それから二日、ヒルドヤードに滞在したものの、わたしは温泉に行けませんでした。 賢いグレタがひとりでも入れると言ってくれたので、それに甘えて宿に引きこもりだった。 だって……いくら酔っていたからって、恐ろしいことを口にしてしまった。 コンラッドはあの言葉を聞いていないとのことだし意味もわからないだろうけれど、ただで さえ恥ずかしかった水着を意識してしまうようになったし、なにより有利がすっごい疑惑の 目を向けてくるんだもん。 ああいうのは勢いとタイミングが大事で、とてもじゃないけど恥ずかしいが前面に出てし まった今では、改めてコンラッドにそれらしいことなんて言えない。 勇気を振り絞れなかった以上、緊張に勝てないからアルコールの力でさっさと寝ちゃえ、 なんてどうして思ったんだろう。結果的に大失敗だし。 ああ、あのときのわたしが恨めしい。 053.帰る場所がある幸せ(1) 「グレタ……風邪なんかひかないようにな」 「うん」 「ご飯もちゃんと食べるんだぞ」 「うん」 「歯も磨けよ」 「うん」 わたしたちの帰国と同時に、グレタをカヴァルケードに預かってくれるヒスクライフさん もヒルドヤードを発つことになった。 先にあちらの船が出るということで、港での別れに有利は人目も憚らずグレタを抱き 締めて号泣した。わたしの隣ではヴォルフラムももらい泣きで、大泣きしている。 とてもじゃないけど、美少年の儚い涙とは言えない。 有利とグレタの抱擁が終わるのを待って、わたしもぎゅっとグレタを抱き締める。 「身体に気をつけてね」 「うん」 「次に会える日を、楽しみにしている」 「うん、グレタも」 油断していると涙が出そうで、ぎゅっと唇を噛み締めてグレタを離した。 ヒスクライフさんは一ヵ月後には一旦帰省させると約束して、グレタを連れて旅立った。 そう、帰省。グレタが帰る家は、血盟城。お父さんは有利。 グレタは甲板に出て、見えなくなるまでずっと手を振っていた。 船が見えなくなると堪えていた涙が零れてしまって、慌てて手の甲で拭っていると、 コンラッドが肩を抱き寄せてくれたので、その胸を借りてちょっとだけ泣いた。 次の別れは、このヒルドヤードに残る人、つまりアニシナさん。 彼女はヒスクライフさんと相談の上で練り直した計画表を手に、有利とわたしに力強い 約束をしてくれた。 「この計画を必ず軌道に乗せて、不運な女性たちがより住みやすい街を作り上げて ご覧にいれます」 「頑張ってください!」 「よろしくお願いします」 有利もわたしも気合いを入れてお願いすると、アニシナさんは鷹揚に頷く。 「もちろんですとも。彼女たちが強く賢い女になった暁には、愚かな男どもを支配して 素晴らしい社会を築くのですから!」 これには有利もわたしも言葉に詰まった。それはそれで、非常に大きな差別ではない でしょうか。 「が、頑張ってくだサイ……」 有利の餞の言葉はどこか上滑りしていた。 有利の恩人のイズラさんは、怪我が治れば友人のニナさんと一緒にこのアニシナさん の計画する編み物工房で働くことが決定しているらしい。 そうしてもうひとり、どこで仲良くなったのか、有利はヒモノコウという料理の屋台の店 主をそのショッピングモールの一軒に推薦して、お礼にと家宝の丼をもらっていた。 ヒモノコウは、今は亡きゾラシア国の宮廷料理だとか。……ゾラシアはグレタの故国と いう話だった。 それにしてもこの丼、家宝という話だけど、底には二匹の龍が絡み合い、中華料理店 のラーメンの器みたいなんですけど。 「スープに未来が映るんだってさ」 「まさか。過去とか前世ならともかく、起こってもいない先のことがどうやって?」 コンラッドは軽く笑って流したけれど、わたしはちょっと引っ掛かる。 いえ、未来じゃなくて前世にね。普通、前世だってともかくじゃないと思う。 「器に入れるスープって、ヒモノコウのスープじゃないとだめなのかな?」 「おいおい。まさか信じてるのか?」 「未来が見えるとは思わないけどね」 「過去だって見えないよ。見ろよ、ただの中華丼だって。まあおれに骨董品鑑定の目 はないから、出すとこに出せばすごい値段にはなるかもしれないけど」 そんなことを言いながら、まるで自分の言葉を信じていないぞんざいな手つきで器を 箱の中に仕舞った。 帰りの旅は行きに比べてずっと楽なものだった。 船室がちゃんともうひとつ取れたから、グリーセラ卿はそちらに入ってもらった。 ヴォルフラムのお陰で一命は取り留めたものの、あれから彼は一度も目を覚まさない。 癒しの術をもう一度試してみたくは思ったけれど、コンラッドはわたしがグリーセラ卿に 近付くことを絶対に許しはしてくれなかった。代わりに、専属の医療者を雇ってくれた。 コンラッドとグリーセラ卿の間にどんな溝があるのかはわからないけれど、ヴォルフラム もアニシナさんも彼を嫌っていて、有利の話だとグウェンダルさんもそれはもう、激しく 憎んでいるとすらいえる勢いだったという。 有利とわたしは、過去になにがあったのか何も知らない。コンラッドたちは教えてくれ ないし、わたしたちも尋ねていいのかわからなくて、躊躇してしまうから。 でも、知らないから言えることもある。 例えば、コンラッドたちが嫌っていると知っていながら、彼を死なせたくないとかね。 「……どうしてユーリもも、あんなやつに肩入れする」 有利とコンラッドが席を外している時に、ヴォルフラムが不機嫌そうに吐き捨てた。 帰りの船では最初から船酔いの薬を飲んでいたから、快調とまではいかないけれど、 ダウンするほどではなかったようだ。 「だってニコラさんの夫だし」 「あんな人間の女。それに、あの女はグリーセラ家に嫁として認められたんだ。今さら ゲーゲンヒューバーがいようといまいと関係ないだろう」 ヴォルフラムは不平を鳴らしながら、キャビンの小窓から外の波を見たまま。 「関係あるよ。生まれてくる子供にとっては、お父さんだよ?ニコラさんにとっても、 大切な人だもの」 「お前があいつに肩入れする度に、コンラートがどんな思いをしているか、考えたこと はないのか?」 「だって、わからないから」 ヴォルフラムは弾かれたように振り返る。形の良い眉は怒りに吊り上がり、エメラルド グリーンの瞳には炎が見えた。 「わからないだと!?」 「コンラッドもヴォルフラムもアニシナさんも、みんな彼を嫌っている。それだけの理由 があるんだと思う。だけど、わたしも有利もその理由は知らない。判ることは、ニコラ さんが彼をとても愛しているということだけ」 「だからなんだ!あいつのせいで……っ……あいつがいなければっ」 「だって考えちゃうんだよね」 「なにを」 ヴォルフラムは不機嫌そうに、イライラと椅子の肘掛を指先で叩く。 「もしも、コンラッドが任務で出て行ったきり帰って来なくなったら?わたしが眞魔国で 取り残されたらって」 一瞬だけ、ヴォルフラムが言葉に詰まった気配がした。 「く……くだらないっ!コンラートがあんな男みたいに、いつまでも任務を果たせない でいることなんてあるはずないだろう!」 「だから仮定だってば。でも、仮定の話でも息が詰まるの。つらくて、胸が苦しくなる。 だからわたしは、グリーセラ卿じゃなくて、ニコラさんの味方なの」 「っ………ふんっ!」 その一言を最後に、ヴォルフラムがグリーセラ卿の件を持ち出すことはなかった。 とはいえ。 ヴォルフラムが取りあえず怒りを納めてくれたからといって、コンラッドが傷つくという こととはまた別の話で。 ヴォルフラムの言った言葉は、実は結構効いていた。少しでも揺らいだら、激しく憎ん でいるヴォルフラムに押し切られると思ったから、平気な振りはしたけれど。 ご機嫌を伺うと言うと語弊があるけど、今回の旅ではいつにも増してわがまま放題 だったし、少しはコンラッドに恩返しができないかと知恵を絞るけど妙案なんて出ない。 グリーセラ卿の件では共犯だと有利にも相談してみたものの、返ってきた答えは。 「………キャッチボールとか。いや、でも船の中では無理だよなあ」 「それ、有利の楽しみじゃない」 でも有利とのキャッチボールを、コンラッドも楽しみにしているのは事実。 いいなあ、有利はコンラッドのためにできるここぞという裏技がある。キャッチボール をするのは有利のためだけど、同時にコンラッドも楽しめるの。いいなあ。 「考えてみれば、わたしのすることっていつもコンラッドに苦労かけてるだけ……?」 ちょっとショックだ。 「こんなの恋人同士っていうより、保護者と被保護者じゃない?そ、それはやだ」 「お前とコンラッドが?そんないちゃつく保護者と被保護者がいたら、それこそやだよ、 おれ」 「そ、そんなにいちゃついてないと思うんだけど……」 有利は呆れたように溜息をついて、両手を広げながら首を大きく横に振った。 「なんでそんなにオーバーアクションなの!」 眠れないほど悩んでいるつもりはなかったのだけど、ふいに夜中に目が覚めた。 天井が見えて、寝返りを打つと隣のベッドには有利の寝顔。反対側は壁。 ベッドの並びは有利の強い要望で、奥からわたし、有利、ヴォルフラム、コンラッドの 順番。 もう一回寝返りを打っても、目が冴えているらしく眠れそうな気配は一向にない。 いっそ散歩に出かけたらいい気分転換になりそうだけど、入り口に近いところで眠っ ている気配に敏感なコンラッドを間違いなく起こしてしまう。 ここが地球の自宅でひとり部屋なら、ベランダに出るとか、本を読んだりヘッドフォン で音楽を聞くとか、まだ終わっていない課題に手をつけてみるとか、やれることが いくらでもあるのに。 有利のベッドにお邪魔して、人肌の温かさで眠るのはどうだろうとも考えたけれど、 血盟城の大きなベッドじゃないから、自宅の時みたいに一瞬とはいえ有利を起こし ちゃうだろうし、そこでちょっとでも会話をすると、たぶんコンラッドも道連れで起こす だろう。 八方塞がりで、もう一度寝返りを打つと、サイドボードに置いていたイヤリングが目に 映った。 コンラッドに買ってもらったお気に入り。 コンラッドの瞳の色に似ている石に惹かれた。地味だとか言って、珍しくコンラッドが わたしの意図に気付いていなかったので、安心して愛用している。 でもこれが一番活躍するのは、日本でだと思う。 コンラッドが視察だとかで側に居ないとき、あるいはわたしが日本に帰ってしまって、 コンラッドに会えないとき。 コンラッドの瞳にそっくりな色のこの石を見て、コンラッドを思い出したら、きっと少しは 寂しくないと思って、それで欲しかったの。 もっと逢いたくてたまらなくなることも、考えないでもなかったんだけど。 手を伸ばしてイヤリングを取ると、天井に向かってかざしてみた。 ランプの明かりでは、太陽の元で見たような石の色なんてはっきりとはわからない。 その石をゆっくりと手の中に入れて、ベッドに降ろした。 緩く握っていた手を開くと、イヤリングがころりと枕に転がり落ちる。 この距離で本物のコンラッドの瞳を見つめるなんて、きっと心臓がもたないわ。 じっと琥珀色の石を眺めていたら、そのうち闇が降りてきた。 ちゃりっと金属の音がした。 最近耳元で聞く、イヤリングの金具が鳴った音だ……。 夢うつつでも、それだけはわかる。瞼の向こうはもう明るくなっているようだった。 ああ、そうか。昨日あの琥珀色の石を眺めながら眠ってしまったんだ。イヤリングを 下敷きにして金具を壊さないようにしないと。 石が無事なら一応問題ないとはいえ、せっかくコンラッドに買ってもらったイヤリング なんだから、そのままで大事にしないと。 夜中に起きたせいか重い瞼は降ろしたまま、枕の上を手探りで探していると、ベッド のスプリングがしなる音が聞こえて、ちゅっと湿った音と同時に頬に何かが当たった。 何かって、覚えのある感覚に目が開かなかったのが嘘みたいに瞼が上がる。 目の前には見覚えのある腕が。 真上に誰かがいるような影がわたしに落ちかかっていて、それが誰かなんてベッドに ついた腕がなくてもわかりきったことで。 「いくらお気に入りでも、ベッドの中にアクセサリーを入れないでくれ。の可愛い 顔に傷がついたら大変だ」 「す、すみません………そんなつもりは」 あのまま寝るつもりなんてこれっぽっちもなかったんです。 囁かれた声に、仰向けになるのは恥ずかしすぎて、そのまま半回転してうつ伏せに なって枕に顔を押し付ける。 「から、おはようのキスはしてくれないのかな?」 「日本にはそういう習慣はないの……」 そして眞魔国にだってない。 でも、キスしたら少しは喜んでくれるかな。 そんなすごく大胆なことでもないし……あ、挨拶だし! コンラッドに掛けた迷惑や苦労に比べたら、ささやか過ぎて比べ物にならないけど、 どかんと一発で返せるものがない以上、こうやって無茶でも何でもない要望くらい は叶える努力はするものじゃない? 「よしっ!」 気合を入れて、ベッドに手をついて勢いよく起き上がると、そのままの勢いで首を 巡らせる。 ………勢いがありすぎたのか、コンラッドは驚いたようにちょっと後ろに身を引いて いた。 ああ、本当にわたしって! 雰囲気とか作れないよね……とちょっと嘆きながら手を伸ばして。 外してしまったタイミングに、でも引っ込みのつかない手はコンラッドの頬ではなく首 に回って、ぎゅっと抱きついた。 「お、おはよう……」 こっちの方が密着度は高いけど、あの男前の顔が見えない分だけハードルは低い。 一瞬の空白を置いて、わたしの背中にコンラッドの手が回る。 「ああ、おはよう。キスじゃなくて抱擁っていうのもいいね」 耳元で聞こえた声はわりと上機嫌だったので、結果オーライ? |
行きの船とは別の緊張感がありますが、雰囲気もそこまで険悪という わけではないようで。 コンラッドのためになにかできることがあればいいのですけれど。 |