女の子が窓から身を乗り出して。 誰かがきっとなんとかしてくれるから早まるなと祈って、誰かって誰だと考えてしまった。 その誰かに、どうしておれがなろうとしない? 隣の櫓からが使えなかったはずの魔術を使い、声にならない悲鳴を上げてうずくまる。 どうしてが、妹があんなに苦しんで、おれはなんにもしていないんだ。 誰かじゃない。 おれがどうにかしたいんだ。 女の人の声が聞えて、気がつけば宙に浮いていた。 049.愛という意味(1) 「グレタか。はどうだ?」 「いっぱい動いているよ」 遠くから声が聞えて、意識が浮上してきた。 薄っすらと目を開けたら瞼の裏まで明るくなったのかと思うくらい、目の前が真っ白になる。 光が収まってきて、真上に見えたのは金の髪と碧の瞳だった。 全然遠くの声じゃなかった。実際は、すぐ真上。 真上? 「………って、なんでまたお前の膝枕なんだよ!?」 思わず横に転がって、ヴォルフラムの膝から転がり落ちる。 「起きたのか。随分早いな」 「ユーリが起きた!に報せてくるね!」 せっかくおれが起きたのに、愛娘はおはようも言わずにどこかけ駆けて行く。 地面から起き上がると、ひどい眩暈と頭痛が襲ってきた。 「う……わ………後頭部がいてぇ、吐きそう……喉が渇いた……」 「あれだけ大きな術を使えば、いつもなら相当長く眠るのに、今回は半刻ほどしか眠って いない。頭痛も吐き気も当然だろう。もう少し眠っておけ」 「い、いや……」 男の膝枕はもういい。 の膝枕ならもうちょっと寝ようかな、と思ったらそのがいなかった。 「あれ、は?コンラッドも……あ!それにビロンだよ!女の子たちはどうなった!?」 ヴォルフラムは溜め息をついて、座り方を変えて男らしく胡坐を掻く。 「まず、あの俗物はヒスクライフが当局へ連行した。娼館も鎮火した。これだけの規模の 火災で死者が出なかったことは奇跡とも言える。硫黄臭い湯が降り注いだ結果だが、 例によってお前は覚えていないんだろう?」 「え?あれ、いや、覚えてるよ。おかしいな、いつもならすっかりぽんと忘れてるのに」 まずい、変な口癖が伝染っている。 「龍、だよな。そうだ朧気だけど覚えてる。いつもなら、女の人の声が聞えて意識が途切 れるのに……」 女の人?女の人ってだれだ? 「焼け跡では現在も救出作業が続いている。お前ならそう望むだろうと、コンラートはそこ で手を貸している。は……」 なぜかそこでヴォルフラムはむっと口を閉ざす。 「え?なに、がどうしたの!?」 そんな気になるところで止めるなよ。確かにが苦しんでいるところで魔術が発動して、 そこから先の記憶は朧気だけど、コンラッドに支えられて立ち上がったところは見たんだ。 なのになんでここにいない? 「ユーリ、お水」 後ろから声が聞えて振り返ると、グレタが慎重な足取りで水を持ってきてくれた。さすが おれの娘だ。なんて気が利くんだろう。 感動して木のコップを受け取ると、ほぼ一気に飲み干してしまう。 「おかわりいる?」 「いや、大丈夫だよ。ありがとうグレタ」 「が持っていってって言ったの」 「!?はどこにいんの!?」 いくら三度目でもう心配いらないとわかっていても、ぶっ倒れたおれの側にがいない なんて、考えもしなかった。 「あっちだよ」 グレタは自分が歩いてきた方を指差した。 「怪我した人を助けてるんだよ」 「えええ?」 「コンラートはここから動くなと言ったのに、のやつ、応急処置の手伝いくらいは できると、コンラートがいなくなった途端に行ってしまって……お前を置いて追うわけに もいかないし、後で誰が小言をくらうと思っているんだ。まったく!」 ヴォルフラムが怒ったわけだ。コンラッドはが絡むと心配性で口うるさいから。 「そ、そっか。が頑張ってるなら、おれも行かないと」 「人の話を聞いているのか!?いいからお前は横になれ!少しでも体力を回復しろ」 「おれだけ寝てるわけにはいかないよ。イズラもニナもいる。だって頑張ってるのに」 おれが立ち上がりかけて態勢を崩すと、慌ててグレタが喉笛一号を握らせてくれた。 足の怪我ではなく、全身に力が入らない。これも魔術の影響か。腕のデジアナを確認 するとほんの一時間ほども眠っていないようだった。 よろめくおれをグレタが支えてくれて―――実際には反対側にいるヴォルフラムが腕を 引き上げてくれていたんだけど―――現場につくと、焼け落ちた木造建築の建物とその 手前の草の上ですすり泣く負傷者の姿に愕然とした。 「ろくに手当てが進んでないじゃん!医者、医者は!?」 辺りを見回すと、医療者は忙しく飛び回っていた。負傷者の数が多すぎて、手が回らない のだろう。 「もいるよ。あそこ」 グレタがつま先で立って向こうの方を指差すと、その先にはヒラヒラのドレスの裾を括って 包帯と消毒液を持ったが次の患者のところに移動している。 「……うん、よし。魔術を使っているわけじゃないんだな」 ヴォルフラムがほっと息をつくと、グレタが首を振る。 「大きな火傷は魔術で治していたよ」 「ーーーっ!!」 ヴォルフラムの怒鳴り声に、女の子たちの何人かが怯えて顔を上げる。 もこっちに気が付いて、おれを見て少し笑ったもののどうも顔色が悪い。 「まったく!あいつはっ」 ヴォルフラムがの方へ行こうとおれから手を放した途端、おれの体が斜めに傾いて、 慌ててまた腕を掴んで引き上げてくれる。 「お前たちはいい加減にしろ!ユーリ、あちらへ戻って休め!」 「そういうわけにはいかないだろ。だって頑張ってるんだ」 「最初は、魔族に触られたくないって子もいたんだよ」 グレタが消え入りそうな声でぽつりと呟いた。 怒鳴り散らしていたヴォルフラムもぴたりと口を閉ざす。 子供は、今にも泣きそうに顔を歪めて、手当てを続けるをまっすぐに見ていた。 「怖いって、触らないでって。でもは気にしないの。他にも手当てしなくちゃいけない 子がいるから、少しの間だけ我慢してって優しく言って、ひどいことを言った子の傷も治して あげたんだよ」 思えば、おれが最初のスタツアでギーゼラの手伝いをしたときも同じようなことを言われた。 なにを企んでいるんだとか、魔族に触られたら呪われるとか。 ここにいる少女たちは、そのほとんどがスヴェレラの国民だ。魔族と恋に落ちただけでも、 収容所に隔離されるような土地で育ったのなら、過剰な反応が返ってくることもあるだろう。 が働かずにいられないのは、彼女たちに対する同情もあるだろうけれど、たぶん負い目 もある。彼女たちを解放するための賭けだったけれど、賭けがなければ火をかけられること もなかったわけで……。 は、全然悪くないのに。 顔色が悪かった。こんな空気の中で、怪我人の呻き声やすすり泣きに囲まれて、長時間 ひどい火傷や火脹れ、裂傷なんかと対峙していれば気分も悪くなるだろう。はプロの 医療従事者じゃない。 「やっぱ、妹が頑張ってんのに、兄貴が撤退するわけにはいかないよな」 「ユーリ?ひょっとして、そこにいる?」 下のほうからか細い声が聞こえて、おれが腰を落すとヴォルフもしゃがみこんでくれた。 「イズラ?顔が……煤がついてて判らなかったよ」 おれを美人局の罠から救ってくれた女の子で、魔族だと知っても、態度を変えずにいて くれた子。自分よりも友達の心配ばかりをしていたイズラがおれを見た目は、濁ってなに も映していないようだった。息を飲む。 「ねえ、ニナに会った?途中まで一緒だったんだけど、あたし目が見えなくなっちゃって」 「目が…いや、ニナには会ってないよ。でもきっと大丈夫だと思う。亡くなった人はいない らしいから。それよりとにかく、きみの傷を治そう」 腕にも脚にも、痛々しい火脹れや打ち身が浮かんでいた。喉をやられたのか声もおかしい。 イズラの手を取ろうとしたら、くらりと眩暈がした。 同時に、後ろから羽交い絞め状態で引き起こされる。 「陛下!」 「あー……コンラッド?平気、平気、ダイジョブ。ただの立ち眩み」 「ヴォルフラム、離れたところで休ませるようにと頼んだだろう」 「ぼくに言うな。そいつが勝手に歩くんだから」 「は?が一緒にいてこの状態の陛下を動かすなんて……」 おれは、コンラッドにひっくり返されたままヴォルフラムを見た。逆さに見えるヴォルフも、 ちらりとだけおれを見る。お互い無言。 「はあっちだよ」 グレタはこの微妙な空気に気付かないのか、それともが良いことをしているのだから 問題ないと判断したのか、あっさりと教えてしまった。 がいる方向を見て固まったらしいコンラッドに心の中で合掌。 今、が魔術を使っていないことを祈る。 グレタが一人一人の顔を覗いて、ニナを捜し始めた。ひとつでもイズラの心配が減るように と、できることをし始めたのだ。 「と、とにかくおれもやるぞ……気休め程度しかできないかもしれないけど……」 コンラッドの腕から起き上がろうとして失敗する。身体にさっぱり力が入らない。 「駄目です」 コンラッドは固い声で、おれの脇の下を掴んだ手にぐっと力を入れた。 「なんで!?ヒューブのときとは違うだろ?イズラはおれを助けてくれたんだ!」 「自分がどれだけ消耗しているか、考えてください!」 「できることだけでもやりたいんだよ!放せよっ!」 「それであなたが倒れたら、いったい誰が治してくれるんですか!?どんなに強大な魔力 を持つものでも、必ず限界がある!それを弁えずに乱用すれば、命に関わることだって あるんだ!慣れない力で疲れ切った身体と魂を、再び酷使させるわけにはいきません」 見なくても、コンラッドがどんな顔をしているのかわかる。本気で心配してくれている。 おれがくたくたで動けないほど疲労しているのもわかってる。だけど。 「だけど、この子達は、家族のためにこんな遠い異国まで連れてこられたんだ。それなの に、こんな目にまで遭って!……その原因が、スヴェレラでおれがやった馬鹿な行動に あるのに、どうしてゆっくり休めるっていうんだよ」 「陛下、それは……」 「だから、できることだけでもしたいんだ。罪滅ぼしになんかならなくてもいい。自己満足の 余計なお世話かもしれない。でも、できることをしたいんだ!」 「これはどういうことなのですか!」 おれの叫びに、怒りの声が割り込んできた。 燃えるような赤毛を高く結んだ小柄なご婦人が、片手にトランクを三つずつ、背中に木箱を 二つ背負って立っていた。あの細腕で、どういう力の持ち主だ。 「アニシナ?きみが何故ここに」 どうやらコンラッドの知り合いらしい。美人だけど気が強そう。 「その前に、ウェラー卿、あなたが抱えているこのだらしのない物体は、髪と瞳の双黒から すると、我々の敬愛する陛下のようですが。ああやはりそのようですね」 「アニシナ、今はそれどころでは……」 「お久しぶりです陛下。戴冠式の日以来ですね。もっともわたくしは十貴族の末席で陛下 が覚えておいでかは存じませんが。それよりこの事態はいったいどういうことですか?」 最後だけ、コンラッドに向けて。 今まで色んな貴族に会ったけど、ここまで自分のペースのみでことを進める人も珍しい。 おれは困惑していたが、どうやら旧知らしいコンラッドでも困っていた。 「ついに愚かな男どもが共謀して、気高く賢い女達を攻撃し始めたのですか!?とにかく、 せっかくこの場に居合わせたのですから、手始めに負傷者の治療でもいたしましょう。 魔族への畏怖と尊敬の念を植え付けること、やぶさかではありません」 「ち、治療してくれるの!?アニシナさん!」 「おや陛下、陛下は強大な魔力をお持ちだとツェリ様からもお聞きしましたが」 「アニシナ、陛下は酷くお疲れなんだ」 コンラッドが声に力を込めたというのに、アニシナさんは屁でもないとばかりに鼻で息を吐く。 「そのような過保護な取り巻きが軟弱な男を作るのです。ぶっ倒れるまで魔力を使って 御覧なさい。なんでしたら、わたくしが担いで帰って差し上げましてよ」 にやりという男前な笑い方が、こんなに似合う女性も珍しい。 イズラの傷を治すためにしゃがみこんだアニシナさんの背中を見ながら、おれはつい近くに ヴォルフがいることも忘れて本音を漏らしてしまった。 「なんか……すげえいいよなあ、アニシナさん……」 言ってからはっと気付いたが、いつまで経ってもいつもの怒鳴り声が聞こえない。 軽く肩を叩かれた。 「それだけはやめておけ」 やってきたのは、ヒステリックな怒鳴り声じゃなくて、心からのアドバイスだった。 |
コンラッドが目を離すと兄妹揃ってすぐこれで……。 燃える女、アニシナの登場はもっとじっくりしたかったのですが。 |