隠しをしたあの手を振り払いたかったのだ。 「どうして……どうしてっ!」 「いいから来い!これ以上コンラッドの負担になるな!」 罵ろうとした声は、有利の言葉に息が詰まって出てこなくなった。引き摺られるままに 破られたドアの穴に押し込められる。 次の瞬間、地面から身体が滑り落ちかけて、反射で泥を掴むと破られたドアの破片が 掌に突き刺さった。激痛に、悲鳴が漏れる。 「……っ!ゆ、有利……こっちは崖……っ」 これ以上は落ちないようにと泥の地面に爪を立てたとき、熱気を感じる前に爆風で扉 ごと吹き飛ばされた。 「ゆ……っ」 ドアの破片だけでなく、有利までわたしと一緒に崖に放り出されている。 泥と血に塗れた手を有利に伸ばして。 誰か……誰でもいい、誰か! 有利を助けて!コンラッドを守って! 有利の腕を掴めたのかは、わからない。 涙に滲んだ視界は一緒に降ってきた土砂に覆われて、そのまま意識が反転したから。 |
悪夢の一夜です。 |