―――箱を……に、渡す……わけには……。

水流に飲み込まれながら、いつかの女の人の声が聞えた。わたしの前世と思わしき人

ですか?

箱って。

―――鍵を。

ヒントはもっとはっきり喋ってよ!

―――開けるのは……まだ……。

怒鳴りつけたかったけど、水を飲むだけで終わってしまった。






056.涙降る夜(1)






「ぷわって、冷たっ!」

現れた先はもう夜でした。おまけに雨も降っていたけどそれは関係ない。だって出て

きたのが噴水の中だったんだもの。

「ま、真夏の庭から一気に極寒の冬って!」

極寒というほどではないかもしれないけど、何しろこっちは全身濡れ鼠。寒くないはず

がない。

慌てて噴水から上がろうにも、一瞬のうちに凍えてしまって水に浸かった足が痛い。

どうにかこうにか噴水から這い出して、震えながら周囲を見回すと血盟城の中庭だと

いうことに気がついた。

「よ、よかった知ってるところで……早く暖まらないと風邪を引く……」

とにかく城内に入らなくちゃと凍えた足で踏み出したところで、聞き覚えのある声が

聞えた。

だよ、コンラッド!ギュンター!」

廊下の燭台の明かりを背に現れた小さな影に、寒さで身体を抱きこむようにしながら

腕をこすりつつ、震える声を上げる。

「わ、わーグレタ、おかえりぃー」

どうやらグレタが帰省しているときにちょうど来れたらしい。どうせならお出迎えした

かったけれど、こればっかりはしょうがない。

震える声で、でもこれはきっちり言っておかないとと寒さに引き攣る笑顔でそう言うと、

グレタは嬉しそうな、気難しそうな複雑な顔をした。

「ただいま、。それにもお帰りなさい。早く早く。温ったまらないと病気に

なっちゃうよ」

「う、うん……た、ただいまぁ……」

城の廊下から駆け降りてきたグレタは、雨に濡れることもわたしから滴る雫が掛かる

ことも気にしないみたいに、寒さにかじかんで取り落とした麦わら帽子を拾って手を

引いてくれた。い、いい子だなあ。

「で、殿下!?」

どうにかこうにか城の廊下まで上がったところで、グレタの声が聞えたのか駆けつけた

ギュンターさんは着くなりいきなり鼻血を噴き出した。

「ぎゃー!スプラッタ!!」

凍えて上手く動かない身体で、それでも血が掛からないようにグレタの手を引いて後ろ

に下がる。

「遊んでないで、の着替えを用意してあげてよ!」

グレタは果敢にも地団太を踏んで麗しい……とは今の状況では到底言えそうにない……

王佐を叱り飛ばした。さすが魔王の娘。

!」

ギュンターさんが駆けてきたのとは逆の廊下から走ってきたコンラッドの声に、寒さと血の

恐怖に強張っていた顔が笑みの形に動く。

「コンラッド!」

嬉しさのあまり濡れてなかったら抱きつきたいくらいだったのに、コンラッドは気難しい顔

で上着を脱いでわたしに巻きつけた。

コンラッドの体温が残っていて、嬉しくなってお礼を言おうと思ったのに、次の言葉で声が

出なくなった。

「どうしてまで!」

その声に、苦々しさが混じっていて思わず立ち尽くす。

どうしてって……。

、こちらへ。早く身体を温めないと」

コンラッドはわたしに掛けた上着の前をかき合わせてわたしに握らせると、濡れても気に

していないように抱き上げて歩き出す。

……わけがわかんない。

人が邪魔みたいな言い方しておいて、でも心配もしてくれて。

「とにかく温まって、着替えるんだ。すぐにチキュウに送り帰すから」

何か事情があるのかもと思うだけの余裕もなかった。

だって、コンラッドの言葉を聞いた途端に一気に涙が浮かんだから。

コンラッドがぎょっとした顔で立ち止まり、わたしは冷たい手で顔を覆う。

わたしはこんなにもコンラッドに会いたかったのに、コンラッドにはわたしが邪魔なんだ。

どうして?

何か嫌われるようなことしちゃった?

?一体どう……いたっ!」

コンラッドが急に声を上げながら体勢を崩したので驚いて顔を上げると、コンラッドは下を

見ている。

視線の先を追うとコンラッドの後をついて来ていたらしいグレタが、コンラッドの足を拳で

叩いた。ふ、ふくらはぎは痛いよグレタ。

「グレタ、一体なにを……」

小さなグレタを相手にコンラッドが珍しく厳しい顔をして、それに驚くよりもグレタが負けじ

と睨み返したことにもっと驚いた。

にお帰りって言ってあげてないよ!それなのに帰れってばっかり!」

うっ、グレタ……なんて優しいの!

グレタに感動したのか、コンラッドに腹が立ったのか、滲みかけていた涙が零れそうに

なったら、温かい柔らかなものに目尻を撫でられた。

きっといつもなら指で拭ったのだろうけれど、今はわたしを抱き上げて両手が塞がって

いたから……いたからって……グ、グレタが見てる前で唇で拭うってどうなの?

「ごめん、早く安全なところに帰さないとと焦ってばかりで……お帰り

グレタに言われてようやく思い出すなんて、今頃遅いんだから!

そう怒鳴りつけたかったけど、ようやく優しい声が聞けてそれが嬉しすぎて怒るよりも

コンラッドに抱きついてしまう。

だけど感動はそこまでだった。

「それに、随分艶めいた格好でギュンターを悩殺していたから、ちょっと焦ったかな」

「ただのワンピースだけど」

ギュンターさんもお兄ちゃんみたいにマニア?と思ったらコンラッドは困ったように苦笑

した。

、白い服は濡れたら透けるんだよ」





なんというか、眞魔国に来るたびに恥を重ねているような気がする。

一回目は素っ裸でギュンターさんや他の人の前に出てきたし、カーベルニコフ地方に

着いたときは下着を握り締めていたせいでグウェンダルさんに見られた。そして今日は

濡れて張り付いたワンピースで身体のラインがばっちり見えただけじゃなくて、クリーム

イエローの下着をワンピース越しにギュンターさんとコンラッドに見られた。

「いやがらせなの……!?」

湯船に浸かりながら泣きたい気持ちで眞王陛下を心の中で罵らずにはいられない。

グウェンダルさんのときはわたしの不注意でもあるけれど、それ以外の二回に関しては

避けようがないじゃない!

呼ぶタイミングか、呼び出す場所をもうちょっと考慮していただけませんでしょうかね!

とにかく急いでいる様子だったので、身体が温まるとすぐにお風呂から上がった。

どうやら顔を合わせるのが恥ずかしいとか言ってられない状況みたいだし。

イヤリングを入れた小袋を首から提げる。

まだ濡れているから冷たいけど、忘れてしまったらいやだもの。

もうすぐ有利もこちらに来るそうで、有利を拾ったらすぐに地球に帰すから馬に乗れる

服でと言われたので、動きやすいパンツルックでリビングに移動すると、その間にコン

ラッドも濡れた服を着替えていた。

グレタとギュンターさんは先に厩舎で待機しているらしい。

「じゃあ行こうか。湯冷めしないように厚着した?」

コンラッドは前回わたしが置いていってしまっていた、友人たちからの誕生日プレゼント

のひとつだった茶髪のウィッグを持っていて、ぽすりと頭に乗せる。

「街中を行くから、被っていて。フードだけだと心許ない」

適当に乗せられたウィッグを直しながら、渡された外套を羽織って部屋を出た。

「時間がないから歩きながら説明するよ。実は今回、俺たちはを呼んでいない」

「……邪魔だってこと?」

「そういうことじゃないよ。でも、人間の国で不穏な動きがあってね。危険が迫っている

可能性が高いから、にも陛下にも安全なところにいて欲しいというのが俺たちの

願いで……だからつい焦ってひどいことを言った。本当にすまない」

それって結局邪魔って言ってるのと一緒じゃないの?

でも、嫌われたり邪険にして帰すと言ったわけじゃないことはわかって少しほっとした。

「さっきは陛下が現れると予測された場所に先回りするつもりで準備していたんだが…

陛下だけでも予想外の事態だったのに、までこちらに送られるなんて、巫女たち

も一体何をしているんだか……」

そんな理不尽なことで怒っても。

コンラッドがこんなにイライラとしているなんて珍しくて、本当に危険な状態なのだとは

わかったけれど、大切なときに蚊帳の外という扱いはあんまり嬉しくない。

だって、国が危ないかもしれないときに安全な場所に逃げておいて王族だーって胸を

張って良いわけないと思う。

それに、コンラッドが危ないかもしれないのに日本で過ごせって言われても……。

何ができるというわけでもないし、逆に足手纏いだということはわかっているけど。

「こっちに残りたいって、言ったらだめ?」

「駄目に決まっているだろう!」

一刀両断だった。予想していたけど、それって言われる方は寂しいものなんだよ!?

「でも、コンラッドが危険かもしれないってわかっていてひとりで日本に帰るなんて!」

コンラッドの腕を掴んで揺さぶったら、その手を外されて代わりに肩を抱き寄せられた。

「ひとりじゃなくて、陛下と一緒に。ニッポンでも陛下と一緒にいられるのはだけ

だ。どうか陛下を守って」

ず、ずるい。そんな言い方されたらいやだって言えないじゃない。

うんと言うしかなくて、でもそうはっきり言うのがいやで、別の話題に切り替えた。

「人間の国の不穏な動きって?」

わたしの意図はバレバレだったみたいだけど、それはコンラッドの願いを否定するもの

ではないともわかっているのか、苦笑しただけで話題の転換に乗ってくれた。

「箱が人間の国に渡ったという情報が手に入った」

「箱?」

ギクリと顔が強張った。前を向いていたコンラッドは気付かなかったようでほっとする。

箱って、さっきこっちに来るときに聞えた途切れ途切れの声もそんなことを言っていた

ような。

箱を誰かに渡したくないとか、鍵だとか、開けるのはまだだとか。

「そう。最悪の箱だ。ありとあらゆる災厄が詰め込まれ、開ければこの世に裏切りと死

と絶望をもたらすと言われている」

「どこかで聞いた話だね」

この世のありとあらゆる災厄を詰め込んだといわれる箱。それを開けてしまったという

女の子の名前を取って、パンドラの箱という伝承が地球にある。世界を隔てても、同じ

ような伝承はあるものなんだね。

「あれよりもずっと性質が悪い。なにしろこちらには希望なんてものはない。あるのは

絶望だけだ」

災厄の中に希望が入っているなんておかしいという説もあるけどね。

最後に出てきたものは希望じゃなくて、希望に見せかけた絶望だって。希望を知らな

ければ絶望も際立たなくて、だからかき消えてしまいそうな小さな希望は絶望のため

のスパイスだとか。捻くれた解釈だと思うけど。

「パンドラの箱はただの伝承だけど」

「こっちの箱は本当に存在するんだ。鍵と一緒にね。開ければ最後だ。だからそれは

絶対に阻止しなくてはいけない」

鍵。

その言葉もさっき聞えた。

それをコンラッドに告げるべきかどうか考えて頭の中で反芻して、喉まで出かっていた

言葉が引っ込んだ。

箱を誰かに渡したくないとか、鍵だとか、開けるのはまだだとか。

さっきの声はそんなことを言っていった。

箱と鍵と……そして……開けるのは『まだ』だと。









緊迫の状況で、相変わらず身体の中に不安定なものを抱えています。



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