目が覚めたら朝だった。 昨日いつ寝たんだっけ、と頭を捻って黒焼きのバッタを思い出した。 慌ててベッドサイドに置いてあった水差しの水を全部飲んでしまうと、そのままノロノロ とベッドに潜り込む。 忘れたい。いっそ忘れてしまいたい。 昆虫は本当に嫌なのよ!両棲類も苦手だけどね。 051.楽園の果て 朝起きてまずは有利の様子を見に行こうと思ったら、鍵が掛かっていた。 もう早いという時間でもなかったので遠慮なくノックしたけれど、誰も出てこない。 既に出かけているのか、有利はまだ魔術の反動で眠っているのか。ヴォルフラムだけ ならこれくらいのノックじゃ起きないし。 では怪我人の様子を見に行こうと思って、コンラッドの部屋のドアをノックした。 出かけるときは断っておかないと、黙っていなくなったらコンラッドを心配させるしね。 ドアは五秒と待たずにすぐ開いた。 「やあ、おはよう。もう起きたの?」 完璧に身支度を整えていたコンラッドが、わたしを見て爽やかな朝に相応しい笑顔を 見せる。たまには寝惚けていたり、準備途中のコンラッドが見てみたい。 「おはよう、コンラッド。昨日はごめんね。勝手に寝ちゃって」 あれは半分気絶でしたが。 「疲れてたんだよ。昨日はほとんど食べていないし、すぐ朝食に行こうか?」 「ああ、うん。先に食べちゃう方がいいかな。グレタは?」 「まだ眠ってるよ」 「有利もヴォルフラムもまだ寝てるみたいだし……?」 コンラッドの脇から見えたベッドに人影を見つけて、すっかり忘れていたもうひとりの 重傷人を思い出した。 「わ、忘れてた……グリーセラ卿もいたんだっけ……」 酷いなぁ、ニコラさんの大事な人なのに。 「ああ………ゲーゲンヒューバーなら眠りっ放しだよ」 グリーセラ卿のこととなると、コンラッドの声がほんの少しだけ低くなる。これはたぶん よっぽど仲が悪いのではないかと思うわけで。 そういう人とずっと同室というのは神経がささくれて疲れそう。 「と、いうよりコンラッド、どこで眠ってるの?」 ベッドはふたつで、ひとつはグリーセラ卿が、もうひとつはグレタが使っている。 グレタと共用しかないと思うのだけど、コンラッドはドアを閉めながらあっさりと言った。 「俺は床で」 「ちょっと待って!船で二日、ここでも二日、もう四日も床で寝てるの!?」 「心配しなくても、俺は床どころか野宿で雑魚寝だってざらにあるから、それで十分に 休めてるよ」 朝食のために階段を降りながら、当たり前のように言うコンラッドに呆れる。 「でも今は別に軍役についているわけじゃないし、第一なんで街の宿屋の中なのに床 で寝なくちゃいけないの!」 「ベッドが空いてないからしょうがない」 いいえ、ベッドはもうひとつ空いています。 コンラッドが気付いていないはずはないし、わたしに気を遣っているのか、有利の釘刺し が効いているのか。 そう。わたしの部屋のベッドがひとつ空いているのです。 一階に降りると食堂のテーブルについて、コンラッドがメニューを並べる。 「なにが食べたい?」 「昆虫と爬虫類と両棲類以外……」 コンラッドは目を瞬き、ちょっと自棄気味のわたしを見て苦笑した。 「それは失礼。じゃあ魚にしておこうか」 何品かを注文をして、メニューを端に避けながらコンラッドは首をかしげた。 「チキュウでは、昆虫や爬虫類は食べないんだったかな?」 「地域によるね。わたしは食べたことない」 イナゴとか蜂の子とか、トカゲとか食用蛙とか、食べたことはない。見た目からして、 それらは食べる習慣がないと、ちょっと食べにくいというか……ね。 「コンラッドには納豆を進呈してみたいわ……クサヤとか」 西洋の人にはきっと慣れない味に違いない。 つい話が逸れてきていることに気がついて、慌てて軌道修正に乗り出す。 「それでコンラッド、さっきの話なんだけど」 「どこで休むかの話?フロントで部屋が空いてないか聞いてみるよ。昨日は空いて なくて」 「……あ、そ、そう」 あっさりと解決してしまって肩透かしを食らった気分だった。 だって本来ならわたしとグレタ、コンラッドとグリーセラ卿が妥当だと思うけれど、コン ラッドがグリーセラ卿をそこまで嫌いなら、グリーセラ卿はグレタと同室になってもら って、コンラッドはわたしと一緒の部屋の方がいいかとか……結構迷っていたのに。 「の気持ちは嬉しいけど」 「え?」 テーブルの上に放置していた手が、一回り以上大きな手に覆われた。長い指が手の 甲を滑るように優しく撫でて、段々と上に上がってくる。 「あ、あのぉ………」 袖の中まで指が入ってきて、手を引こうとしたのに手首をきゅっと掴まれた。 「ふたりきりの部屋で本当に一晩を過ごすとなると、ちょっと理性に自信がないな」 「そ、そーれーはー……」 困ったね、と言いかけて慌てて言葉を飲み込んだ。 恋人を相手に、その状況に困ったはないと思う。困ったは。 コンラッドのことは本当にすごく好きだけど、そういうことをするのは、まだちょっと怖い。 むしろ困ったチャンはわたしの方ですね……。 「ご、ごめんね………?」 迷った挙句、結局困ったと言ったのと大して変わらない言葉になってしまったけれど、 コンラッドは苦笑するだけで怒りも急かしもしなかった。 朝食の後、昨日の女性たちの様子を見に行きたいと言ったら難しい顔をされた。 どうにも、魔術を使う疑惑がまだ晴れていないらしい。 「大丈夫、ちらっと、遠めでちらっと覗いてくるだけ。彼女たちの大半はスヴェレラ出身 だから、魔族は苦手―――」 コンラッドに口を塞がれた。いくら双黒と知られたからといって、なんでもないときにも ここにいますと主張することはないだろうということで、わたしは今もウィッグ着用中。 黒髪がめちゃくちゃ目立つので、ちょっと隠すだけで案外効果があったりする。 だけど、大声でそれをバラしてしまえば全ては水の泡というやつで。 「ようやく見つけましたよ、殿下!」 バーンと派手に両手でドアを開けて入ってきたのは赤毛の美女、フォンカーベルニコフ卿 アニシナさん。 「アニシナ……」 コンラッドは大きな掌で顔を覆って溜息をつき、わたしは驚いて椅子の上で固まったまま。 「ミッシナイの商人よりあの焼け跡他、周辺一帯の所有権利は殿下にあると聞いてお探し しておりました」 小柄な身体に似合わないほど大股で、周囲の注目なんて気にも留めずにこちらのテーブ ルまで一直線。 「失礼、座っても宜しいでしょうか?ああ、わたくしはすぐに出るので水で結構」 宜しいでしょうかと聞きながら既に座っている。後半は注文を取りに来た店員に向けて。 「え、待ってください!わたしに所有権利って、西地区の?」 どうしてそういうことに。 「それはそうじゃないか?なにしろあの土地と賭けたものはの身柄だし、賭けの配当 でいえば、土地の権利はのものだ」 「そ、そんなあっさり言われても」 わたしはとにかくあの不当労働を強いられている女性たちを解放したい一心だったわけで 第一、最初にあの場で商談していたのはヒスクライフさんなのに。 「そういう事情はどうでもいいのです。殿下にはこれに許可をいただきたいだけですから」 見るとそれは、新店舗計画と営業許可申請書だった。 「……どうでもよくないのでは。思いっきり、権利者執行の書類じゃないですか」 そう言いつつも、昨日の今日で一体どういう計画が成ったのかが興味深くて書類を見て しまう。 編み物工房と発明品複製所、それからそれらの販売店舗。おまけに焼け跡の区画整理 まで叩き台を出している。 「発明品?」 「……アニシナ、君の発明品は人間にも効くものなのか?」 コンラッド……訊ねておきながら、むしろ効かないでくれって小さく呟くのはどういう意味? 「おや、ウェラー卿。あなたまでグウェンダルのように浅学ではいけませんね。よくない ところまで兄を見習うものではありませんよ。もちろんです。わたくしの発明品は魔動製 の物が多いとはいえ、魔力を必ずしも必要としないものも存在しますからね」 編み物工房に発明品の工場。それに販売店舗まで。 ……結構な人数を雇用する必要がありそうな計画だよね……? 「聞けば彼女たちは文字を読むこともできないとのこと。女は学ぶ必要がないなどという、 前時代的で愚かな男の主張により学を得ることのなかったお陰で、職を選ぶこともまま ならない女性を救うには、まず教育です」 わたしは驚いて書類からアニシナさんに顔を上げる。 彼女たちというのは、昨日の女性たちだろう。そうか、アニシナさんは彼女たちの再雇用 方法を考えてくれたんだ。 「夜間に望むものには文字などの学問を、昼は普通に工房、店舗して営業すればなんの 問題もありません。どうです殿下。わたくしの計画書にサインをいただけますね?」 「え、ええっと……」 個人的には今すぐサインしたいです。したいけど。 「採算とか、営業見込みはあるんですか?」 アニシナさんは、意外な展開に驚いたようにひょいと片方の眉を上げる。 「まるでデンシャムのようなことをおっしゃいますね。昨日あれほど彼女たちのために お力を使われた殿下なら、一も二もなく賛同してくださると思ったのですが」 「工房、店舗を展開したはいいけれど、早々に潰れてしまえば、また彼女たちが路頭に 迷うことになります。中途半端な計画を立ち上げる方がよほど彼女たちのためになりま せん」 アニシナさんは二、三度瞬きして、にやりと笑った。お、男前な笑顔だなあ。 う、しかも待って、気が付けば権利者として話してない? 「そ、その前に、わたしは土地の管理なんか心得が……」 「では、委任という形を取れば良いのでは?」 アニシナさんの一撃で壊れかかった扉から入ってきたのはヒスクライフさんだった。 今日はかつら着用。 「おはようございます、オギン殿」 「おはようございます、ヒスクライフさん。ところで、委任って」 「土地の運用を雇ったものに任せるのです」 「いえ、それは判っていますけど……」 戸惑ってテーブルに置いた指が計画書に触れた。 視線を落とすとテーブルにはアニシナさんの計画書と営業許可申請書。 そういえば、アニシナさんはヒスクライフさんに土地の権利者をわたしと聞いたって……。 「……ヒスクライフさんなら、この計画どう思います?」 計画書を取り上げて差し出すと、ヒスクライフさんは受け取ることなくにこりと笑う。 「もう少し煮詰める必要はあるでしょうが、よく出来た計画ではないでしょうか」 元々わたしは、西地区の権利者はヒスクライフさんになるだろうと思ってたんだよね。 「ヒスクライフさん、土地利用執行の代行なんて仕事はなさってませんか?」 「へえ、そんなことになったんだ?」 有利とヴォルフラムは昼前にようやく起きてきて、先に昼食をとるとグレタも含めて全員 で湯治に向かった。 昨日助け出された少女たちはみんな容態も安定していて、心配いらないというお墨付き をもらったので、双黒の魔族は敢えて近付かない方がいいだろうと様子を見に行くことは 断念したのだ。 温泉に浸かりながら今朝の顛末を有利に語ると、感心したように頷く。 「が土地持ちかー。土地ころがしとか地上げとか……」 「有利……わたし、どこのやくざ?」 土地の所有というとそんなイメージしかないの? お兄ちゃんなんか、こんな事態なら楽しんで事業計画を立てそうだなあと思ったけど口に 出すのはやめておいた。有利には日本のことはあまり言わない方がいいだろうから。 「ヒスクライフさんに全権委任してきたから、結局なにもしてないのと同じだけどね」 「ぴっかりくんなら安心だな。この温泉パラダイスも繁盛してるみたいだし、なにしろおれ だってグレタを預けるくらい信頼してるもんな」 有利がにっこりと微笑みかけて髪を濡れた手でひと撫ですると、グレタはぎゅっと有利の 腕に抱きついた。 ヴォルフラムの眉がぴくりと上がるけれど、さすがに養女相手に嫉妬するわけにもいかな いらしく、微妙な表情のまま口を噤む。 わたしといえば、そんな微笑ましい親子のスキンシップを見ながらお湯の中で腰を触る 手をつねり上げようとして……逃げられた。 |
娼館とか夜の歓楽施設などのある種の『楽園』のその後。 今度こそ、本当に誰もが楽しめる『楽園』になればいいですね。 |