大きな木が中央に位置する広場の横の娼館からは、ごうごうと火の手が上がっている。 女の子たちは昼間は休憩の名の元に閉じ込められて、自力で脱出なんてできない。 よほど周到に用意していたのか、火の回りが速くポンプ車による消火活動はまるで間に 合わない。 三階の窓が開いて、金の髪をした女の子がそこから身を乗り出す。 無理だよ、下は石畳なんだよ?絶対に怪我をする。もしも落ち方が悪ければ……。 目に映ったのは、広場の木。 もちろん娼館の窓から飛び移ることなんてできる距離じゃない。 だけど、魔術でなら娼館の下まで吹き飛ばすことができるかもしれない。 この角度なら、失敗さえしなければポンプ車にぶつかることなくあの一番大きな枝を吹き 飛ばすことができる。その上に飛び降りたからって無事で済むとは限らない。でも、クッ ション代わりにくらいはなるかもしれない。 だけど、それには魔術の緻密なコントロールが必要だ。 一度もまともに魔術を発動したことのないわたしにできる? できるか、じゃない。 ………やるんだ。 048.今、この瞬間(3) 「風に属する全ての粒子よ!」 ヴォルフラムの言葉を思い出して。集中して、要素を感じて、掌に。 「!今のお前に魔術はまだ無理だ!使いこなすどころか、まともに成功したことも ないだろう!まして、ここは人間の土地だぞ!?」 ヴォルフラムのもっともな制止の声が聞えたけれど、だって可能性を捨てたくない。 「!」 集中をして、風の要素を感じて、それから………。 ―――まだ、早い。 冷たく凍えた女の人の声が頭に響いた。 足元に深く暗い穴が見える。 この穴は知っている。小さい頃から、何度も夢に見た。 穴の淵に膝をついて、そっと手を伸ばす。 ガラスみたいな透明な蓋があるかのように、穴の中には手を入れることができない。 ぺたりと暗い穴の上に掌を置いた。 すうっと闇に浮かぶように白い手が穴の中から伸びてきて、ガラス越しにわたしと掌を 合わせた。 ―――まだ、早い。 女の人の声だ。何度か聞いた、あの眞王陛下の声じゃない。 じゃあもしかして、この手が、この声が、わたしの前世の人? まだ早いというのはなんのことだと考えて、今自分がしようとしていることを思い出した。 魔術を使うのが、早いと? 「早くない!」 ―――まだ、早い。 「あの子を助けたい!わたしは魔術が使えるんでしょう!?」 ―――まだ、早……。 何度訴えても同じ言葉を繰り返す冷たい声に、昨日から続く腹立たしさも相まって、 冷静さの欠片もない苛立ちが爆発した。 「っ………邪魔しないで!今、ここで力がいるんだからっ!!」 まるで薄い膜を突き抜けるように手がめりこんで、氷のように冷たい白い手を直接 掴んだ。 「我が意思をよみ、そして従えっ!」 目の前に暗い穴も白い手もない。あるのは、標的の巨大な広場の木。 掌に集約した風をまっすぐに木に向けて解き放った。 同時に、女の子が三階の窓から飛び降りる。 風は唸りをあげて剃刀のように、そして弾丸のように進み、計算どおりに巨木の大きな 枝を娼館の真下まで一気に吹き飛ばした。 間一髪、女の子は枝を巻き込むようにしてその上に落ちてきた。 「で、でき……」 魔術の成功に安心するだけの余裕はなかった。 突然、白い手を掴んだ右手に激痛が走る。 「い…………っ」 まるで捻りあげられているような、切り裂かれているような、焼けるような、溶け出して いるような。 「………た……ぁっ!」 「!」 右手には触れた。溶けなんかいない。 だけど、灼熱の痛みにどろどろと腕が溶けているかのような錯覚に陥る。 「!どうしたんだ!?」 切羽詰ったような声がすぐ横から聞えたけれど、返事をするどころか顔を上げることも 出来なくて、ただ首を振る。 痛みにびくびくと震える右腕を押さえながら、喉が詰まって悲鳴すら上がらなかった。 熱い、痛い、苦しい、怖い。 痛みと、なにが起こっているのかわからない恐怖にぎゅっと目を瞑る。 「落ち着いて」 誰かに抱き寄せられて、優しい声が聞えた。 「落ち着いて、大丈夫だから」 右手を押さえる左手ごと、上から包み込む大きな手が労わるように何度も優しく摩る。 「大丈夫だよ、右手はある。大丈夫だ。落ち着いて、まず息を吸うんだ」 力強くて、安心できるその声は。 ああ、コンラッド、だ。 強く抱き寄せる腕と、優しく右手を撫でる手の持ち主がわかったら、急に安心できて 力が抜けた。 同時に、信じられないような激痛は、潮が引くように小さく萎んで消えていった。 そっと顔を上げると、心配そうなコンラッドの瞳とぶつかった。 「コ……ンラッ、ド……?」 「……」 ほっと息をついて、コンラッドが強く抱き締めてくれる。 「無茶しないでくれ」 成功したことのない魔術をぶっつけ本番で使うというのは確かにかなり無謀なこと だよね。 「ご、ごめんなさ……あっ!さっきの子は!?」 そもそも魔術を使った原因の女の子はと櫓に手を掛けて萎える身体を引き上げる と、後ろからコンラッドが支えてくれた。 「ああ、無事だ。ほら、木の枝から自力で這い出してきた」 コンラッドが教えてくれたとおり、吹き飛ばした枝の間から金の髪の女の子が降り ているところが見えた。 だけどそれで安心することなんてできない。まだ、燃える建物の中にはたくさんの 女の子が残されているんだ。 「水の魔術で……」 「!」 コンラッドが悲鳴のような声を上げて、後ろからわたしを閉じ込めるように抱き締めた。 右手も左手も動かせない。 「駄目だ。絶対にさせない!」 「だけど……」 一度成功したからって、二度目もあるとは限らない。それに、一度目のあれも正しく 成功と言えるのかは謎だ。 一応目的は果たせたけれど、なにを失敗したのか灼熱の痛みで我を忘れかけたの だから。 もう一度魔術を使えば、あの痛みが襲ってくるかもしれないと思うとぞっとした。 痛みと共に、腕がどろどろと溶けているような錯覚も恐ろしかった。 痛いのも熱いのも錯覚も怖い。 だけど、大勢の人の命が掛かっている。わたしの手は、結局こうして無傷だ。 「コンラッド、お願い、やらせ……」 もう一度娼館の方を見ると、空中に有利が立っていた。 「日々の糧を与える善人の仮面を被り、その実、年端もゆかぬ少女を食い物にして、 搾取と蹂躙を繰り返す」 この状態の有利を見るのは三度目になる。 ヒルドヤードの豪華客船の中と、スヴェレラの寄場と、そして今。 「ここは陛下にお任せして」 コンラッドが後ろからわたしを抱き締めて耳元でそう囁いた。この状態の有利が使う 魔術が桁外れなのは、身を以って知っている。逆らわずに頷いて、成り行きを見守る ことにした。 「……挙句の果ては悪事が露見すれば、開き直ってすべてを灰に帰そうと火を放つ。 すわ道連れかと思いきや、己だけはのうのうと生き伸びんとは……」 鋭い視線、よく通る低い声。どうして有利は、いつも魔術を使うときにいつもこんな状態 になるんだろう? ……わたしの中に誰かがいたように、有利にも誰かがいるのだとしたら。 冷たく凍えた声と、氷のようだった白い手を思い出して背筋が寒くなる。 もしそうなら、いつも有利自身に魔術を使った記憶がないというのはいかにも嫌な感じ だった。 「人の皮を被った獣めが。否、獣にも掟と倫理があろう、それさえも持たぬ外道など 生きる資格なし!死して屍拾う者なし、野晒しの末期を覚悟いたせ!」 どこからともなく地響きが襲ってきて、櫓の上はものすごく揺れる。 有利は人差し指をビシリと悪徳商人に向けた。 「悪党といえど、命を奪うことは本意ではないが……やむをえぬ、おぬしを斬る!」 斬る、と言ってこの有利の魔術が実際に誰かを斬ったことはない。その点は心配して いなかったけれど、だからって地響きと共に地中から水が吹き出して、それが龍の形 になったのは驚いた。 三つ又に分かれた龍は、一体は懲罰に、二対は火災現場に向かう。 水は勢いよく吹き出しているし、この分だと火は消し止められる。 目の前を、ルイ・ビロンを飲み込んだ龍が通り過ぎた。水の中で息ができないのだろう。 苦しそうにばたついているけれど、同情する気にはなれない。心配しなくても、有利は 上手く加減するだろうし。 つんと嗅覚を刺激する匂いに気がついた。 「……硫黄?」 「ああ、これ温泉だね」 水龍ならぬ、温泉龍。 「おかしいぞ」 隣の櫓から、ヴォルフラムのいぶかしそうな声が聞こえた。 「龍だと?おかしい、あいつの魔術がそんなに上品なわけがない」 酷い言われようだなあ、有利。 「ヴォルフ、それは言い過ぎだろう」 コンラッドも同じことを思ったらしく、一応の注意をしてくれるけど、ヴォルフラムは納得 していない。 「いや!明らかにおかしい。……もしかして愛人でもできたのか!?それでいいところ を見せようとしてるんじゃ……」 愛人って、いつそんな暇があったんだろうか。ヴォルフラムって想像力豊かだよね。 「……かっこいーい……」 うっとりと呟く声に振り返ると、グレタが目を輝かせてユーリを憧れと尊敬の眼差しで 見つめていた。 「娘にいいところを見せたかったのか」 すっかりパパ気分なわけね。 温泉が地中の移動路を確保したお陰で振動が弱まって、よろよろと揺れの収まった 櫓の上で立ち上がると後ろからコンラッドが支えてくれた。 「、無理しないで」 「ん、もう大丈夫。今回は有利に引き摺られなかったみたいだし。きちんと成功して いなくても、魔術の訓練をしていた成果かな」 「……じゃあ、やっぱりさっきのは陛下とは関係なく、魔術を使ったせいなんだね?」 ……しまった、今回も有利に引っ張られたことにしておけばよかった。 コンラッドの表情が心配モードスイッチオンになってしまった。 「どういうことだろう……?ヴォルフ、魔術を使って今回のみたいな反動はある ものなのか?」 「……人間の土地だったことが影響したのかもしれない。とにかく、国に帰って兄上と 相談した方がいいだろう。原因が究明できるまで、魔術の訓練は中止だぞ、」 「えーっ!?で、でも……」 原因の究明って……ずっとできないんじゃないの? だって、痛んだ箇所から考えても、あの白い手の持ち主が原因なわけで、そして あれはきっと、眞王廟で聞いた前世とかいう人じゃないかなー、と思うわけですよ。 やだなぁ、人の中に大きな穴を掘って引きこもっている人がいるんですけどー。 冗談めかして考えてみても、段々と不安が大きくなってくる。 いっそ、コンラッドに聞いたことと見たものをすべて話してしまおうかとも考える。 でも眞王陛下の言いつけを破ったときの罰、というものが気になる。 内密にと言われていたことを破ったわたしだけならともかく、コンラッドにまで罰が 下ったら? やっぱり言えない。 ぎゅっとコンラッドの服を握り締めると、その後ろに火が収まった広場が見えた。 |
無事に女の子は助けることができて、火も消しとめられました。 ですが、釈然としないものが残ってしまったようです。 |